学位論文要旨



No 110935
著者(漢字) 池橋,民雄
著者(英字)
著者(カナ) イケハシ,タミオ
標題(和) スカーム模型によるパイ中間子光生成の低エネルギー定理
標題(洋) Low Energy Theorem of Pion Photoproduction in the Skyrme Model
報告番号 110935
報告番号 甲10935
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2848号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 矢崎,紘一
 東京大学 教授 釜江,常好
 東京大学 教授 赤石,義紀
 東京大学 助教授 橋本,治
 東京大学 教授 本間,三郎
内容要旨

 低エネルギー定理は、カイラル対称性、ゲージ不変性などQCDの低エネルギー領域に現れる対称性を利用して物理量を算出する定理である。QCDは低エネルギー領域で摂動が使えないことから、この定理の成功はQCDの低エネルギー領域における正当性を間接的に裏付けるものと考えられてきた。しかしながら、最近SaclayおよびMainzで行われた中性パイ中間子光生成の実験結果は、低エネルギー定理の予測値とかなり食い違うものであった。このため、パイ中間子光生成の低エネルギー定理について様々な角度から検討が加えられた。

 理論的側面においては、今まで低エネルギー定理が見落としていた効果が明らかになってきた。パイ中間子光生成の低エネルギー定理は、しきい値における散乱振幅をパイ中間子と核子の質量の比:/m0.15に関するべき展開の形で与える。Bernard,Gasser,KaiserとMeissnerはカイラル摂動論を用い、カイラル極限(→0)で赤外発散を起こすループ図形がこの展開に影響を及ぼし、低エネルギー定理の予測値を修正することを示した。この結果をふまえ、太田は質量殻外の形状因子の寄与をあらたに取りこんで低エネルギー定理を再構成した。その結果、電磁相互作用の質量殼外形状因子の一つがカイラル極限で赤外発散を起こす場合に、低エネルギー定理が修正されしきい値の散乱振幅に補正項が加わることがわかった。

 しかしながら、そのような形状因子の振舞いが現実のQCDの有効模型で起こっているかどうかはまだ確認されていない。また、模型依存性のない太田の解析からはその補正項の大きさを見積もることができず、したがってこの効果により実験値と理論値のズレが説明できるのかどうかもわからない。本論文の目的はこれらの点を明らかにすることにある。

 模型としてはスカーム模型を採用する。スカーム模型はバリオンを非線形メソン場のソリトン(スカーミオン)、メソンをその周りの量子的ゆらぎとして記述する模型であり、色の自由度NCが無限大の極限でQCDを再現すると考えられている。またこの模型は低エネルギー定理の要請する対称性全てを満足しており、我々の目的にかなっている。なお、スカーム模型によるパイ中間子光生成の散乱振幅の計算はいくつかのグループにより試みられているが、低エネルギー定理に補正をもたらし得る質量殻外形状因子は未だ計算されていない。

 パイ中間子・スカーミオンの系は集団座標の方法を用いて量子化される。集団座標の導入により系は拘束系となるので、ゲージ固定をして余分な自由度を落とすというディラックの量子化方法を採用する。スカーム模型ではパイ中間子・核子間の湯川結合がないため、パイ中間子・核子散乱およびパイ中間子光生成のボルン項が記述できるかどうか自明ではないが、著者および太田は前の論文でこの点を確認した。我々はその論文において、第二類拘束の形をうまく選ぶことにより、ボルン項をはじめ低エネルギー領域の記述が簡便かつ系統的に実行できる量子化方法を提示した。本論文でもこの方法を採用する。

 量子化されたハミルトニアンには、二種類のパイ中間子・核子間相互作用が含まれている。電磁相互作用は局所U(1)ゲージ変換に対する不変性の要請から決まる。太田の解析により補正の出所と補正項の形は指定されているので、我々は全散乱振幅を計算し直す必要はなく、電磁形状因子など特定の形状因子を計算すればよい。前述のハミルトニアンを用いて電磁相互作用のバーテックスを計算すると、質量殻外形状因子に寄与するいくつかのループ図形は、カイラル極限で赤外発散を起こすことがわかった。これは、低エネルギー定理に対する補正が確かに存在することを示している。

 しきい値の散乱振幅E0+に対する我々の結果は表にまとめてある。この表においてE0+|Expは実験値、E0+|LETは低エネルギー定理の予測値をあらわす。E0+|LET,Skyrmeはスカーム模型で計算された結合定数や磁気モーメントを用いて低エネルギー定理の予測値を書き直したものである。E0+|LETに比べE0+|LET,Skyrmeの大きさが34%程小さいのは、パイ中間子・核子間の結合定数の値がスカーム模型では小さく見積もられているからである。中性パイ中間子光生成の場合紫外発散の存在により補正項E0+を正確に求めることができないため、二通りの仮定をして数値を求めた。この表からわかるように、補正項は反応p→p0についてはE0+|ExpとE0+|LETとの差異を定性的に説明するが、反応p→n+については逆に差異を増幅させている。パラメーターを二つしかもたないスカーム模型はそもそも定量的な議論には不十分であるが、アイソスピン対称性の破れの効果などこの模型には入っていない寄与を取り込むことにより、実験値との差異を改善できる可能性がある。この解析により得られた最も重要な知見は、低エネルギー定理に対し質量殼外形状因子の寄与から補正が生じることが実際にわかったことである。このことは、パイ中間子光生成反応に限らず、他の反応過程の低エネルギー定理においても質量殻外形状因子の部分から補正があり得ることを示唆している。

表:しきい値における散乱振幅。単位は10-3/
審査要旨

 本論文は核子のパイ中間子光生成に対する低エネルギー定理をスカーム模型を用いて吟味し,その不定性と適用限界を明らかにしたものである。内容は6章と付録2から成り,第1章は序文,第2章はパイ中間子光生成の一般的理論形式,第3章はパイ中間子-スカーミオン系の量子化,第4章は形状因子の計算,第5章は理論的分析の結果,第6章はまとめが述べられている。

 しきい付近でのパイ中間子光生成に関しては,カイラル対称性に基づく低エネルギー定理がよく成り立つと信じられていたが,1980年代後半から1990年代初めにかけてのフランス,サクレー研究所およびドイツ,マインツ大学での精密測定により,理論的予言からのずれが見いだされてから,多くの研究者がその解明に取り組んできた。1992年,太田は模型に依らない一般的な理論形式で,核子とパイ中間子および光子との結合形状因子のオフシェル部分にカイラル対称の極限で特異性があれば,低エネルギー定理には不定性が現れることを指摘し,特に中性パイ中間子光生成での適用限界を示した。しかし,形状因子が特異性を持つ場合があるか否かは明らかではなく,そのような例を捜して指摘された不定性の大きさの程度を見積もる事が望まれていた。

 論文提出者は本論文で,核子に対するスカーム模型を用い,上述の形状因子の特異性を調べた。スカーム模型はカイラル対称性など低エネルギー定理を満足する模型で、この問題の検討に適している。論文提出者は、まず、パイ中間子とスカーミオンの系を量子化して、この模型の枠内での相互作用ハミルトニアンを導き、それから得られる核子の形状因子のオフシェル部分を調べて、実際に特異性が現われることを示した。

 第1章の序文は上のような本論文の動機と目的が述べられており,第2章の理論形式は太田が展開したものの概要,第3章は以前に論文提出者が行った研究のまとめで,第4章と第5章が本論文の主要部である。第4章では,核子とパイ中間子の結合形状因子および核子の電磁形状因子がスカーム模型で計算され,ともにそのオフシェル部分がカイラル対称の極限で特異性をもつことが示される。また,それによる補正の大きさが評価され,値は特定できないが下限が得られている。第5章では実験との対応が論じられている。スカーム模型では低エネルギー定理に現れるパラメーターが精確には再現できたいので,補正項が実験値とのずれを定性的に説明できるか否かは明確ではないが,特に中性パイ中間子生成では主要項と同程度の大きさであった。このように本論文はスカーム模型を例として,パイ中間子光生成に対する低エネルギー定理に形状因子の特異性に由来する不定性があることを明らかにした。これは,この分野の実験的および理論的研究にインパクトを与える重要な貢献であると考えられる。よって審査員一同は本論文を博士(理学)学位請求論文として合格であると判定した。なお,本論文の第3章は太田氏との共同研究であるが,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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