学位論文要旨



No 110936
著者(漢字) 坂井,任
著者(英字)
著者(カナ) サカイ,ツトム
標題(和) 原子核中のHダイバリオン
標題(洋) H-dibaryon in nuclei
報告番号 110936
報告番号 甲10936
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2849号
研究科 理学系研究科
専攻 情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大西,直毅
 東京大学 教授 赤石,義紀
 東京大学 助教授 太田,浩一
 東京大学 助教授 早野,龍五
 東京大学 助教授 福田,共和
内容要旨

 H-ダイパリオンは強く束縛されたエキゾティック状態の候補として予言されて以来,多くの理論的・実験的研究の対象となってきた。Hの存否はQCDにおける多クォークのダイナミクスに新たな知見を与え,またダークマターに関連しても関心を引いている問題である。Hの探索は多くが原子核反応を利用して行なわれているので,そのような反応によってHが生成された時,原子核中でどのようにふるまうかは特に興味深く重要な問題である。そこで,この論文では,まず最初にHと核子の相互作用について調べ,次いで核物質中でのHのふるまいについて議論する。

1H-ダイバリオン

 ダイバリオンは6個のクォークから成るバリオン数2をもつ粒子で,バリオニウムq22やペンタクォークq4と同様exotic stateの一つである。Hダイバリオンはストレンジネスー2,スピン0,アイソスピン0であるダイバリオンで,MITバッグ模型を用いて1977年Jaffeにより初めて予言され,その質量は∧∧ thresholdよりも81MeV低いと予想された。この様な強い束縛状態を生み出す主因はcolor magnetic interaction(CMI)によるものと考えられている。

 以来,Hに関しては多くの理論的研究が行なわれ,バッグ模型,Skyrme模型,格子ゲージ理論,非相対論的クォーククラスター模型などを用いて質量が計算された。その結果は大きく広がっており,2核子の質量よりも軽いと言うものから,∧∧ thresholdよりも下にはなく,強い相互作用に関して不安定であるというものまであり,結局理論面からはHの存否に関し決定的なことは言えないのが現状である。

 一方,実験面においても,Hの存否に関する確実な結果は出ていない。多くの方法が提案され,実験が行なわれ,その中にはHの可能性のある事象も報告されたが,いずれも議論の余地のあるものであり,より完全なkinematicsをもった事象の発見が待たれる。ここで,Hの存否に密接な関連があるものにダブルハイパー核がある。ダブルハイパー核中の2個の∧の束縛エネルギーをB∧∧とすると,Hの質量にはMH>2M-B∧∧という強い制限がつくことになる。ダブルハイパー核は数例報告されているが,最近KEKで行なわれた実験で,Be,あるいはBと解釈できる事象が発見された。B∧∧はそれぞれの解釈について8.5±0.7MeV,27.6±0.7MeVである。この後の議論はこのデータと矛盾しない質量をもつHが存在するとして行なわれる。

2核子-Hダイバリオン相互作用

 まず,クォーク・クラスター模型(QCM)を用いて,核子とHダイバリオンの間の相互作用について調べた。QCMではパリオンやダイバリオンは構成子クォークの集まりとして記述される。クラスター間の相互作用を扱うには共鳴群の方法が用いられる。この模型の特長は,複合粒子間の相互作用をその構造と同じ基礎づけのもとで扱えること,波動関数の反対称化が常に考慮されている事,重心運動と内部運動を完全に分離できる事である。クォークの閉じ込めはポテンシャルによって実現し,また,クォーク間の相互作用としてはone-gluon exchange potential(OGEP)が用いられる。更に,-meson交換の寄与はバリオンーダイバリオンの間のポテンシャル(EMEP)として取り入れ,関数型としてはGauss型を採用した。すなわち,

 

 波動関数とOGEPを記述するためのパフメーターはoctetとdecupletのバリオンの性質を再現するように決めた。また,EMEPに関するパフメーターは,KEKでの実験で報告されたダブルハイパー核のデータに矛盾しないHダイバリオンの質量の範囲から決められた。Hダイバリオンの質量が2∧ thresholdに等しい場合がV0=-601MeVに対応し,Be,Bにおける(2∧の)束縛エネルギー分だけ軽い場合に対応するものがそれぞれV0=-623,673MeVである。

 次に計算結果について説明する。相互作用はS波のみを考える。NとHの束縛状態はV0が-701MeV以下の場合にのみ存在する。これは,しきい値(∧∧)よりも38.7MeV軽いHダイバジオンに相当する。現実的と考えられる範囲(-673<V0<-601MeV)では束縛状態は存在しない。NH散乱のS行列から得られた位相のずれを図1に示す。低エネルギー領域では引力的,高エネルギー領域では斥力的になっている。これは,中間子交換による中距離引力とPauli原理及びcolor magnetic interaction(CMI)に起因する短距離斥力芯によるものと理解される。図2,3に散乱長と有効距離を示す。図2からは,V0=-701MeV以下で束縛状態が存在することが,また図3からは,有効距離が比較的大きい事がわかり,斥力芯の短距離性を示唆している。

3核物質中のHダイバリオン

 ここでは核物質中でのHのふるまいについて調べる。以後,核子やHは素粒子として扱い,その間の相互作用にはQCMで計算した非局所potentialを用いる。

 核物質中そのHのpotentialの深さはMosskowski-Scottの分割法で大まかに見積もれる。分割法では「分割距離」dを定義し,それよりも内部のpotentialの斥力と引力の効果は相殺すると考える。ポテンシャルのr>dの部分としては,次のように定義されるequivalent local potential(EQLP)(r)を用いる。

 

 表1に結果を示す。ただし,EQLPは本質的にはpotentialにより歪んだ波動関数と自由波の波動関数の差から求まるので,数値の精度は低い。引力が比較的弱くても核物質中のHの束縛エネルギーはそれほど小さくはない。

表1:分割法によるHダイバリオンの一粒子ポテンシャルの深さ

 次に核物質中のHの一粒子potentialをBrueckner理論を用いて調べた。ベーテ・ゴールドストン方程式の解法としては非局所的な相互作用を扱うのに適したHaftel-Tabakinの方法を使った。一粒子potentialは有効質量近似で自己無撞着に計算される。有効質量(とHの質量の比)とpotentialの深さを表2に示す。分割法は良い結果を与えていたことがわかる。表に挙げた以外の核子の一粒子potentialの形に対しても結果はほとんど同じであった。NH間の引力が強いほどpotentialは深い。

表2:核物質中でのHダイバリオンの有効質量とポテンシャルの深さDH

 実際の場合には,∧∧付近の質量をもつHにとって,∧∧ channelとの結合は無視できない。そこで,この結合を考慮に入れた時,核物質中でHはどのようにふるまうかを次に議論する。この時のHのpropagatorは,

 

 と書ける。ここで(q)はcoupling vertex関数であり,ここでは簡単のためにガウス型を仮定する。E,MH,MH(0)は2Mから測られた量である。物理的なHの質量はpropagatorのpoleの位置から決まるが,ここではこの関係をMHから裸のHの質量MH(0)を決めるのに使う。(q)中のパラメータb,gは,QCMで計算された散乱長aと有効距離r0を再現するように決められる。表3にMH=-10,0,10MeVに対するパラメーターの値を示す。

表3:Coupling vertex関数のパラメーター

 核物質中のHのpropagatorは次のように書ける。

 

 ,はそれぞれ核物質中での∧のpotentialの深さ及び有効質量で,=27.5MeV,/=0.8である。Hのpropagatorのpoleから核物質中でのHの全エネルギーEH(P)が求まる。有効質量近似に従って得られた/MH,DH(c)の値を表4に示す。DH(c)のDH依存性はほとんどlinearである。DH(c)は,DH-MH(0)にほぼ等しく,これからのずれはDH-MH(0)のときに大きい。このことは,propagatorの中のcoupling vertexを含む部分のふるまいから理解出来る。

表4:結合を考慮したときの核物質中でのHダイバリオンの有効質量Mとポテンシャルの深さDH(c)

 Hの強度がどのように分布しているかを見るためには次のように定義されるspectralfunctionを見るのが良い。

 

 図4,5,6,7にspectral functionを示す。P=0fm-1とP=1fm-1の場合について示してある。がしきい値になり,P=0fm-1では-55MeV,P=1fm-1では-44.1MeVである。従って,P=1fm-1の場合の方が右側になる。図6,7の場合には,束縛状態が現れている。現実的な場合(図4,5)には,Hは束縛状態としては現れないが,spectral functionにはpeakが見える。このときには,核物質中でのS=-2の成分は∧∧とHの混合状態になっていて,連続状態の中にHの成分が強く見えるところがあることになる。図中は∧∧成分の占める割合である。

Figure 1図表Figure 2 / Figure 3図表Figure 4 / Figure 5図表Figure 6 / Figure 7

 有限核の場合に,核物質の場合の結果から定性的に分かる事を述べる。Hが束縛状態として現れないときにはエネルギー準位の低い離散状態は∧∧束縛状態の性質を持つが,その中にはH核との混合状態の性格を強く持つものがある。一方,Hが束縛状態になるときには,基底状態はH核の性質を持ち,∧∧のmixingの度合いはおおよそ核物質の計算で与えられた量になろう。

審査要旨

 本論文は、論文提出者が原子核内でのH-ダイバリオン(以下Hと略す)といわれる粒子の性質および運動について、クォーク・クラスター模型を使って解析したものである。

 Hは、1977年R.JaffeがMITバッグ模型を応用して、6個のクォークからなるバリオン数2、ストレンジネス-2をもつ∧∧より81MeVも低い安定したエクゾティック粒子として予言したことに端を発するものである。その後、それに次ぐHについて、バッグ模型、Skyrme模型、格子ゲージ模型、クォーククラスター模型などの多様な模型を使った多くの理論的研究がなされたが、それぞれ種々の異なる結果が報告され、例えば質量などではかなり幅の広い予想値であり、いまだ確定的なことがいえない段階である。

 一方、その予想を確認すべく種々の実験がなされているが、中にはHの可能性を示唆するものもあるが、直接証拠となる完全なkinematicsによるものでなく明確に確証されたとはいえない状況にある。最近、KEKでなされたダブルハイパー核が関与すると思われる実験は、Hの存在についての一つの手がかりを与えている。この論文では、この実験の解析に欠かせない、核物質中でのHが2Aチャンネルとの結合によってどのような影響を受けるかを調べ、この実験でHを確認するにあたりどのような知見を与えることができるかということが、一つの目標になっている。

 この論文では、Hをクォーク・クラスター模型(以下QCMと略す)で記述している。すなわち、バリオンがその質量の大半を荷なう構成子クォークからなり、核子や∧は3個のクォークからまたダイバリオンは6個のクォークが集まってクラスターを形成しているものとする。さらに、それらの構成子クォーク間には閉じこめを実現するために距離の2乗に比例するポテンシャルとゲージ場のグルーオンを交換することによって誘起されるる相互作用(OGEP)によってバリオンが成り立っているとする。それぞれの構成子クォークはフェルミ粒子であり、波動関数は反対称化されている。そのため、色磁気相互作用(CMI)が現れ、スピン0のダイバリオンに強い引力をもたらす。これがHの存在を予想する根拠になっている。

 構成子クォークの質量、相互作用などのパラメターは8重項10重項のバリオンの性質を再現すべく決めている。核子間および核子-H間の相互作用は、共鳴群の方法で核子やHを構成したと同じ基礎に立って評価することができる。ただ、核子間の中距離相互作用として現象論的に導入した中間子交換による相互作用を核子-ダイバリオン間にも導入しその強さをパラメータとして残し、その色々な値によって、結果がどのように変化するか詳しく調べている。パラメータの選択は、Hが2Aのしきい値になる場合、Be、Bの束縛エネルギーになる場合、Hが38.7MeVで束縛している場合など、それぞれの特徴的な値を取るようにしている。このQCMでは、近距離の斥力がクォーク間のパウリ原理から自然に再現できるという利点がある。

 このようにして得られた相互作用は強い斥力芯のため短距離相関を引き起こすが、ここでは、そのことを考慮した核物質中でのHの1粒子ポテンシャルを2つの方法で評価している。一つは簡単に評価できるMoszkowski-Scottが提案した分割法で、もう一つは短距離相関を対散乱で評価し、多体効果として対散乱中の中間状態にパクリ原理を考慮するもので、Bethe-Goldstone方程式を解いている。2つの結果を比較しているが、大きな差異は認められなかった。ポテンシャルの深さは、上記のパラメータの変動によって14.5MeVから95.3Mevになった。この結果はHの核内の振る舞いを知る一つの基本的な量を与えている。

 この論文の中心的課題は核内Hの∧∧チャンネルとの結合である。その影響はHのそのチャンネルとの結合が考慮されたPropagatorを計算し、そのpoleの位置とそのresidue(波動関数)から必要な物理量が得られる。結局、Hは上記のチャンネルと強く結合した混合状態として現れることが分かり、核内のHではこの効果を無視できないことが示された。

 結果は特に目を見張るようなものではないが、当課題においては実験を解析するにあたって考慮不可欠なものとして着実な一歩であり、今後のこの分野の発展に重要な役割をするものと思われる。直接、実験と比べるには、なお有限核についての計算が残されているが、ここでの成果はそれらに必要なものといえる。

 以上、提出論文が博士論文としての水準に充分達しているものと、審査員全員が判断した。

 なお、この論文はA.Buchmann氏、矢崎紘一氏と清水清孝氏との共同研究によるが、計算はじめその内容において論文提出者が主要な寄与をしたと判断した。

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