学位論文要旨



No 110941
著者(漢字) 青木,一
著者(英字)
著者(カナ) アオキ,ハジメ
標題(和) 電弱理論における物質数の破れ
標題(洋) Baryon Number Violation in the Electroweak Theory
報告番号 110941
報告番号 甲10941
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2854号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒船,次郎
 東京大学 助教授 川崎,雅裕
 東京大学 助教授 加藤,光裕
 東京大学 教授 風間,洋一
 東京大学 助教授 蓑輪,眞
内容要旨

 電弱相互作用の標準模型であるワインバーグサラム模型においては、摂動論の範囲内ではバリオン数(およびレプトン数)は保存されているが、非摂動的にトポロジーの異なる真空への遷移が生じると、アノマリーによって保存則が破れることが知られている。このような過程が、次世代の加速器による高エネルギー実験において観測されるか否かが、90年代に入ってから盛んに議論されて来た。

 70年代に、トフーフトはこのような過程のトンネル確率をインスタントン解を用いて半古典的に評価したが、その結果は、と小さな値で、観測不可能と思われていた。一方、80年代には、トポロジーの異なる真空を隔てているポテンシャル障壁の高さは10Tev程度の値であることがわかってきて、高エネルギーの加速器実験、または高温の初期宇宙においては、このような過程が頻繁に起こる可能性が示された。

 90年代に入って、リングワルドとエスピノザは、終状態に多数のゲージボゾンやヒグスボゾンがある場合について、半古典的に断面積を評価し、入射エネルギーが10Tev程度になると、終状態の足しあげの効果がの制限を凌駕し、観測可能な値になることを示した。しかし、これは同時にユニタリティーからくる制限を破っており、彼らのやった最低次の計算は、このような高エネルギーでは破綻していることもわかっていた。

 彼らの最低次の計算に対する高次の量子補正が様々な方法でなされた。とりわけ終状態に対する研究が進み、なかでもバレー法による非摂動的計算はユニタリティーの制限をまもりつつ観測可能な結果を与え、多くの注目を集めた。

 しかし、我々は、そこには重要な原理的な問題が潜んでいることを指摘した。バレー法は、光学定理を用いて、インスタントンがあるときの全断面積をインスタントン反インスタントンでの前方散乱振幅の虚数部分として評価するものである。ところが、物質数を破る過程に興味があるのだから、前方散乱振幅を評価する際、その中間状態には始状態や終状態とは異なった数の物質がなくてはならない。つまり、そのような部分だけを取り出す操作が必要なのである。これは非常に困難な操作である。同様な指摘は小西等によってもなされた。

 とりわけ、興味のある高エネルギーでは、インスタントンと反インスタントンが互いに近付き、重なりあってトポロジカルな形を失い、何もない真空に近付くので、物質数を破る部分は前方散乱振幅の中に非常にわずかしか存在しないことが予想される。

 まず、我々は、このことを確認するために、(1+0)次元の模型を考案し、インスタントン反インスタントンでのフェルミオンのモードを計算した。

 この模型の作用をよびハミルトニアンは以下のとうりである。

 

 

 但しVは二重井戸型ポテンシャルである。これは、トンネル効果、アノマリーといった(1+3)次元の現実的な模型の持つ重要な部分を残している。この模型でボゾンがキンク解のとき、フェルミオンには零モードが存在し、ディラック演算子の指数が零でなくなるので、フェルミオン数の破れが生じる。

 我々は、キンク反キンク解の場合ディラック演算子のモードを数値的に計算した。その結果、キンク反キンクの距離がその大きさに比べて十分に離れているときは、擬零モードが存在するが、近付いてくると、その固有値は大きくなり、連続モードと区別がつかなくなることがわかった。

 このことは、インスタントン反インスタントンが近付いた場合と離れている場合では、フェルミオンに与える影響が全く異なっており、近付いているときは、むしろ何もない真空に近く、フェルミオン数の破れに寄与する部分はほとんど含まれていないことを示している。したがって、バレー法に基ずく楽観的な結論をそのまま信じることはできない。

 より定量的な議論のためには、中間状態のフェルミオン数を明確に定義しなくてはならない。ダイアグラムによる方法が考えられる。インスタントンをパーテックスと考え、フェルミオンがその間を飛んでいるという描像が得られるからである。

 我々は一般の模型について、インスタントン反インスタントン解のまわりでの摂動展開をこのようなダイアクラムに対応させ、それが光学定理をみたすことを示した。似たような議論は、以前アーノルドとマティスによってなされていたが、我々はそれにダイアグラム的な意味を与え、またフェルミオンを含む模型にも拡張できるようにした。

 この方法だと、中間状態のフェルミオン数は始状態や終状態とは異なっているので、その部分を取り出す操作として有効な手法であることが期待される。

 このように、バレー法は終状態に対する量子補正を自動的に計算できる有効な手段であるが、中間状態のフェルミオン数に対する考察が非常に重要であって、その効果により断面積はやはり低くなると思われる。

 また、始状態に対する量子補正は断面積をさらに小さくすることは、以下の直観的な考察よりわかる。物質数を破る過程はトポロジーの異なる真空への遷移に伴って生じるわけだが、その途中で、ポテンシャル障壁の頂上にあるスファレロン解を経由すると思われる。これは空間的にMW程度の広がりを持っているので、MW程度のエネルギーを持った粒子が多く存在する終状態とはうまく合うが、10Tev程度の高エネルギーの粒子が衝突する始状態とはうまく合わないのである。

 以上から、高エネルギーの加速器実験で物質数を破る過程を観測するのは困難であると結論される。

 宇宙初期においては、MW程度のエネルギーを持った粒子が多数存在する熱浴の中にいるわけだから、このような物質数を破る過程は頻繁に起こっているはずである。しかし、これにより、現在宇宙に存在する物質の起源を説明するためには、理論の持つCPの破れや、十分に強い一次相転移による非平衡状態が必要である。標準模型の範囲内で説明可能かどうかは今なお議論されつつあるが、理論に多少の変更を加えれば、可能であることがわかってきた。

審査要旨

 電弱相互作用の標準理論であるワインバーグ模型では、摂動的にはバリオン数は保存するが、非摂動的には、カイラル異常とトンネル効果のためバリオン数は保存しないことが1970年代のt Hooftの仕事により知られている。しかし、当時はこのバリオン数の破れが起こる確率はトンネル効果で抑制されているため、観測不可能なほど小さいと見積もられた。

 1980年代に、Kuzmin,Rubakov,Shaposhnikovなどにより、このトンネルのポテンシャルの高さは10TeV程度と分かったので、温度が10TeVより高温の宇宙初期にはバリオン数の破れは頻繁に起きていて、宇宙のバリオン数は大きな影響を受けたことが指摘された。しかし、この高いポテンシャルを越えるために、高温にする代わりに、高エネルギーにしてもバリオン数非保存は大きな確率で起こるか否かという問題は今も未解決な問題であるが、加速器実験でバリオン数の破れを検証できるかという実際的な問題と関係して実験家からも関心が持たれている重要な問題である。

 1990年代に、リングワルドとエスピノザにより、バリオン数非保存断面積が半古典的に計算され、多数のボゾン生成の終状態が多いため、断面積はトンネル効果の抑制因子を凌駕して観測も夢でないほど大きくなる可能性が示された。しかし、この計算値はユニタリティーを破るため、その後、量子補正を取り入れ、ユニタリティーを破らずに計算できる「バリー法」という手法が開発された。この方法では、ユニタリティーは破らないが、10TeV程度の高エネルギーで、バリオン数を破る断面積が十分大きくなることがわかり、注目を集めた。「バリー法」は、インスタントン・反インスタントンの存在する古典場を考え、その周りの場の量子効果を取り入れて前方散乱振幅を求め、光学定理により、その虚数部を取って、バリオン数非保存の断面積を評価するものである。

 この博士論文は、この「バリー法」による計算方法に重要な原理的な問題が潜んでいることを指摘し、「高エネルギーでバリオン数を破る断面積が十分大きくなる」という「バリー法」の主張が、実は根拠の乏しいものであることを説明したものである。

 論文の構成は次のようなものである。第1章は序文であり、研究の動機が述べられ、第2章では電弱理論におけるバリオン数の破れを主として1980年代までレビューしている。第3章では、1990年代に入ってからの、高エネルギー衝突でバリオン数の破れの断面積が大きくなる理論計算の紹介、特に「バリー法」の紹介がされる。第4章では、バリー法が仮定している光学定理を吟味し、従来不十分だった光学定理の証明を行うため、著者はファインマン図の手法を背景場のある場合に拡張し、また、その手法で、従来されていなかったフェルミオンの存在する場合の光学定理の証明を形式的であるが行うことに成功した。この方法は常にバリオン数の破れた中間状態に対応した計算であり、この証明で、インスタントン・反インスタントンの距離が離れている場合には、「バリー法」は信頼できる計算であることをまず示した。

 5章でインスタントン・反インスタントンの距離が近い場合を吟味する。実は、バリー法で高エネルギーにおけるバリオン数の破れの断面積を評価する場合に、インスタントン・反インスタントンの距離が近い場合が積分に最も寄与するので、この場合こそが重要なのである。著者は、この場合には、光学定理を適用するべき前方散乱振幅の中間状態には、必ずしもバリオン数が非保存の中間状態が存在するとは限らず、むしろ、フェルミオンのゼロモードの痕跡が無くなるという意味では、バリオン数の破れに対応しない中間状態が主になることを示唆している。バリー法では、前方散乱振幅の虚数部は全てバリオン数の破れに対応すると仮定しているので、それはoverestimationであることを指摘しているのである。この指摘は、小西等も独立に行っているが重要な指摘である。そして、その主張を分りやすく説明するため、問題を単純化し、インスタントンとある種のアノマリーが存在する簡単な(1+0)次元の量子力学の模型を導入し、これと4次元理論とのアナロジーにより説明したのである。第6章では結論を述べ、付録で計算の補足をおこなっている。

 この論文は、高エネルギーでの断面積増大を完全には否定していないが、もっとも注目されるバリー法の断面積増大の主張の根拠が乏しいことを易しいアナロジーで説明したことは、物理学に新しい知見を加えるものである。よって、審査委員一同は合格と判定した。

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