量子色力学(QCD)は強い相互作用の理論として確立しているが解析的な手法でこれを解くことは極度に困難な問題である。格子QCDはシミュレーションによってまともにこれを解く方法として世界の多くの理論グループによって研究が進められているが、現代の計算機の能力をもってしても限られた少数の物理量しか計算できていないのが現状である。計算を困難にしている要因の一つとして独立したクオークループを持つ非連結図形を含む2点および3点グリーン関数および4点のグリーン関数がある。これらを必要とする物理量の計算では格子の大きさに応じて逆行列の計算回数が飛躍的に増加し計算が不可能になる。このことが格子QCDの計算を制約し、10年以上にわたって多くの研究者の挑戦を退けてきた。 論文提出者らはゲージ不変でない演算子の真空期待値は0であるというエリツァーの定理を用いてグリーン関数を求める新しい方法を開発しそれを様々な物理量の計算に適用しいくつかの重要な結果を得た。 本論文は6章からなり、第1章は本研究全体の動機と背景、第6章でまとめと結論が述べられているが、主要部分は第2章から第5章までで各章にも緒言と結論が述べてある。 まず第2章はハドロンの散乱長について述べられている。格子QCDによる散乱長計算の理論的定式化はリュッシャーによって与えられたがシミュレーションで散乱問題を扱うことは殆ど試みられていなかった。論文提出者らは新しいグリーン関数計算法を適用することによってパイ中間子パイ中間子散乱およびパイ中間子核子散乱の散乱長を計算し、カレント代数とPCACによる理論的予言値(質量と崩壊定数について格子QCDの予言値を用いた)と良い一致を得た。またK中間子核子散乱についてカレント代数とPCACによる理論的予言値と大きくは違わない結果を得た。一方核子核子散乱については計算機の制約から重いクオーク質量を用いたため実験値と比較できるような大きな値は得られなかったが、パイ中間子パイ中間子散乱、パイ中間子およびK中間子核子散乱に比べてかなり大きな値となりボゾン交換模型から理論的に期待される定性的な特徴を得た。 第3章はU(1)問題について述べている。’中間子の質量がパイ中間子やK中間子の質量に比べて異常に重いことについては1/N展開による定性的な理論研究はなされていたもののその質量をQCDの第一原理から説明することは成功しておらずQCDの大きなパズルの一つとなっていた。格子QCDでは二つのクオークループの相関を計算する必要があり過去に不完全な試みがあるにすぎなかった。論文提出者らは新しい計算法の適用によって’中間子の質量として実験値よりやや小さい750±40MeVを得、U(1)問題を定量的にほぼ解決した。また’中間子の質量とインスタントンとの相関を調べ、’中間子はインスタントンの励起によって重くなることを示し理論的予想を確かめることができた。 第4章はパイ中間子核子シグマ項について述べている。カイラル対称性の破れの度合いを表すシグマ項の計算には海クオークの効果を取り入れる必要があるがクオークループと核子の伝播関数の相関を計算する困難さから満足する計算がなされたことはなかった。論文提出者らが開発した新しい方法を適用することによって誤差の範囲内で実験値と矛盾のないシグマ項を得ることに成功した。 第5章は陽子のスピンについて述べている。最近の深非弾性ミューオン陽子散乱、深非弾性電子ヘリウム散乱、深非弾性ミューオン重陽子散乱の解析から陽子内のクオークが担うスピンの和は0.2程度であることが示された。しかし陽子スピンの理論的評価のためには海クオークが担うスピンを計算する必要がありこの問題を困難なものとしていた。この問題は第4章のシグマ項計算の困難と同根のものであり、シグマ項の計算と平行して陽子スピンを計算し0.18±0.10を得、実験値を説明することに成功した。ストレンジクオークの担うスピンが負でかなり大きな寄与を持つことも示し実験値をほぼ再現した。 第2章から第5章に至る各章で得られた結果はいずれも長い間研究者の挑戦を退けてきた困難な問題に基本的解決の方向を明確に示すものでありハドロンの構造と相互作用の研究に重要な発展をもたらしたものであると評価される。よって、審査委員一同は、本論文が博士(理学)の学位に値するものであると判定した。 なお、本論文は福来正孝、美濃英俊、大川正典、宇川彰氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって基本的な考え方を提案し実際の計算を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 |