学位論文要旨



No 110948
著者(漢字) 稲見,俊哉
著者(英字)
著者(カナ) イナミ,トシヤ
標題(和) 中性子散乱法による擬一次元ABX3型反強磁性体のスピンダイナミクスの研究
標題(洋) Quantum Aspects of Spin Dynamics in Quasi-One-Dimensional ABX3-Type Antiferromagnets-Inelastic Neutron Scattering Study
報告番号 110948
報告番号 甲10948
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2861号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 安岡,弘志
 東京大学 教授 壽榮松,宏仁
 東京大学 教授 後藤,恒昭
 東京大学 助教授 今田,正俊
 東京大学 助教授 吉澤,英樹
内容要旨

 一次元ハイゼンベルグ反強磁性体の静的及び動的性質が、スピンが整数であるか、半整数であるかによって大きく変わり、整数スピンの場合は基底状態とq=の第一励起状態のあいだにギャップが存在するというHaldaneの予想は、近年の低次元磁性体の分野における最大のトピックスであった[1]。現在では様々な理論的、実験的研究からこのHaldane gapの存在は広く支持されている。このHaldane gapの実験的探索の過程において、モデル物質CsNiCl3(スピン1のABX3型擬一次元反強磁性体)が非弾性中性子散乱法でよく調べられた。ところが、その磁気励起が秩序相においても通常の線形スピン波理論では記述できないことがBuyersら[2]やSteinerら[3]の研究により明らかにされた。

 この結果は、異常が一次元反強磁性(AF)ゾーン中心(q=)で顕著な事から、Haldane gapが三次元的に秩序化した状態でも影響を与えていると主に説明されてきている[4]。しかしながら、その他にも、ABX3の磁気構造に特有の問題とする考え方[5]や、あるいは、スピン波展開の高次の項で表せちれる量子補正によるものとする理論[6]などがあり、CsNiCl3の異常な磁気分散の原因はまだはっきりとはしていない。この問題に対する理解を深めるために、我々のグループでは、幾つかの整数スピン及び半整数スピンを持つABX3型反強磁性体を非弾性中性子散乱法で測定してきた。この研究では、そのうち著者が中心になって行ってきた、半整数スピンを持つABX3型反強磁性体、CsMnI3、CsMnBr3、CsVCl3に関する実験結果をまとめる。

 六方晶ABX3型反強磁性体は、c-軸に沿って走る一次元磁気鎖が、ab-面内で三角格子を組むという結晶構造をしている。スピンハミルトニアンは次のように表される。

 

 ここでJとJ’は鎖内及び鎖間の反強磁性的相互作用であり、Dは1イオン性の異方性である。表1にJ,J’、D、TN、Sの値を示す。すべての系において、完全に秩序した相での磁気構造は、一次元鎖方向に関してはcollinearな反強磁性的配列であり、鎖間では、(ほぼ)120°ずつ回転するらせん秩序を持つ。容易面型の異方性を持つ場合は、スピンの作るらせん面はab-面になり、容易軸型の異方性を持つ場合はac-面になる。

 非弾性中性子散乱実験は日本原子力研究所改三号炉に設置してある三軸型の分光器PONTAとHERを用いて行った。前者は熱中性子を用いる分光器で、比較的広いエネルギー範囲を測定するのに用い、後者では冷中性子を用いて高分解能の測定を行った。実験は主にCsNiCl3で異常な磁気分散が観測されたQ=(1)で行った。

表1:測定した3つのABX3型反強磁性体の磁気パラメータ、a:Ref.7、b:Ref.8、c:Ref.9

 図1に、CsMnBr3とCsVCl3の秩序状態での、一次元AFゾーン中心(1)における典型的なエネルギースキャンの結果を示す。実線はスピン波の分散関係と装置分解能を考慮した最小自乗近似によるfittingで、これから、各ピークの励起エネルギーや積分強度、幅などを求めた。図2にfittingから得られた一次元鎖に垂直方向の分散関係を示す。実線(と破線)は式(1)のハミルトニアンから、線形スピン波理論を用いて計算したもので、J、J’、Dは表1の値を用いた。この図から分かるように、特に2つのMn化合物では、線形スピン波理論と観測された磁気分散は非常によく一致する。我々はさらに、各枝の分極方向も線形スピン波理論の予測に一致し、相対強度も線形スピン波理論でかなりよく説明できることも確認した。これらの結果は、大きなS(=)を持つ系では、線形スピン波理論が転移点より十分下でのダイナミクスのよい記述になっていることを示している。

 これに対し、S=のCsVCl3は十分に低い温度でも線形スピン波理論からのずれを示す。粗い分解能でとったQ=(001)でのエネルギースペクトル(図3(a)上)には約6meVに中心を持つ幅の広い散乱が観測される。この散乱は図1に見えた幅の狭いスピン波とは明らかに異なるもので、線形スピン波理論もこの位置に何らかの磁気励起を予測しない。加えて、図2(c)にxy+と示された分散曲線はQ=(001)と(1)で、線形スピン波理論の予測する極大の代わりに極小を示す。これらの観測結果は、近年大山と斯波によって行われた高次の項を取り入れたスピン波理論で理解できる[6]。彼等は、一般に、擬一次元らせん磁性体の磁気励起には大きな量子補正が現れる事を指摘し、実際ABX3型磁性体をモデルとして、1/S展開によりその励起スペクトルを計算した。その結果によると、一次元AFゾーン中心(1)に沿ってかなり大きな2マグノン散乱が現れ、また、1マグノン-2マグノン相互作用によりスピン波(1マグノン)の分散関係が励起エネルギー及び散乱強度とも強く影響を受ける。これらの結果は定性的に我々の観測と一致しており、従ってS=の系で見出された線形スピン波理論からのずれは高次の2マグノンなどによる量子補正に起因するものと結論できる。例えば図3(a)の1.6Kのスペクトルの幅の広いピークは2マグノン散乱によるものと説明される。

図1:典型的な一次元AFゾーン中心での磁気励起スペクトル図2:鎖間の分散関係

 図3(a)に示すように、このCsVCl3の2マグノン散乱は温度にあまり依存せず、1.6Kで観測されるピークはTN(=13.3K)の約3倍にあたる40Kでもほとんど形を変えずに残っている。さらに温度を上げると、ピークの位置を高エネルギー側へ移しながらだんだん強度を失っていく。一方、S=のCsMnBr3でも高温においては2マグノン散乱が報告されている[8]。図3(b)にCsMnBr3のQ=(001)で測定した磁気励起の温度変化の結果を示す。CsVCl3と異なって最低温では大きな2マグノン散乱は観測されない。しかし、温度が上昇するのに伴い、幅の広いピークが約1.5meV辺りに現れ、TN(=8.4K)以上でも観測される。同様にCsMnI3においてもTNより上で幅の広い散乱が1次元AFゾーン中心で観測されている。

図3:1次元AFゾーン中心での磁気励起の温度変化

 一般にTNより上の短距離秩序状態でも、擬一次元磁性体では1次元鎖方向にかなり長い相関距離を持っているので、相関距離より短い領域では秩序相と同じ様にスピン波が観測される。しかし、ゾーン中心においてはよく定義されたスピン波は存在せず、準弾性散乱に取って代わられる。実際ABX3においてもTNに近づくにつれスピン波(1マグノン)は幅が広がってゆき、強度を失い、最後には潰れてしまう。ところが2マグノン散乱はTN以上で残り、まるで励起スペクトルにギャップが存在するかのように見える。半整数スピンを持つ系ではギャップが存在しないので、大山と斯波に提案された長距離秩序相で2マグノン散乱を起こすしくみが短距離秩序状態でも働くためと考えられる。この擬似ギャップの振る舞いは、スピン半整数のABX3型反強磁性体に共通の現象と思われる。

 これらの結果をまとめると、次のようになる。まず、十分低温においては、半整数スピンを持ったABX3型反強磁性体のスピンダイナミクスは線形スピン波理論及びそれに高次の量子補正の項を加えたものによってよく記述される。特にスピンが小さい場合は、低温でも量子補正の効果は大きく、重要である。次に、TNより上の短距離秩序領域で1次元AFゾーン中心の磁気励起がかなり非弾性的である事を見出した。2マグノン散乱が高温でも残るためで、この擬似ギャップの振る舞いはスピン半整数のABX3型反強磁性体に共通に観測された。以上の結果を踏まえて、CsNiCl3の異常な磁気分散についても議論する。

参考文献[1]F.D.M.Haldane:Phys.Rev.Lett.50(1983)1153.[2]R.M.Morra,W.J.L.Buyers,R.L.Armstrong,K.Hirakawa:Phys.Rev.B38(1988)543,W.J.L.Buyers,R.M.Morra,R.L.Armstrong,M.J.Hogan,P.Gerlach and K.Hirakawa:Phys.Rev.Lett.56(1986)371.[3]M.Steiner,K.Kakurai,J.K.Kjems,D.Petitgrand and R.Pynn:J.Appl.Phys.61(1987)3953,K.Kakurai,M.Steiner,R.Pynn and J.K.Kjems:J.Phys.:Condens.Matter3(1991)715.[4]I.Affleck:Phys.Rev.Lett.62(1989)474,Errata65(1990)2477,65(1990)2835,I.Affleck and G.F.Wellman:Phys.Rev.B46(1992)8934.[5]Z.Tun,W.J.L.Buyers,A.Harrison and J.A.Rayne:Phys,Rev.B43(1991)13331.[6]T.Ohyama and H.Shiba:J.Phys.Soc.Jpn.62(1993)3277.[7]A.Harrison,M.F.Collins,J.Abu-Dayyeh and C.V.Stager:Phys.Rev.B43(1991)679.[8]U.Falk,A.Furrer,H.U.Gudel and J.K.Kjems:Phys.Rev.B35(1987)4888.[9]S.Itoh,Y.Endoh,K.Kakurai and H.Tanaka: submitted to Phys.Rev.Lett.
審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は序論として本研究の動機となった擬一次元型反強磁性体CsNiCl3の異常磁気励起について中性子散乱での研究を紹介し、低温での振る舞いがいわゆるハルデンギャップとして説明されるか、あるいは、スピン波励起の高次補正としで説明できるかといったような問題点を指摘している。これを解決する目的として、本研究では半整数スピンを持つ他の擬一次元反強磁性体CeMnI3、CsMnBr3とCsVCl3を取りあげているが、それらの構造や磁気的な特徴についてレビューがなされている。第2章では、本研究で用いた非弾性中性子散乱の実験手法と、このような系での磁気励起を一般的に記述する線形スピン波理論について概説がなされている。第3章では、上記それぞれの物質について磁気励起の温度及びエネルーギー依存性の実験結果が示され、以下に述べるような結論を導いている。第4章はこれらの実験結果と解析をもとにして、本研究での総括がなされている。

 一次元ハイゼンベルグ反強磁性体の静的及び動的性質は、スピンが整数であるか、半整数であるかによって大きく変わる。整数スピンの場合は、基底状態と反強磁性波数における第一励起状態との間にギャップが存在するというハルデンの予想があり、近年の低次元磁性体の分野における最大のトピックスとなっている。このハルデン・ギャップの実験的探索の過程において、モデル物質の一つであるCsNiCl3(スピン1のABX3型擬一次元反強磁性体)が非弾性中性子散乱法でよく調べられた。ところが、その磁気励起が秩序相においても通常の線形スピン波理論では記述できないことが明らかにされた。この結果は、その異常が一次元反強磁性ゾーン中心で顕著な事から、三次元的に秩序化した状態でも、ハルデン・ギャップが影響を与えているということによって説明されてきている。しかしながら、その他にも、ABX3の磁気構造に特有の問題とする考え方や、あるいは、スピン波展開の高次の項で記述される量子補正によるものとする理論などがあり、CsNiCl3の異常な磁気分散の原因はまだはっきりとはしていない。この問題に対する理解を深めるために、本研究では、半整数スピンを持つABX3型反強磁性体、CsMnI3、CsMnBr3、及びCsVCl3に関する非弾性中性子散乱の実験を行い、それらの反強磁性磁気励起を明らかにしている。

 非弾性中性子散乱実験は日本原子力研究所改造三号炉に設置してある三軸型の分光器PONTAとHERを用いて行われている。前者は熱中性子を用いる分光器で、比較的広いエネルギー範囲を測定するのに用い、後者では冷中性子による高分解能の測定に用いられている。実験は主にCsNiCl3で異常な磁気分散が観測されたQ=(,,1)で行われている。

 以下にそれぞれの物質における実験と解析により得られた結論をまとめる。

1)CsMnI3

 CsMnI3(S=5/2)の秩序相での磁気励起は通常の線形スピンは理論でよく説明できる。特に、分散関係は線形スピン波理論による予想とよく一致し、また、強度に関してもかなりよく説明される。この結果は同じ磁気構造を持つCsNiCl3(S=1)とは大きく異なりCsNiCl3の異常な磁気励起が量子効果によっていることを示している。

2)CsMnBr3

 秩序相でのスピン波の分散関係及び相対強度とも通常の線形スピンは理論で極めてよく説明される。このことより、この物質が古典的なスピン波理論を検証する典型物質であることが判明した。

3)CsVCl3

 前述の場合と異なり、S=3/2をもつCsVCl3の磁気励起は十分に低い温度でも線形スピン波理論からのずれを示す。この観測結果は、近年,、大山と斯波によって行われた高次の項を取り入れたスピン波理論で解釈され、2マグノン励起などによる量子補正の重要性が指摘された。更に、反強磁性転移温度以上の高温でも短距離秩序に伴う2マグノンによる散乱が観測されている。このことは、半整数スピンを持つ系ではギャップが存在しないので、長距離秩序相で2マグノン散乱を起こすしくみが短距離秩序状態でも働くためと結論された。この擬似ギャップ的な振る舞いは、スピン半整数のABX3型反強磁性体に共通の現象と思われる。

 このような結果をまとめると、次のようになる。まず、十分低温においては、半整数スピンを持ったABX3型反強磁性体のスピンダイナミクスは線形スピン波理論及びそれに高次の量子補正の項を加えたものによってよく記述される。特にスピンが小さい場合は、低温でも量子補正の効果は大きく重要である。次に、TNより上の短距離秩序領域で1次元反強磁性ゾーン中心の磁気励起がかなり非弾性的である事を見出した。このことは2マグノン散乱が高温でも残るためで、この擬似ギャップ的な振る舞いはスピン半整数のABX3型反強磁性体に共通に観測される特徴である。

 以上のように、本研究はABX3型ハイゼンベルグ反強磁性体の磁気励起がスピンの大きさによってどのように変化するかを中性子非弾性散乱を用いて初めて系統的に明らかにしたもので、この分野に対する貢献は多大であると判断し、審査委員一同学位論文として適当であると結論した。

 なお、本論文は指導教官である物性研究所加倉井助教授や他数名との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。又、この件に関して、共同研究者からの同意承諾書が提出されている。

UTokyo Repositoryリンク