本研究では、ショウジョウバエを用いてミオシン軽鎖キナーゼ(MLCK)の生体内で役割をより詳細に探ることを目的として、ショウジョウバエのMLCK遺伝子を単離し、これを解析する事に成功した。 論文提出者は、まず、小林久男博士(新技術開発事業団)から供与された牛胃平滑筋型MLCKの遺伝子を用い、ショウジョウバエのゲノムライブラリーをスクリーニングした。その結果、1つのMLCK遺伝子のDNA断片を得た。それを用い、cDNAライブラリーから、計7個のcDNAクローンを単離し、そのエクソン構造を決定した。その結果、2つのエクソン(エクソンA、エクソンC)の使用が異なる3つのタイプの転写産物が存在する事を明らかにした。それらがコードするアイソフォームをアイソフォームA,B,Cと命名した。アイソフォームAは、cDNAクローンの塩基配列より、929アミノ酸からなる蛋白質と予想される。アイソフォームAは、平滑筋型MLCKのものと非常に高い相同性を示すリン酸化触媒領域(アミノ酸は55%同一)及び調節領域(29アミノ酸のうち19個が一致)を含んでいた。また、種々の筋原線維構成タンパク質及び平滑筋型MLCKに見られ、ミオシン重鎖への結合に関与すると考えられている2種類の繰り返しモチーフ(ファイブロネクチンIII型モチーフ、イムノグロブリンC2モチーフ)が存在した。アイソフォームB及びCは、リン酸化触媒領域・2種類の繰り返しモチーフをアイソフォームAと共有していた。アイソフォームBは、調節領域もアイソフォームAと共有していた。アイソフォームCでは、エクソンCが使用されないため、カルモジュリン結合部位が異なるアミノ酸配列に置き換っていた。そのアミノ酸配列は、報告のあるカルモジュリン結合部位の共通性質(amphiphilic a-helix)を満たしていなかった。この様にスプライシングの違いによりカルモジュリン結合部位を欠いたアイソフォームが作られる事例は、脊椎動物のMLCKでは、今のところ報告はなく、新たな知見である。 ノザンブロットを行った結果、主要な転写産物は3.6kbであった。この転写産物は発生の全時期を通じ発現していた。アイソフォームA特異的エクソン(エクソンA)を用いたノザンブロットから、少なくともに成虫期おいては、この転写産物はアイソフォームAをコードしていると考えられた。この3.6kb転写産物は、細胞分裂及び細胞移動が激しく起こる初期蛹の時期に発現量が著しく増大していた。この時期ではまた非筋型ミオシン調節軽鎖の発現も増加していた。この結果より、ショウジョウバエにおけるこのMLCKの役割の1つは、非筋細胞型ミオシンの調節軽鎖をリン酸化し、それを通じて細胞運動を制御することが予想された。マイナーな転写産物として、後期蛹特異的に見られる5.2kb、後期蛹・成虫特異的な13kb、およびほぼ全ての時期で見られる18kbのものが存在した。18kb転写産物については、エクソンCを用いたノザンブロットでは検出されず、アイソフォームCをコードしていることが明らかとなった。5.2kb及び13kb転写産物はアイソフォームBをコードしていた。 in situハイブリダイゼーションにより、胚期でMLCKが強く発現している部位を特定した。プローブには各アイソフォームで共通して使われているエクソンを用いた。形態形成運動が終了するステージ13までは、発現を示すシグナルは観察されなかった。ステージ14に、体壁の筋肉の前駆体での弱い発現が観察され、この発現は以降のステージにおいても確認された。また、ステージ15に、頭部の筋肉での発現、および昆虫の排出器官であるマルピーギ氏管での発現が開始し、以後継続していた。筋肉における発現は、このMLCKが、非筋型のみならず筋肉特異的ミオシン調節軽鎖をもリン酸化する可能性を示唆している。 生化学的性質を調べるため、論文提出者は、大腸菌で組換えタンパク質を発現させた。これは、アイソフォームAのN-末端及びC-末端を欠失させ、触媒領域及び調節領域のみを含むものである。形質転換大腸菌の細胞抽出液を用いリン酸化のアッセイを行った。基質にはニワトリ砂嚢のミオシン調節軽鎖(ショウジョウバエの非筋型調節軽鎖とは81%のアミノ酸が同一)を用いた。その結果、調節軽鎖へのリン酸の取り込みは、Ca2+・カルモジュリン存在下においてのみ認められ、EGTA存在下ではほとんど認められなかった。この結果は、ショウジョウバエMLCKの主要な産物であるアイソフォームAがCa2+・カルモジュリン依存的にミオシン調節軽鎖をリン酸化することを示している。 以上要約すると、本研究では、脊椎動物以外で初めて、Ca2+・カルモジュリン依存性MLCKの存在を明らかにした。また、ショウジョウバエのMLCK遺伝子の複雑な転写パターンの一端を明らかにした。ミオシン軽鎖のリン酸化の細胞内での意義をショウジョウバエを用いて研究する際に必要な基本的知見を明らかにしたという点で、細胞生物学上有意義な貢献したものと認められる。よって審査委員一同、博士(理学)にふさわしい研究と判断した。 |