固体物理学において、金属電子の問題と、スピン系での磁性の問題は2つの非常に重要な問題である。これらの問題はそれだけでも難しい問題を含んでいるが、高温超伝導体や低次元物質などの強相関電子系においては、この2つが密接に絡み合って、新しい物理現象が展開している可能性がある。つまり物質の電気的な性質は金属的であるが、一方磁性的な性質は金属電子論では理解されない場合があるという点である。 例えば中性子散乱で調べられたように、高温超伝導体では低エネルギーの磁気励起が超伝導転移点Tcよりも高温から極度に抑えられている。また帯磁率も減少し、NMRで見られる1/T1Tも金属電子に対して期待されるコリンハ則からずれて、Tcより高温から減少を始める。これらのことは、なんらかのスピンギャップが開いていることを示唆している。これに対して、電気伝導などで見られるような電荷の運動に関しては、そのような温度領域で大きな変化は見られていない。通常のBCS理論に従うs-波超伝導体の場合、Tc以下で準粒子励起に対するエネルギーギャップが開くので、電荷に対してもスピンに対しても同時にギャップが開く。明らかに高温超伝導体では今までの理論では理解されないことが起こっている。 この問題に関しては世界中で研究が続けられているが、本論文はその基礎となるべきスピン系におけるスピン・ギャップ発現の問題を取り上げている。もちろん実際の高温超伝導体などとの比較のためには、電荷を運ぶキャリア(この場合はホール)が導入された時でもスピン・ギャップが開いたままの状態が可能であるかどうか調べなければならない。しかし、この問題はもう一段階次の問題であり、この論文では議論されない。本論文で扱うスピン系の問題だけをとっても、まだわかっていない点が数多く残っている。また、低次元系で見られるハルデイン・ギャップ、梯子型ハイゼンベルグモデル、スピン・パイエルスの問題でのスピン・ギャップとの関連からも、非常に豊かな物理を内包した問題である。 本論文では、第一章が序、第二章では格子変形によってスピン交換相互作用が周期的に変調した(dimerizationと呼ぶ)2次元ハイゼンベルグモデルを扱っている。第三章では、二章のモデルを拡張して任意の結合定数を持った2次元(擬1次元)dimerizeしたハイゼンベルグモデルを議論している。第四章はまとめと今後の課題に当てられている。 モデルの解析は、スピン波近似(必要に応じてmodified spin waveを用いる)摂動計算などの解析的な方法、および小さいクラスターの厳密な対角化、量子モンテカルロなどの数値的な方法を組み合わせて行っており、現在考えられるかぎりの手法を用いている。その結果、基底状態のエネルギー、絶対零度での相図、つまりどのようなパラメータ領域でスピン・ギャップが開くかという点、相境界線上での臨界現象について明らかにされた。とくに ・反強磁性長距離秩序が消えると同時にスピン・ギャップが開き始めること、 ・相図上では、いろいろな相でのスピン・ギャップが統一的に理解できるということ、 ・2次元量子スピン系の臨界指数は、3次元古典スピン系から期待される指数と食い違う可能性があること、 が明らかになった。 具体的に、用いられたハミルトニアンは正方格子上のスピン・ハミルトニアン とまてめて書くことができる。ここではi=(ix,iy)サイトでのスピンのスピン演算子、はx-方向のdimeizationを表すパラメータである。第1項と第2項からわかるように、x-方向には1つおきに交換相互作用が大小となったボンドが並んでいる。またy-方向のボンドはすべて同じ大きさの交換相互作用J’としている。まず第二章ではJ’=J(1-)とおいてy-方向も小さい方の交換相互作用と同じ大きさとした簡単な場合を調べ、第三章では一般に,J’を変えて調べている。 第二章のモデルでは、次のことが既にわかっている。(1)=0では、モデルは空間一様な2次元ハイゼンベルグモデルとなるので反強磁性長距離秩序が存在し、スピン・ギャップはない。(2)=1では基底状態は局所的なシングレットで表され、スピン・ギャップがある。これらのことから、を0から1まで変化させていった時、ある有限のcで反強磁性長距離秩序が消滅し、スピン・ギャップが開くという相転移が起こることが期待される。この相転移点は、反強磁性スピン構造因子Sz(Q=,)を量子モンテカルロ法を用いて求め、そのサイズ依存性から決定された。その結果、(1)0<0.32では絶対零度での反強磁性長距維秩序が存在し、0.32<<1では代わりにスピン・ギャップが現れることがわかった。反強磁性長距離秩序が消えると同時にスピン・ギャップが形成されるという点はmodifiedスピン波近似の結果と一致する。しかしスピン波近似ではc=0.8を与え、定量的に悪い結果を与えることがわかった。 第三章では、J’とのパラメータを変えて、どのような領域でスピン・ギャップが開くか、反強磁性長距離秩序が生じるかという点を調べた。その結果、反強磁性長距離秩序ができるのは、が小さくJ’がある程度大きい領域であることが示された。このモデルハミルトニアンは特殊な場合として以下のモデルを含んでいる。 J’,のパラメータを変えて相図を調べることにより、これら全ての場合のスピン・ギャップが実は相図上で繋がっていることが明らかになった。つまり、スピン・ギャップの発現の機構は基本的に同じであり、局所的なdimerシングレット形成によってギャップが開くという観点から統一的に理解できることが示された。いろいろな物質での実験結果の類似性はこの意味で理解される可能性があることが議論されている。 但しJ’〜0,〜0の付近での相図は微妙である。スピン波近似の範囲では、=0の場合に0J’Jc=0.04Jの領域でスピン・ギャップが開くことになる。一方、量子モンテカルロ法による解析はこのような小さなJ’では困難で、明確な結論を出すことは難しい。=0の場合は異方的2次元ハイゼンベルグモデルの問題であるが、最近Parolla等はJ’の小さい領域で、独立した1次元鎖の集まりになる相とスピン液体の相が実現すると主張している。本論文のモンテカルロの結果からは、J’0.05Jの領域では独立した1次元鎖の集まりという相は否定された。 また相境界線上の臨界指数について詳しく調べられた。スピン・ギャップ相でのスピン相関長がと振舞うと仮定して、モンテカルロの結果を有限サイズスケーリング法によって解析すると、臨界指数として〜1という結論が得られた。これは2次元量子系に対応すると信じられている3次元古典ハイゼンベルグモデルでの臨界指数(〜0.7)と食い違っている。この点については詳しいことはまだわかっていない。また、磁化曲線の振舞は、低エネルギー励起状態がhard-coreボゾンであると仮定すると理解できることを示した。 以上のように本研究では、スピン・ギャップ発現のメカニズムを統一的に理解しようという目的のために様々な手法を駆使して、1つの簡単化されたスピン系のモデルについて詳しく調べられている。実際に実験との比較を行うには、キャリアの導入、格子変形の起源、動的な格子変形の議論などが必要であり、まだ多くの問題が残っている。また本研究は絶対零度の性質だけを議論したものであり、有限温度で見られるような擬スピン・ギャップの問題も残された問題である。しかし上で述べてきたように、いくつかの重要な知見が本論文により得られた。とくにスピン・ギャップの形成が色々な興味あるモデルにおいて、同一のメカニズムによって生じているということが、相図の解析により示されたことは大いに評価される。本研究は今田正俊助教授との共同研究であるが、論文提出者は精密な量子モンテカルロ法の数値計算、結果の解釈、解析的な方法との比較など本質的な寄与をしていると認められる。よって審査員一同は本論文が博士論文にふさわしいものであると認定した。 |