イオントラップとは、イオンを真空中の空間に閉じ込めた上に、冷却手段を併用してイオンの運動エネルギーを抑え、分光学的に理想に近い実験条件を作り出すものである。イオンは壁や他の分子との衝突を起こしにくくなり、熱運動によるドップラー効果も低減され、電磁波との相互作用時間も非常に長くとることができる。こうしたイオントラップの利点を生かすためには、閉じ込めたイオンを冷却し、イオンの運動エネルギーを下げる必要がある。このためには、イオントラップ中のイオンの運動エネルギー変化をもたらす現象を研究する必要がある。イオンの運動エネルギー変化をもたらす現象としては、イオンと他の分子との衝突や、イオン同士の衝突の効果が挙げられる。一方、イオンを極低温まで冷却する手段としては、レーザー冷却法がある。 イオンは他の分子との衝突やイオン同士の衝突により、運動エネルギーが変化するが、本研究で用いたラジオ波(Radio Frequency;RF)によるトラップ(RFトラップ)中におけるイオンの衝突では、通常の衝突効果とは異なり、イオンの運動エネルギーを上げる効果がある。これは、イオンを閉じ込めるためにRF電場を用いているために、衝突によるイオンの軌道変化から生じる加熱効果で、RF加熱と呼ばれている。RF加熱を含む、衝突によるイオンの運動エネルギー変化を記述するモデルとしては、緩衝ガス冷却の研究で提案された、一次元弾性衝突モデルがある。緩衝ガス冷却とは、イオンよりも軽い中性の緩衝ガス原子をトラップに導入し、イオンとの衝突を利用して、高温のイオンを1000K程度まで冷却する方法である。イオンよりも軽い緩衝ガスとの衝突では、イオンにはRF加熱よりも衝突冷却効果の方が大きく影響する。1次元弾性衝突モデルは、緩衝ガス冷却の実験をよく説明している。イオンより充分軽い緩衝ガスを用いた場合、冷却限界は緩衝ガス温度の約2倍となることが、1次元弾性衝突モデルにより示されている。一方、イオンよりも重い中性原子との衝突では、イオンにRF加熱が大きく影響するため、衝突の度にイオンは加熱される。イオンは一方的に加熱され続けると、イオンはトラップから失われる。このため、イオンより重い中性原子をトラップに導入し、イオンを長時間閉じ込めて、イオンと重い中性原子との衝突効果を調べる実験は、これまで行われてこなかった。 レーザー冷却法とは、レーザー光の輻射圧を利用してイオン等の運動エネルギーを減少させる方法である。レーザー周波数をイオンの共鳴周波数よりも低周波側におくことで、ドップラー効果を利用して、レーザーに向かってくる速度成分をもったイオンだけを選択的にレーザーと共鳴させる。このときイオンが吸収する光子の運動量を利用してイオンの速度を低下させることができる。レーザー冷却法は、原理的にはKのオーダーまで冷却できる方法である。 本研究では、イオンを冷却する上で、イオンの運動エネルギー変化をもたらす2つの要因である、衝突加熱とレーザー冷却の効果を調べるため、RFトラップ中にMg+を閉じ込め、様々な条件下でのMg+のレーザー冷却を行った。 まず、Mg+だけを閉じ込めて、レーザー冷却に関する基本的実験を行った。冷却用レーザーの周波数を掃引して、Mg+の発するレーザー誘起蛍光(Laser Induced Fluorescence:LIF)スペクトル線の測定を行った。レーザー周波数掃引中に冷却が起こるため、スペクトル線は独特の非対称な形を見せる。同時に、レーザー周波数の掃引中の、映像によるイオン雲の観測も行った。これまでLIFスペクトル線の形や理論的なことのみから解析されていた、イオン雲の温度変化やそれにともなうイオン雲の空間分布変化を、映像を用いて視覚的に確認することができた。またさらに数個のイオンのレーザー冷却を行い、複数個のイオンが冷却された究極の状態である、イオンの配列構造の生成にも成功した。 次に、トラップに中性原子を導入して、衝突によるRF加熱を積極的に引き起こさせた条件下で、レーザー冷却を行った。RF加熱は、イオンの冷却を妨げる重要な要素であるにも関わらず、レーザー冷却中にRF加熱の効果を加減して、RF加熱がイオンの冷却過程に与える影響を調べた実験はこれまで無かった。衝突相手の中性原子としてはMg+よりも軽いHeと、Mg+よりも重いBaの2種類を用いた。Mg+よりも軽いHeを導入した実験では、レーザー強度がある値よりも弱くレーザー冷却効果が小さい場合、緩衝ガス冷却の実験の場合と同じく、Mg+の温度は1次元弾性衝突モデルの示す収束値に一致した(図1)。Mg+よりも重いBaの導入については、レーザー冷却を併用することでRF加熱を打ち消し、イオンより重い中性原子を導入した状況で初めてイオンの長時間閉じ込めに成功した。このときのMg+の温度を測定することにより、Baとの衝突効果を実験的に測定することが可能となった。Baの密度を数段階に変え、RF加熱レートが異なる場合に対するMg+の冷却スペクトルを図2に示す。衝突によってMg+を加熱するはずのBaの密度が高い程、Mg+のスペクトル線の幅は狭くなり、低温を示すといった結果が得られている。 図表図1:Heの圧力は最大限の1.3×10-4Pa,レーザー強度は弱めの50Wの場合のMg+のLIFスペクトル線。点線はガウス型波形で、温度は560Kに相当する。常温のHeの温度の約2倍であり、1次元弾性衝突モデルの示す値と一致している。 / 図2:Baオーブンの電流値を変え、Ba密度を変えたときのMg+のLIFスペクトル。Baの密度が高い程スペクトル線幅は狭まり、イオンがより冷却されている。 この一見逆にも思える結果を示した実験の解析を試みた。Mg+の運動エネルギーに変化をもたらすのは、Baとの衝突加熱,Mg+同士の衝突加熱,レーザー冷却の3種類である。これらの効果をとりいれたモデルで実験結果の説明に成功した。 Mg原子がトラップ内部でイオン化され、閉じ込めが開始した直後の段階を考える。このとき個々のMg+の運動エネルギーに変化をもたらすのは、Baとの衝突によるRF加熱とレーザー冷却である。Mg+同士の衝突については、イオン化直後のMg+は高温かつ希薄なため、衝突頻度が小さいので省略する。Baとの衝突加熱レートとレーザー冷却レートのそれぞれは、Mg+の運動エネルギーに依存している。1次元弾性衝突モデルを適用したモデル計算を行い、衝突加熱レートとレーザー冷却レートをMg+の運動エネルギーの関数として表した(図3.)。これによると、Mg+の運動エネルギーのある値を境にして、レーザー冷却レートが衝突加熱レートを上回り、Mg+が安定に閉じ込められる領域と、逆に衝突加熱レートがレーザー冷却レートを上回り、Mg+がトラップから失われていく領域に分かれることがわかった。レーザー強度とレーザー周波数を固定した場合、はBaの密度が高いほど小さくなり、捕獲されるMg+イオン数が少なくなることが、図3から読みとれる。 Mg+イオン数に違いが現れると、これは冷却限界にも影響を及ぼす。冷却されることによって密度の高くなったMg+は、Mg+同士の衝突頻度が大きくなるため、これによるRF加熱が無視できなくなるからである。Mg+イオン数が多ければ比較的高温段階でも密度は高めになり、RF加熱が大きくなってレーザー冷却レートと釣合い、冷却限界に達してしまう。このときBaとの衝突加熱は、平均の加熱レートを考慮する限りでは小さくて問題にならないことも確認した。を計算し、これに対応するMg+イオン数を使ってレーザー冷却のシミュレーションを行った結果、実験結果を定性的に説明することができた(図4)。これまで1次元弾性衝突モデルは、イオンの集団平均エネルギーについての方程式としてのみ用いられてきた。1次元弾性衝突モデルをMg+の運動エネルギー分布を考慮して扱ったのは、本研究が初めてである。 図表図3:Mg+の運動エネルギーに対する、Baとの衝突加熱レートとレーザー冷却レート。Mg+のBaとの衝突頻度nが小さいほど、加熱レートと冷却レートの大小関係が入れ替わる箇所は大きくなる。 / 図4:イオン数に対応するパラメーターneTe3/2を変えて再現したMg+のLIFスペクトル。イオン数が少ない程、スペクトルは狭くなり、実験結果を再現している。 こうして、イオンよりも重い衝突相手との衝突についても、1次元弾性衝突モデルで説明できることが実験によって確認され、1次元弾性衝突モデルの一般性を示すことができた。直接にはレーザー冷却できないイオンを、冷却されたイオンとの衝突により間接的に冷却する手段として提案されている共同冷却法では、2種類のイオンの同時閉じ込めをしなければならない。軽い冷媒イオンを用いて重いイオンを冷却できることは、1次元弾性衝突モデルの示すところである。軽い冷媒イオンにとっては、必然的に重い相手との衝突過程が現れる。RFトラップにおける共同冷却はまだ実現されていないが、将来行われるであろう共同冷却実験の準備としても、本研究の意義は大きいと考える。 |