学位論文要旨



No 110931
著者(漢字) 熊井,玲児
著者(英字) Kumai,Reiji
著者(カナ) クマイ,レイジ
標題(和) 開殻ドナー分子の合成とその一電子酸化状態における分子内交換相互作用
標題(洋) Preparation of Open-shell Donors and Intramolecular Exchange Interaction of Their One-electron Oxidation States
報告番号 110931
報告番号 甲10931
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博総合第62号
研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 大阪市立大学 教授 工位,武治
内容要旨

 最近、純粋な有機強磁性体が誕生し注目を集めている。しかしながら、それらの強磁性相への転移温度は1K前後であり、スピン整列機構に関する精緻な理論的な考察を行ない、それに基づき、有機分子磁性を利用したデバイス等の開発を指向するには、この転移温度はあまりにも低すぎると言わざるを得ない。本論文では、これからの有機分子磁性の展開として、より高い転移温度を示す可能性が高く、かつ強電子相関の問題として物性論的にも興味深い「有機磁性金属」を目指すことの重要性を指摘し、その構成要素となるべき新しい磁性分子の設計・合成的研究について論述している。第1章は序章であり、「有機磁性金属」とは何か、またそれが実現した場合の物質科学における意義について述べている。本来反磁性である有機分子性物質で伝導電子を介した局在スピンの整列が実現しうる有機磁性金属を創出するには、新規な電子構造を有するドナー性(電子供与性)有機分子を設計・合成しなければならない。そのためには、分子内に伝導電子・局在スピンをそれぞれ担う部位が必要なこと、さらにそれらのスピン間に強磁性的な交換相互作用が働くことが重要であることを指摘している。本論文では、その目的に沿った新規ドナー分子の設計として2つのアプローチが提唱されている。

 第2章では、有機磁性金属を構成する分子設計の第一のアプローチとしてツインドナー分子1を合成し、それを用いたラジカル塩の物性に関して述べられている。ツインドナー分子は分子内に二つの等価なドナー骨格と、さらにそれらがともに一電子酸化を受けたときに生ずる、2つの不対電子を強磁性的に結ぶ接合部位から構成されている。ドナー骨格としては、有機合成金属を与える点で有効性が確立しているBEDT-TTFの骨格を用い、また、接合部位としては超共役の効果が期待されるメチレン鎖を利用している。ツインドナー分子のそれぞれのドナー部位は、カチオンラジカル塩結晶中の環境の違いに基づき、混合原子価を担う部位と、孤立スピンとを担う部位に機能分離される点に特徴をもつ。実際、新規に合成したツインドナー分子を用い、電解結晶化法によって特徴ある集合体構造をもつラジカルイオン塩を作成し、有機磁性体あるいは有機導電体を個別に得ることに成功している。しかしながら、当初目的としたように結晶中で、2つのドナー部位に異なる機能を発現させ、磁性と導電性を併せ持つ物質を実現させるには困難が伴うことが指摘されている。

図表

 第三章では第二のアプローチとして、磁性・伝導性を担う機能を分子レベルで分離させることを提唱し、その目的に沿った開殻ドナーの設計・合成に関して記述されている。開殼ドナー分子はドナー部位と安定ラジカル部位とから成り、それらが交差共役によって接合した構造を持つ。ドナー部位としては代表的な有機ドナー分子であるTTFあるいはトリフェニルアミン骨格を選択し、局在スピンを担う部位としては安定ラジカルであるニトロニルニトロキシドを用いている。トリフェニルアミン骨格を有する開殻ドナー3,4を常法に従い合成し、スペクトルデータから構造を決定している。また、3に関してはX線結晶構造解析も行い、目的の開殼ドナーが得られていることを確認している。またTTF骨格を有する開殻ドナー2は通常の方法では合成が困難であったが、非極性溶媒を用いた合成法によって、目的のドナー分子を合成することに成功している。これら開殻ドナー分子の中性状態での磁化率の温度変化を測定することによって、結晶中でいずれも反強磁性的な相互作用が存在することが明らかされた。

 第4章では開殻ドナー分子をヨウ素により一電子酸化し、カチオンビラジカルを発生させ、分子内の交換相互作用についての考察を行っている。開殻ドナー2を酸化して得られた溶液のESRスペクトルは三重項の微細構造を示すが、このスペクトルの零磁場分裂定数をシミュレーションによって求め、その値からこの三重項シグナルが分子内ビラジカル(2+・)に帰属されることを明らかにしている。また、シグナル強度の温度依存性からこの三重項シグナルが熱励起種によるものであることを結論し、分子内の2つのスピン間の交換相互作用の大きさ(J/k8=-100K)を決定している。一方、トリフェニルアミン骨格を有する3および4を同様に酸化し、極低温、剛性溶媒中でESRスペクトルを測定することにより、共に三重項種に基づくシグナルを得、これらのシグナル強度の温度依存性より、3+・,4+・がともに基底三重項種であることを明らかにした。この3+・,4+・に見られる分子内の正の交換相互作用の存在は、「磁性金属」構築において不可欠の要因である。

 このように一電子酸化状態で三重項種を与える開殻ドナー分子の電子構造に関しては、さらに半経験的分子軌道計算を行い、その理論的裏付けを行っている。すなわち、2+・では一電子占有された2つの軌道が重なりをもたないことからdisjointの系として、また3+・,4+・ではそれらが分子内で重なりをもつことから non-disjointの系として理解でき、これらが上記の実験結果とよく一致することを指摘している。またこの電子構造の違いにより、関連するフロンティア軌道の相互作用によって軌道エネルギーが上昇する場合と、有効な相互作用をもたない場合とがあることに着目し、サイクリックボルタンメトリー(CV)法による酸化還元電位の測定を行ない、母体ドナーの酸化還元電位との比較から電子構造の違いを矛盾なく説明できることを示している。このように、合成した開殻ドナー分子が一電子酸化状態で基底三重項種を与えるか否かを、CV法という比較的簡単な実験から予測する方法を確立した。

 以上の実験的成果は有機分子磁性研究において次のような意義をもつ。一連の開殻ドナー分子の一電子酸化状態は、性格の異なる2つのスピンからなる新たなスピン系であり、これらのスピン間の交換相互作用について実験・理論の両面から考察を加えた例はこれまで世界的にも皆無である。さらに、これら開殻ドナーのラジカル塩、あるいはCT錯体を作成することに成功すれば、金属的な電動挙動を示す強磁性体となること、また、分子内で比較的大きな負の交換相互作用をもつ開殻ドナー2を用いた錯体を作成すれば、高濃度近藤系など興味ある物性を示すことが予期される。このような意味で本研究は、スピン化学のみならず、今後の物質科学において重要な電子構造をもつ分子群を創出し、磁性物質開拓の方向性を示したものといえよう。

審査要旨

 近年、純粋な有機分子で構築された有機強磁性体が開発され脚光を浴びている。しかし、これら有機強磁性体の強磁性転移温度は1K前後であり、スピン整列機構に関する詳細な解析あるいはデバイス等の応用には、あまりにも低い転移温度が障壁となっている。本論文では、このような有機強磁性体研究の動向を念頭において、「有機磁性金属」の開発を提案し、そのモデルとなる新規物質の合成を行い、磁気的性質を中心とした電子状態の解析を行っている。磁性金属とは、伝導電子を介して局在スピン整列がもたらされる磁性物質であるが、有機物質でこのような物性を示すものは未だ報告されていない。伝導電子と局在スピン間の相互作用によって「有機磁性金属」が開発されれば、高い磁気相転移温度が期待されるばかりでなく、新たなスピン整列機構が提起されるのもと期待される。

 第1章においては、本来分子性物質である有機物で強磁性を示す導電性物質「有機磁性金属」を構築するための分子設計について述べている。筆者は「有機磁性金属」を構成する分子の設計指針として、分子内に伝導電子および局在スピンをそれぞれ担う部位が必要なこと、さらにそれらのスピン間に強磁性的な交換相互作用が働くことが重要であることを指摘している。これを設計指針として、伝導電子を担う部位には有機ドナーのカチオンラジカルを利用し、局在スピンを担う部位には有機ドナーのカチオンラジカルまたは安定ラジカルを用いることを提案している。即ち、前者の場合はカチオンラジカルを二つ結合させたツインドナー分子、後者の場合はカチオンラジカルと安定ラジカルを結合させた開殻ドナー分子の開発・物性評価を本研究の目的と位置づけている。

 第2章では、二つのカチオンラジカルを結合させたツインドナー分子を用いたラジカル塩の合成とその物性に関して述べている。ツインドナーの設計指針として、分子内に二つのドナー骨格を有し、さらにそれらがともに一電子酸化を受けたとき二つのスピンを強磁性的に結ぶ架橋鎖から構成されていることを条件にしている。ツインドナー分子のカチオンラジカル塩は、結晶中の環境の違いに基づき、非局在化した伝導電子を担う部位と、孤立スピンを担う部位に機能分離される可能性を持っている。これを基に、ドナー骨格としては多くの有機超伝導体を出現させるなど有機合成金属を与える点で有効性が確立しているドナー分子BEDT-TTF(ビスエチレンジチオ-テトラチアフルバレン)の骨格、二つのドナー骨格を結ぶ架橋鎖としては超共役の効果が期待できるメチレン鎖を用い、新規ツインドナー分子1の合成に成功している。また、電解結晶化法によりツインドナー分子のラジカル塩を合成し、その結晶構造、電気伝導性および磁性について解析している。即ち、この系では、ツインドナーの配座の自由度に基づく興味ある集合体構造をもつ有機導電体を得ることに成功しているものの、二つのドナー部位に異なる機能を発現させ磁性金属を実現させる分子配列が困難であることを指摘している。

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 第3章では、第2章の結果を踏まえて、分子内で非局在化した電子を有する部位と安定ラジカル部位を同一分子内に有する非対称開殻ドナー分子を用いた有機磁性金属の開発について述べている。新規に合成された開殻ドナー分子はドナー部位と安定ラジカル部位が交差共役によって結合した構造を持つものであり、ドナー部位としては代表的な有機ドナー分子であるTTF(テトラチアフルバレン)あるいはトリフェニルアミン骨格を用い、局在スピンを担う部位としては安定ラジカルであるニトロニルニトロキシドを用いている。このうち、合成が困難であったTTF骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた開殻ドナー分子2については、非極性溶媒を用いる合成法を考案し合成を成功させている。

 第4章では、第3章で述べた開殻ドナー分子を一電子酸化した状態でESRスペクトルの解析を行い、分子内交換相互作用について定量的な考察を行っている。TTF骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた開殻ドナー分子2を一電子酸化した状態については、TTF骨格上のスピンとニトロニルニトロキシド上のスピンが約100Kの反強磁性的交換相互作用で結合しており、観測されたESRシグナルは熱励起された三重項シグナルであることを明らかにしている。一方、トリフェニルアミン骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた二種類の開殻ドナー分子3,4を一電子酸化した状態については、極低温・剛性溶媒中のESRスペクトルの解析より、いずれの開殻ドナー分子もトリフェニルアミン骨格上のスピンとニトロニルニトロキシド上のスピンが300Kを越える強磁性的交換相互作用で結合し、基底三重項状態を形成していることを明らかにしている。

 開殻ドナー分子の一電子酸化状態における電子構造に関しては、分子軌道計算を行い、分子内交換相互作用の符号について理論的裏付けを行っている。即ち、TTF骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた分子2の一電子酸化状態では、一電子占有された二つの軌道が重なりを持たないが、トリフェニルアミン骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた系3.4では二つの一電子占有された軌道が重なりを持っており、分子内交換相互作用の符号を分子軌道論の立場から矛盾なく説明できることを示している。また一電子占有された二つの電子軌道の重なりの違いについては、二つの分子軌道の相互作用によって軌道エネルギーが上昇することから、サイクリックボルタンメトリー法による酸化還元電位の測定を行うことで実験的に予測可能であることを指摘している。

 これまでにも、いくつかの開殻ドナー分子が合成され、また磁気的相互作用について理論的な予測が行われてはいるが、本研究のように分子内の磁気的相互作用が実験的に見積られた例はこれまで報告されていなかった。特に、トリフェニルアミン骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた二種類の開殻ドナー分子3,4の一電子酸化状態で強磁性的な分子内交換相互作用を示したことは、開殻ドナー分子では初めての例である。これらのラジカル塩あるいは電荷移動錯体を合成し、金属的な伝導挙動を示す錯体が得られれば、有機強磁性金属が実現するものと期待される。また、TTF骨格とニトロニルニトロキシドを結合させた開殻ドナー分子2の一電子酸化状態のように比較的大きな反強磁性的分子内交換相互作用を持つ系の錯体では、高濃度近藤系など興味ある物性現象の発現が期待される。

 これら一連の開殻ドナー分子の一電子酸化状態は、性格の異なる二つのスピンを同一分子内に有する新たなスピン系である。筆者は本研究において、「有機磁性金属」の開発を目的として新規開殻ドナー分子を開発するとともに、その一電子酸化状態における分子内磁気相互作用について実験・理論両面から考察を加えたという点で大きな意義を持つものであり、分子磁性の発展に寄与するところが多大である。

 以上のことから、審査委員会は本論文を博士(理学)の学位にふさわしいものと判定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54433