学位論文要旨



No 110958
著者(漢字) 藏増,嘉伸
著者(英字)
著者(カナ) クラマシ,ヨシノブ
標題(和) 格子量子色力学におけるハドロン行列要素
標題(洋) Hadron Matrix Elements in Lattice QCD
報告番号 110958
報告番号 甲10958
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2871号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 太田,浩一
 東京大学 教授 赤石,義紀
 東京大学 助教授 早野,龍五
 東京大学 助教授 大塚,孝治
 東京大学 教授 風間,洋一
内容要旨

 格子QCDによるsimulationにおいてhadronの行列要素を求めようとする場合、基本となるものはhadronの多点Green関数の計算であり、そこから物理量を引き出す。この時hadronのoperatorはquark場によって正しい量子数を持つように組まれる。例えばpion()ならばquarkとanti-quarkを用いてJP=0-の量子数を持つように、またnucleon(N)ならば3個のquarkからJP+となるようにoperatorが作られる。Hadronの質量や崩壊定数は2点のGreen関数の計算を必要とするが、この計算は容易であり何ら問題はない。しかしながら2点のGreen関数から得られる物理量はごく少数であり、他の多くの物理量に対しては一般に3点以上のGreen関数が必要となる。例えばD-mesonのsemi leptonic崩壊における形状因子やBag parameter(BK,BB)などは3点のGreen関数が必要であり、hadron散乱長やK→崩壊振幅におけるI=1/2 ruleなどの計算には4点のGreen関数が必要となる。また同じ2点、3点のGreen関数に対してもquark lineがすべて連結しているconnected図形と、独立したquark loopを含むdisconnected図形の2種類がある。Flavour-singlet mesonの質量計算に対しては2点のdisconnected図形が、-N termに対しては3点のdisconnected図形がそれぞれ必要である。これらのGreen関数のうち4点のものとdisconnected quark loopを含むものは計算することが非常に難しく、過去10年以上もの間多くの人々が挑戦してきたがいずれも失敗に終っている。そこで我々はElitzurの定理(gauge不変でないoperatorの真空期待値はゼロ)を用いたGreen関数の新しい計算方法を提唱し、ここ数年の間に以下のような様々な興味深い物理量の計算(いずれも4点またはdisconnected quark loopを含む2点、3点のGreen関数を必要とする)に応用を試み、充分統計の良い結果を得ることに成功した。

(1)Hadron散乱長

 格子QCDによる散乱長計算の理論的定式化は1980年代半ばにLuscherによって与えられたが、今日まで実際のsimulationにおいては散乱問題は殆んど未開拓の分野であった。その主な理由はこの問題が4点のGreen関数の計算を必要とするためであった。先ず我々は我々の開発した方法を-散乱における散乱長の計算に適用してその有効性を確かめ、その後-N、N-Nの散乱についての散乱長を求めた。その結果--Nの散乱長については、current algebraとPCACから導かれる理論的な予言値と矛盾しないことが確かめられた。これはLuscherによる散乱長計算の定式化と我々の計算方法の妥当性を示している。ここでcurrent algebraからの予言値は格子上で得られたpion質量とpion崩壊定数を使った。他方N-Nの散乱長についてはchiral symmetryによる制約がないために--Nの場合のような理論値は存在せず、その非常に大きな散乱長の値は完全にdynamicalな要素によって決まっている。現在N-N散乱はpotentialをもちいた現象論的な理解しか得られておらず、完全に解明されているとはいいがたい。従ってN-Nの散乱長をQCDの第一原理からdynamicalに求めることは格子QCDに課せられた重要な課題であると言える。今回の我々の計算は計算機の性能による制約から現実世界よりもはるかに重いquark質量で行なった。その結果3S11S0の両方の固有状態はともに引力相互作用であり散乱長も--Nに比べてかなり大きな値を得た。これらの結果を直接実験結果と比較することはできないが、重いquark質量において期待される定性的な特徴を示している。

(2)U(1)問題

 Flavor-singlet粒子である’-mesonの質量がpionやkaonに比べて著しく重いことは長年の間U(1)問題として知られておりQCDの大きな謎の一つである。その質量の起源について今日まで1/N展開に基づいた定性的な議論はなされてきたが、’-mesonの質量を予言するなどの定量的なレベルには至っていない。そこで我々は格子QCDを用いたsimulationによってQCDの第一原理から’の質量を求めることを試みた。その結果quark質量がゼロの極限で’の質量として750±40MeVの値を得た。これは実験から期待される値850MeVよりはやや小さいが、計算に伴う様々な系統的誤差を考慮すれば十分納得のできる結果である。この計算は二つのquark loopのcorrelationの評価を必要とするため非常に難しく過去に幾許かの不完全な試みがあるにすぎず、今回の我々の計算が方法的にも結果的にも満足できる最初のものである。また我々は今回の計算において’の質量とinstantonとの相関についても調べてみた。その結果’-mesonはinstantonの励起によって重くなることが明確に示された。

(3)-N term

 -N termはchiral symmetryの破れの度合いを表す強い相互作用における最も基本的なparameterの一つであるが、今日まで20年以上にわたって理論値と実験値との間に大きな隔たりが存在した。これまで解析的に様々な試みがなされたが本質的な解決には至っていない。その理由として-N -termを正しく評価するためには核子内のsea quarkの効果を正しく取り入れなければならないことがあげられる。これは強い相互作用における非摂動的な効果であり解析的に評価することは難しい。そこで我々はsea quarkの効果を格子QCDによるsimulationで計算し、問題の抜本的解決を目指したいと考えた。Sea quarkの寄与の計算にはquark loopとnucleonの伝播関数のcorrelationが必要であるが、これはtwo quark loopのcorrelationの計算と同じ困難を抱えており、過去において満足のできる計算結果はない。我々は今回の計算において我々が開発した新しい方法を適用し15%程度の誤差の範囲内で実験値とconsistentな termの値を得た。

(4)Proton spin content

 1980年代末、European Muon Collaboration(EMC)による深非弾性muon-proton散乱の実験結果から陽子内の3つのquark(up、dawn、strange)が運ぶspinの和はほとんどゼロであるという驚くべきことが導かれた。その後E142 Collaborationによる深非弾性electron-3He散乱の実験やSpin Muon Collaboration(SMC)による深非弾性muon-deuteron散乱の実験が行なわれ、これら3つの実験dataを解析し直した結果陽子内の3つのquarkが運ぶspinの割合は〜0.2程度であることが示された。この問題の困難はsea quarkが運ぶspinの割合を評価しなければならない点にあるが、格子上においてはこれは-N termの計算に対する困難と本質的に同じものであり、従って陽子内spinの問題に対しても格子QCDによる非摂動的計算は大きな威力を発揮すると考えられる。protonのaxial chargeの計算は-N termの計算と平行して行なわれ、その結果quarkが運ぶproton spinの割合として0.18±0.10という値を得た。

 以上.

審査要旨

 量子色力学(QCD)は強い相互作用の理論として確立しているが解析的な手法でこれを解くことは極度に困難な問題である。格子QCDはシミュレーションによってまともにこれを解く方法として世界の多くの理論グループによって研究が進められているが、現代の計算機の能力をもってしても限られた少数の物理量しか計算できていないのが現状である。計算を困難にしている要因の一つとして独立したクオークループを持つ非連結図形を含む2点および3点グリーン関数および4点のグリーン関数がある。これらを必要とする物理量の計算では格子の大きさに応じて逆行列の計算回数が飛躍的に増加し計算が不可能になる。このことが格子QCDの計算を制約し、10年以上にわたって多くの研究者の挑戦を退けてきた。

 論文提出者らはゲージ不変でない演算子の真空期待値は0であるというエリツァーの定理を用いてグリーン関数を求める新しい方法を開発しそれを様々な物理量の計算に適用しいくつかの重要な結果を得た。

 本論文は6章からなり、第1章は本研究全体の動機と背景、第6章でまとめと結論が述べられているが、主要部分は第2章から第5章までで各章にも緒言と結論が述べてある。

 まず第2章はハドロンの散乱長について述べられている。格子QCDによる散乱長計算の理論的定式化はリュッシャーによって与えられたがシミュレーションで散乱問題を扱うことは殆ど試みられていなかった。論文提出者らは新しいグリーン関数計算法を適用することによってパイ中間子パイ中間子散乱およびパイ中間子核子散乱の散乱長を計算し、カレント代数とPCACによる理論的予言値(質量と崩壊定数について格子QCDの予言値を用いた)と良い一致を得た。またK中間子核子散乱についてカレント代数とPCACによる理論的予言値と大きくは違わない結果を得た。一方核子核子散乱については計算機の制約から重いクオーク質量を用いたため実験値と比較できるような大きな値は得られなかったが、パイ中間子パイ中間子散乱、パイ中間子およびK中間子核子散乱に比べてかなり大きな値となりボゾン交換模型から理論的に期待される定性的な特徴を得た。

 第3章はU(1)問題について述べている。’中間子の質量がパイ中間子やK中間子の質量に比べて異常に重いことについては1/N展開による定性的な理論研究はなされていたもののその質量をQCDの第一原理から説明することは成功しておらずQCDの大きなパズルの一つとなっていた。格子QCDでは二つのクオークループの相関を計算する必要があり過去に不完全な試みがあるにすぎなかった。論文提出者らは新しい計算法の適用によって’中間子の質量として実験値よりやや小さい750±40MeVを得、U(1)問題を定量的にほぼ解決した。また’中間子の質量とインスタントンとの相関を調べ、’中間子はインスタントンの励起によって重くなることを示し理論的予想を確かめることができた。

 第4章はパイ中間子核子シグマ項について述べている。カイラル対称性の破れの度合いを表すシグマ項の計算には海クオークの効果を取り入れる必要があるがクオークループと核子の伝播関数の相関を計算する困難さから満足する計算がなされたことはなかった。論文提出者らが開発した新しい方法を適用することによって誤差の範囲内で実験値と矛盾のないシグマ項を得ることに成功した。

 第5章は陽子のスピンについて述べている。最近の深非弾性ミューオン陽子散乱、深非弾性電子ヘリウム散乱、深非弾性ミューオン重陽子散乱の解析から陽子内のクオークが担うスピンの和は0.2程度であることが示された。しかし陽子スピンの理論的評価のためには海クオークが担うスピンを計算する必要がありこの問題を困難なものとしていた。この問題は第4章のシグマ項計算の困難と同根のものであり、シグマ項の計算と平行して陽子スピンを計算し0.18±0.10を得、実験値を説明することに成功した。ストレンジクオークの担うスピンが負でかなり大きな寄与を持つことも示し実験値をほぼ再現した。

 第2章から第5章に至る各章で得られた結果はいずれも長い間研究者の挑戦を退けてきた困難な問題に基本的解決の方向を明確に示すものでありハドロンの構造と相互作用の研究に重要な発展をもたらしたものであると評価される。よって、審査委員一同は、本論文が博士(理学)の学位に値するものであると判定した。

 なお、本論文は福来正孝、美濃英俊、大川正典、宇川彰氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって基本的な考え方を提案し実際の計算を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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