学位論文要旨



No 110960
著者(漢字) 志垣,賢太
著者(英字)
著者(カナ) シガキ,ケンタ
標題(和) 前方スペクトロメータを用いた10.9A GeV/Cの金金衝突におけるハドロン生成の研究
標題(洋) Study of Hadron Production in Au+Au Collisions at 10.9 A GeV/C with a new Forward Angle Spectrometer
報告番号 110960
報告番号 甲10960
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2873号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 酒井,英行
 東京大学 教授 山田,作衛
 東京大学 教授 釜江,常好
 東京大学 助教授 橋本,治
 東京大学 教授 矢崎,紘一
内容要旨

 高エネルギー原子核衝突実験の目的は、バリオン密度あるいはエネルギー密度の極めて高い状態、さらには量子色力学の格子計算や物性系からの類推からその生成が期待される、クォーク・グルーオン・プラズマ相を探索し、物質のこれまでに知られていない状態の性質を探求することにある。これまでに、米国ブルックヘブン国立研究所(BNL)及び欧州合同原子核研究機構(CERN)において、32Sまでの軽い原子核ビームを用いた実験が精力的に行なわれてきたが、1992年、BNLのAGS加速器において核子当たり11-12 GeV/cの197Au原子核ビームが利用可能となった。一方、原子核衝突反応のカスケード計算などでは、197Au+197Auなどの重い系による高エネルギー衝突反応によって、クォーク自由度が観測量に対して物質の通常状態においてよりも大きな重要性を持つ状態の、生成の可能性が期待されている。

 我々は、これまでAGS-E802/859実験において28Siまでの軽い原子核ビームを用いて行なってきた高エネルギー原子核衝突反応におけるハドロン生成の研究を、重い原子核衝突の領域にまで系統的に拡張するため、197Au原子核ビームを用いた実験(AGS-E866)を行なった。この実験の特徴としては、

 1.広い運動学領域を覆い、

 2.衝突の中心度による事象選別を行ない、

 3.高精度で粒子織別を行なう、

 などの点が挙げられる。この実験における最大の困難は、197Au+197Au衝突反応により生成される多数の粒子(中心衝突事象で、荷電粒子多重度は約800)の,高い空間的密度に依る。特に粒子密度の高い前方領域(実験室系で入射ビームに対し約20度より前方)においては、これまでの実験で用いられた磁気スペクトロメータ(Henry Higgins)は機能し得ない。そのため、高粒子密度条件下での動作性能を重視した、新たな磁気スペクトロメータを建設し、1993年10月、最初のデータ収集を行なった。また、この前方スペクトロメータについて、設計における再前方角度(実験室系で6度)においても良好な動作を確認した。

 前方スペクトロメータを用いて測定されたのは、核子当たり11 GeV/cに加速された197Au原子核ビームと197Au原子核標的との衝突反応により生成される、各種のハドロンの運動量スペクトルである。測定の角度領域は、実験室系で6度から約25度、運動量領域は中間子(±)、K中間子(K+)、陽子の各粒子に対し、各々0.45-4.0 GeV/c、0.45-3.0 GeV/c、0.45-5.0 GeV/cであり、これらの粒子の中間ラピディティ領域を覆っている。特に、中間ラピディティ領域の陽子の測定は、重い原子核ビームを用いた高エネルギー衝突実験としでは、世界初のものである。

 E866実験の有する2つの磁気スペクトロメータの測定領域の、運動学的重なり合いを利用して、中心衝突事象に関する1993年の前方スペクトロメータによる測定データの解析結果を、Henry Higginsスペクトロメータを用いて1992年に測定されたデータと比較した。その結果、両者は±10%以内の一致を示した。2つのスペクトロメータによる測定結果から、軽い衝突系を用いたE802実験の結果との比較として、以下の事実が観測された。

 1.陽子のラピディティ分布は、系の重心付近に単一のピークを示した。Si+Alなどの軽い衝突系では、互いに透過した原子核に起因する2つのピークが観測されている。これに対して、我々の観測は、強いnuclear stoppingの達成を示唆している。

 2.陽子および-の横方向運動エネルギー分布は、これまで知られていた指数関数に従った振舞いからの相違を示した。指数関数スケーリングは、陽子陽子(p+p)衝突実験における二次生成粒子で発見され、陽子原子核(p+A)衝突、及び軽い原子核原子核(A+A,A+B)衝突においても成り立つと考えられてきた。Au+Au原子核衝突では、横方向運動エネルギーの低い領域で、中間ラピディティ領域の陽子のスペクトルに抑制が観測された。また、-は横方向運動エネルギーの低い領域で増加を見せた。

 この陽子のスペクトルの特徴的な振舞いは、重い衝突系に固有のものであり、集団的効果に起因するものと考えられる。

 さらに、実験結果を検討するため、原子核原子核衝突反応のカスケード計算を導入して、考察を行なった。用いたカスケード計算コードは、ハドロン及びストリング描像に基づくRQMD、ハドロン描像のみに基づくARCの2つである。実験結果とこれらの模型の比較から、以下の結果を得た。

 1.これらのカスケード模型は、全般として実験結果をかなり良く再現する。しかし、中間ラピディティ領域における重い粒子の平坦なスペクトルは再現されない。

 2.陽子のスペクトルにおいて横方向運動エネルギーの低い領域で観測された、指数関数スケーリングからのずれは、RQMDにおいては定性的ながら再現される。一方ARCは、このスケーリングに従った振舞いを示す。

 3.観測された陽子のラピディティ分布の幅は、両カスケード計算の予想に比べて、15-45%程度広い。

 上記の結果のうち3.は、これらのカスケード計算において、原子核の阻止能が強く考慮され過ぎていることを示唆している。これらの模型によれば、阻止能は衝突系内部において達成される原子核物質密度と正の相関がある。この関係に従って、核子当たり11 GeV/cでのAu+Au中心衝突事象における、系中心部での最大到達原子核物質密度を模型に基づいて推定すると、通常原子核の7-8倍程度の値が得られる。

 重い衝突系に特有な、陽子の振舞いを理解するため、RQMD、ARC両模型の振舞いの差異を基に、集団的効果について検討した。両模型ともに、粒子の二次散乱によって、衝突軸に対して垂直方向の集団運動が形成されており、このうちRQMDは、時間と共に拡大する衝突系の周辺領域から放出される陽子の寄与を通して、実験で見られるスケーリングからのずれを定性的ながら再現する。一方、実験結果は指数関数スケーリングからのさらに強いずれを示しており、高エネルギー原子核衝突反応における粒子生成の機構の記述において、集団運動の寄与が重要であることを示唆している。

 さらに原子核衝突反応における陽子の平坦なスペクトルを説明するため、流体力学模型を用いた解析を行なった。この模型は系の重心ラピディティ付近にのみ適用可能であるが、この領域の各種ハドロンのスペクトルの勾配の相違、および陽子のスペクトルの指数関数スケーリングからのずれを記述することができた。

 結論として、AGSのエネルギー領域での原子核衝突反応は、粒子の二次散乱を考慮したカスケード描像で、かなり良く記述される。その一方、カスケード模型で再現し切れない中間ラピディティ領域におけるハドロンの振舞いが流体力学模型で良く記述されることは、基本的に2粒子衝突の重ね合わせで記述されるカスケード描像には含まれない、集団運動の効果の存在を示唆している可能性がある。

審査要旨

 本論文は8章からなり、高エネルギー重イオン衝突実験で生成されるハドロンに関する研究について述べたものである。

 実験は、米国ブルックヘブン国立研究所(BNL)AGS加速器からの核子当たり11 GeV/cの197Au原子核ビームを用いて行った。標的は、197Auである。28Si、32Sなどの軽い原子核ビームを用いた実験は、BNL-AGS、CERN-SPSなどの加速器施設で行なわれて来たが、この学位論文となった実験(AGS-E866実験)は、これら先達の研究を、重い原子核同志の衝突反応の領域に拡張したものである。

 この実験の特徴は、高エネルギー重イオン衝突で生成されるハドロンのスペクトルを広いラピディティ(y)ならびに広い横方向運動量(p)領域にわたって測定し,衝突系の重心付近のラピディティ領域についてもデータを得たことである。特に陽子については,このラピディティ領域においては最初のデータである。更に,ZCALと呼ばれるカロリーメータを使い、衝突のインパクトパラメータ(b)に制限を加え,中心衝突反応による部分(ここでは,0b4fmと定義している)のみを選別することができるのも大きな特徴である。

 通常、この様な反応により生成される粒子数は極めて多く(例えばここでの中心衝突では、約800個に上る荷電粒子が一度に生成される)、更にほとんどが前方の小角度に放出されるために空間粒子密度が高く,ハドロンのスペクトルを測定するのは実験的に極めて難しい。論文提出者らのグループは、この困難を解決するために、高い空間粒子密度条件下でも動作する前方磁気スペクトロメータを設計、建設した。論文提出者は、このスペクトロメータの飛跡検出器系の中心部分であるTime Projection Chamber(TPC)の設計、建設において中心的役割を果たした。

 測定は,中間子(±)、K中間子(K+)、陽子について、各々0.45-4.0 GeV/c、0.45-3.0 GeV/c、0.45-5.0 GeV/cの運動量領域が、実験室系の角度で6度から約25度までなされた。これらのデータは、すべて学位論文提出者により解析された。

 この実験の結果、ハドロンの生成について有用な知見が得られたが,以下の二点は特に際立った成果である。

 1)中心衝突事象で、陽子のラピディティ分布が系の重心付近にピークを持つ幅広い分布を示した。これはSi+Alなどの軽い衝突系では観測されなかったものであり、強いnuclear stoppingの達成を示唆すると考えられる。

 2)陽子の横方向運動量分布(p)において、指数関数に従った振舞いからの相違が観測された。この指数関数的振る舞いは,陽子陽子(p+p)衝突実験における二次生成粒子で発見され、陽子原子核(p+A)衝突、および軽い原子核(A+A、A+B)衝突においても成立すると考えられてきた。

 これらの実験結果は,2種類のカスケード模型(RQMD,ARC)と流体力学模型を使って解析された。その結果,Au+Au原子核衝突反応の概要は、粒子の多重散乱を考慮したカスケード描像によってかなり良く記述されるとの結論が得られた。また,1)の陽子のラピディティ分布とカスケード計算との比較からは、衝突系の中心部におけるハドロン密度の最大到達値が、通常の原子核の7-8倍に達している可能性を得た。しかしながら,ここで使われたハドロン密度の推定手法は新しいものであり,確定的な値を得るには,今後さらに検討が必要であろう。

 2)の指数関数的振る舞いからの相違については,単純な二粒子の衝突反応に基づくカスケード描像では説明することができなかった。この相違の理解を深めるために,流体力学模型による解析も行ない,集団的流れ(系の中心部から外縁部へ向かう多粒子の流体的運動)の効果が、この指数関数的振る舞いからのずれに寄与することを明らかにした。

 上で述べたように,この論文には論文提出者が中心になって行った、高エネルギー重イオン衝突実験によるハドロン生成についての研究が詳しく述べられている。そこで得られた知見は,物理的に重要なものであり,この分野の基礎的な発展に寄与すると考えられる。このことから,審査員5人全員は,この論文が学位論文としてふさわしいと判断した。

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