学位論文要旨



No 110949
著者(漢字) 魚住,孝幸
著者(英字)
著者(カナ) ウオズミ,タカユキ
標題(和) 高エネルギー分光の解析による遷移金属化合物電子状態の理論的研究
標題(洋)
報告番号 110949
報告番号 甲10949
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2862号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上田,和夫
 東京大学 教授 塚田,捷
 東京大学 教授 十倉,好紀
 東京大学 助教授 藤森,淳
 東京大学 助教授 今田,正俊
内容要旨

 3d,4f等の局在性の強い軌道を持つ遷移金属化合物,稀土類化合物の系においては,高温超伝導,ヘビーフェルミオン等の非常に興味深い現象が見られ,多くの研究者の関心を集めている.これらの現象には,3dあるいは4f電子間の相関が強く関係しているものと考えられており,これらの電子系における電子相関効果を解明することは,現在の物性研究における最も重要な課題の1つに挙げられている.歴史的には,電子相関の問題は遷移金属化合物の絶縁性の問題として古くから取り上げられている.例えば,NiO等の遷移金属酸化物では,通常のバンド理論から見れば,不完全に満たされた3dバンドを持ち,金属的な伝導性を持つことが予想されるが,現実の物質は絶縁体である.古くは,NiOはMott-Hubbard型(MH型)の絶縁体であると考えられていた.

 この問題を明らかにする上で,高エネルギー分光研究が果たした役割は非常に大きい.ここで,高エネルギー分光研究とは,真空紫外線から軟X線領域(数eV〜千eV)の入射光を用いた分光学的研究手段のことを指す.例えば,内殻光電子放出(内殼XPS)について考えてみると,励起終状態においては,ある原子サイトの内殻に正孔がつくられるが,この内殻正孔は"テストチャージ"の役割を果たし,外殻電子系と結合することにより,その様々な応答を引き出す.この応答はスペクトル構造に直接反映されるため,適切なモデルを用いてこれを解析することにより,物質の電子状態に関する情報を得ることが出来る.

 これまでCu,Ni等の重い遷移金属化合物の系に関しては,内殻XPS等の解析に多体効果をあらわに考慮したクラスターモデル等が適用され,物性研究上重要な発展がもたらされた.つまり,CoO,NiO,CuO等はMH型の絶縁体ではなく,近年,Zaanen等が提唱した,電荷移動型(CT型)の絶縁体であることが明らかにされた.

 一方,Ti,V等の軽い遷移金属化合物の系(以下,軽い系と略称する)については,これまでクラスターモデル等によるスペクトル解析は余り行われておらず,スペクトル構造の解釈に関しても必ずしもコンセンサスが得られていない.しかしながら,1つのモデルを用いて統一的な取り扱いを行い,遷移金属化合物の電子状態を系統的に調べることは重要であり,非常に興味が持たれる.本研究の主たる動機はこの点にある.

 本研究では,研究対象物質としてM2O3(M=Ti,V,Cr,Mn,Fe)化合物の系を扱う.研究の目的は,クラスターモデルを用いて高エネルギースペクトルの解析を行い,これらの物質を特徴づける固体パラメータを評価し,その電子状態の特徴を明らかにすることである.

 解析で用いるクラスターモデルは,物質の結晶構造に基づいてM-O6の原子配置を持つ.ただし.対称性はOhで近似する.

 ハミルトニアンは,

 

 である.Hsolは固体効果を記述する部分であり,

 

 と書かれる.ここで,はOhの既約表現基底(3z2-r2,x2-y2,xy,yz,zx)を表し,はスピンを表す.また,,は,それぞれM 3d軌道,O 2p分子軌道に対する生成演算子を表す.したがって,第1,2項は3d軌道,2p分子軌道の1体準位を記述し,第3項は,これらの間の軌道混成を記述する.第4項は3d電子間のクーロン相互作用を表し,第5項は,励起終状態で内殻正孔cが出来たとき,3d電子に働く引力ポテンシャルを表す.また,Hmultは遷移金属の原子内多重項構造を記述する部分であり,スピン-軌道相互作用項と電子間クーロン相互作用項から成る.本研究で用いるモデルは,原子内多重項による分裂構造を完全に取り込むものである.

 電子系の状態の記述は,基本的に3つの電子配置から成る基底系を用いて行う.例えば,基底状態は,

 

 を用いて記述する.ここで,dnは3d軌道にn個の電子がいる状態を表し,また,は2p分子軌道に出来た正孔を表す.

 スペクトルの計算は,例えば内殻XPSは,

 

 を用いて行う.|g〉,|f〉は電子系の始状態.終状態を表し,Eg,Efは対応するエネルギー固有値を表す.EBは光電子の束縛エネルギーであり,VRは入射光による双極子励起を表す.

 解析の例として,図1,2にCr2O3におけるCr 2p,3pXPSの計算結果を示す.点線は実験スペクトルであり,Hufner等によるものである.線スペクトルは上の計算式に基づいて数値計算により得られたものであり,実線は,これをGauss型関数とLorentz型関数を用いてたたみ込んだものである.

図表図1 Cr2O3におけるCr 2pXPSの計算結果.点線が実験,実線が計算結果である. / 図2 Cr2O3におけるCr 3pXPSの計算結果.点線が実験,実線が計算結果である.

 2pXPSの主構造である2ピーク構造は,2p内殻正孔のスピン-軌道相互作用によるものであり,2p3/2,2p1/2に対応したピークとなっている.また,高エネルギー側の弱い構造は2p1/2ピークに対応するサテライト構造である.2pXPS終状態では,内殼正孔ポテンシャルによってCr 3d準位が引き下げられるが,このときCr 3d-O 2p混成を通じて電荷の再配置が起こる.OサイトからCrサイトに電荷が移動し,内殻正孔を遮蔽した状態がスペクトルの主ピークを形成し,非遮蔽状態がサテライト構造を形成している.この機構によって生じるサテライトは,電荷移動型(CT)サテライトと呼ばれるものである.これまで,軽い系の2pXPSで見られるサテライトの起源については,必ずしもコンセンサスが得られていなかったが,本研究では,CTサテライトとして系統的に理解できる事を示した.

 なお,主ピークとサテライトのエネルギー間隔Eが大きいということが,軽い系の2pXPSに見られる特徴であるが(Ti2O3ではE〜12(eV)であり,NiOではE〜6(eV)である.),これは.軽い系における有効な混成Veffが大きいということがスペクトル構造に反映されたものである.Veff

 

 で定義される量であるが,dn配置における3d正孔の数,N(eg),N(t2g)が因子として含まれるため,例えば,Ti2O3では6.9(eV)もの大きな値になる.このため,結合状態に対応する主ピークと,反結合状態に対応するサテライトが大きく分裂している(2VeffKの程度).

 一方,3pXPSでは,スペクトル構造は1本の主ピークと高エネルギー側の幅の広いサテライト構造から成る.3p正孔のスピン-軌道結合定数(3p)は小さいため,主ピークは分裂しない.また,終状態における3p正孔と3d電子の多重項結合が大きいため,交換サテライトと呼ばれるサテライトが生じている.計算結果のサテライト構造は,交換サテライトとCTサテライトによって形成されたものであり,実験スペクトルをよく再現している事が分かる.

 内殻XPSの解析を通して得られたパラメータを表1にまとめる.M3d-O2p間の電荷移動エネルギーは,TiからFeにかけて小さくなることが分かる.これは,遷移元素が重くなるほど3d準位が下がることを反映している.また,FeからTiにかけて3d電子間相互作用Uddは小さくなり,3d-2p間の軌道混成Vは大きくなることが分かる.これは,軽い元素ほど3d軌道が空間的に広がっている事を反映するものである.

 本研究ではさらに,表1のパラメータを用いて価電子帯(3d)XPS,BIS,また,2p内殻励起による3p,3d共鳴光電子放出スペクトル(RXPS)の計算も行った.

 特に3dXPSでは,Veffが大きいことを反映して,スペクトルが結合,非結合,反結合状態に対応した3つの構造に分裂するのが特徴である.Ti2O3,V2O3の実験スペクトルではO2pからの寄与が支配的となっているため,計算との比較ができないが,Cr2O3,Mn2O3,Fe2O3については実験とよく対応する結果が得られている.

 一方,RXPSでは.Ti2O3,V2O3については.最近Shin等によって行われた実験との比較を行い,計算結果とよく対応することを見た.Cr2O3,Mn2O3,Fe2O3については現在実験が行われていないため.表1のパラメータに基づく予想スペクトルを示してある.

表1 内殻XPSの解析によって得られた固体パラメータ(eV).

 本研究では,高エネルギースペクトルの解析を通して.軽い系ではVeffが大きいということが特徴であり,これがスペクトル構造に強く影響していることを見たが,この特徴は,物質の電子状態の性質にも直接関係している.つまり,Ti2O3,V2O3,Cr2O3,Mn2O3ではVeffが大きいため,第1イオン化状態,基底状態は,各配置の強く混じり合った結合状態で構成されており,これらの物質はMH型とCT型の中間の絶縁体として分類される.特にTi2O3,V2O3については,これまで典型的なMH型の絶縁体であると考えられていたが,この結果は,第1イオン化状態において導入される正孔が,3dだけではなくO2pにもかなり広がっている事を意味するものである.一方,Fe2O3は良いCT型の絶縁体として分類される.

審査要旨

 重い電子系や高温超伝導で代表される強相関電子系は、現代の物性物理学の重要な課題の一つである。重い電子系では、4fと5fの内殻に局在した軌道を持つ希土類化合物とアクチノイド化合物を問題とする。高温超伝導体では、Cuの3d電子がやはり局在した軌道を持ち強い電子相関のもとになっている。従って高温超伝導の問題は、広く遷移金属化合物で見られる電子相関の一例という側面も持っている。

 遷移金属化合物における電子相関か決定的に重要な例としては、化合物磁性絶縁体を挙げることができる。これらの物質では、非磁性状態を仮定してバンド計算を実行すると、フェルミ面の存在する金属状態が基底状態となる。しかしクーロン斥力がバンド幅で代表される運動エネルギーよりも大きければ、電子は各遷移金属イオンに局在し磁気モーメントを形成する。その局在モーメントに付随するエントロピーは、局在した電子の運動エネルギーが仮想遷移によって多少なりとも得できるよう反強磁性的配置をとることによって消失する。このような電子間相互作用によって電子が局在した状態は(広義の)モット絶縁体と呼ばれる。

 個々の物質におけるクーロン相互作用の大きさを評価する手段としては各種の光学的測定がある。もっとも直接的方法としては価電子帯光電子放出と逆光電子分光を組み合わせることが挙げられる。光電子分光や逆光電子分光に限らず種々の光学的測定では多体相互作用を含めた始状態と終状態の詳細によってそのスペクトルが与えられるから、個々の分光手段の解析から各物質のパラメータを評価することが可能である。またスペクトル形状そのものが多体効果の反映であるから、それ自体が多体問題の興味ある対象を形成している。ここに当論文で扱われているような分光理論の一般的意味がある。

 近年シンクロトロン放射が強力な連続スペクトル光源として利用され、詳細な実験が様々な物質系において系統的になされるようになった。それにともない解析に用いられる分光理論も長足の進歩を遂げつつある。その結果、より精密なスペクトル解析が可能になったばかりでなく、化合物絶縁体の理解そのものに重要な進展があった。

 絶縁体を特徴付ける量として励起エネルギーのギャップがある。先ほどのモット絶縁体ではこの励起はあるサイトのd電子をことなるサイトに移すプロセス()が暗黙のうちに仮定されていた。このプロセスに必要なエネルギーがクーロン斥力の大きさUである。Uがバンド幅Wよりも大きい時に絶縁体となる。これに対してZaanen,Sawatzky,AllenはCUCl2やNiCl2などの化合物のギャップは陰イオンの価電子帯に正孔を作る励起()によって与えられることを示した。この励起に必要なエネルギーは電荷移動エネルギーと呼ばれる。がUより小さくてもW<であればやはり絶縁体となる。この場合を電荷移動(CT)型絶縁体と呼び、前者のW<U<の場合をMott-Hubbard(MH)型の絶縁体と呼んで両者を区別する。もちろん両者ともに電子相関が絶縁体になる根本原因であることには変わりはない。

 近年重い遷移金属酸化物(MO;M=Mn,Fe,Co,Ni,Cu)についてはいくつかのグループによって系統的研究がなされ、CuO,NiO,CoOは典型的な電荷移動型の絶縁体に分類されるというコンセンサスが形成された。MnOは電荷移動型とMH型との中間に属すると考えられている。これに対して軽い遷移金属酸化物に対してはまだスペクトル構造の解釈そのものも確定しておらず、系統的研究はなされていない。

 魚住氏の論文では、典型的重い遷移金属酸化物がCT型絶縁体であることを確立するのに有力であったクラスターモデルを用いて、軽い遷移金属酸化物の系M2O3(M=Ti,V,Cr,Mn,Fe)の高エネルギー分光の解析を進め、その絶縁体としての特徴を明らかにすることを目的としている。計算に用いるのはOh対称性を持つM-O6クラスターである。実際の物質におけるMサイトは必ずしもOh対称性を持つわけではないが対称性の低下の度合は小さいと考えられる。このクラスターに対して用いるハミルトニアンは議論する光学過程によって多少ことなるが、電荷移動エネルギーとd電子間のクーロン相互作用Uddと混成の強さVとを基本的パラメータとして含んでいる。多重項分裂を与えるスピン-軌道相互作用定数、スレーター積分についてはHartree-Fock計算の値を使い、結晶場の大きさについては10Dq=0.5eVを仮定する。

 本論文では、内殻電子の光電子分光(2pXPS,3pXPS),価電子帯光電子分光(3dXPS),逆光電子分光(BIS),内殻共鳴光電子分光(RXPS)のスペクトルが議論されている。その際用いる基底としては、始状態、終状態とも遷移金属の3dホールが酸素の2p軌道に1個ないし2個電荷移動した状態を考える。始状態をシンボリックに書けば、

 110949f06.gif

 で与えられる。それぞれのスペクトル関数は、Lanczos法によるGreen関数の連分数展開に基づいて計算されている。実験と比較するにはさらに適当な幅を持つLorentz型関数とGauss型関数を畳み込んだスペクトルを用いる。

 さて分光スペクトルの解析の基礎となるのは2pXPSである。そのスペクトルには2p内殻正孔のスピン-軌道相互作用によって分裂した2p3/2,2p1/2の2ピークからなる主構造がある。この主構造に、酸素の2pと遷移金属の3d軌道の間で混成項を通じて電荷の移動した状態によるサテライト構造が付随する。これに対して、3pXPSでは、スペクトルは一本の主ピークと高エネルギー側に広がる幅の広いサテライトからなる。主ピークの分裂が存在しないことは3p正孔のスピン-軌這相互作用が2pのそれに比べて小さいということで理解される。また幅の広いサテライトは、電荷移動効果によるサテライトに、3p-3d交換相互作用による交換サテライトが重なったとして理解できる。このようにクラスターモデルに基づく理論はM2O3系の内殻XPSのスペクトルを良く再現しその解釈を明らかにした。

 内殼XPSの解析から得られた固体パラメータには遷移金属元素をTiからFeまで代えていったとき一定の傾向が見られる。電荷移動エネルギーは、遷移金属元素が重くなるほど小さくなるが、それは3d準位が下がることを反映していると考えれば合理的な結果である。また重い元素になるほど3d電子間相互作用Uddは大きくなり、混成項Vは小さくなるが、これも3d軌道は重い元素ほど局在するから自然な結果である。これらの固体パラメータの妥当性は同じパラメターを用いて他の分光スペクトルを計算し、実験と比較することによって検証することができる。本論文では、価電子帯光電子分光、逆光電子分光、内殻共鳴光電子分光が取り上げられている、それらの結果も、詳細についてはなお改善すべき点はあるものの、おおむね妥当なスペクトルを与えている。

 Ti2O3などの軽い遷移金属化合物の絶縁体としての特徴を、光電子分光で決めた固体パラメータの値に基づいて議論することができる。Ti2O3の2pXPSスペクトル構造の特徴の一つとして、主ピークとサテライトのエネルギー間隔が約12eVとNiO(約6eV)などの重い遷移金属化合物のそれに比べてかなり大きいことが挙げられる。これは、混成の行列要素Vそのものが大きい上にさらにd電子数が少なくて混成のチャンネル数が多く、実効的な混成効果Veffがさらに増強されていることで理解される。Veffが大きいという事実は、軽い遷移金属化合物の絶縁体としての性質を考える際にも重要である。従米Ti2O3やV2O3の絶縁相は典型的なMH型絶縁体であり、最低励起は()のプロセスであると考えられてきたが、Veffが大きいとdn-1配置とdn配置がほとんど同じ重みでまじることになる。それは軽い遷移金属化合物を典型的なMH型の絶縁体と考えることに変更を迫り、むしろCT型とMH型の中間の絶縁体として考えるべきことを意味している。これは本論文で得られた重要な成果といえよう。スペクトル解析から得られたVeffの大きさは、ここで用いたクラスターサイズが必ずしも十分ではなく、より大きなクラスターを用いてバンド効果を取り入れることの必要性を示唆していると考えられるが、そのような精密化は今後の課題であり、本論文で得られた知見の価値を損ねるものではあるまい。

 以上本論文は、軽い遷移金属化合物の高エネルギー分光スペクトルを、クラスターモデルに基づいて系統的に解析し、そのスペクトル構造の理解を可能にしたのみでなく、それを通してこの系の絶縁体の性質の理解にも新生面を開いたと評価できる。よって本論文は.博士(理学)の学位論文として合格と認める。なお、本論文の相当部分は指導教官である小谷章雄教授との共同研究であるが、論文提出者の寄与が十分大きいことが指導教官によって認められている。

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