本論文は8章からなり、高エネルギー重イオン衝突実験で生成されるハドロンに関する研究について述べたものである。 実験は、米国ブルックヘブン国立研究所(BNL)AGS加速器からの核子当たり11 GeV/cの197Au原子核ビームを用いて行った。標的は、197Auである。28Si、32Sなどの軽い原子核ビームを用いた実験は、BNL-AGS、CERN-SPSなどの加速器施設で行なわれて来たが、この学位論文となった実験(AGS-E866実験)は、これら先達の研究を、重い原子核同志の衝突反応の領域に拡張したものである。 この実験の特徴は、高エネルギー重イオン衝突で生成されるハドロンのスペクトルを広いラピディティ(y)ならびに広い横方向運動量(p⊥)領域にわたって測定し,衝突系の重心付近のラピディティ領域についてもデータを得たことである。特に陽子については,このラピディティ領域においては最初のデータである。更に,ZCALと呼ばれるカロリーメータを使い、衝突のインパクトパラメータ(b)に制限を加え,中心衝突反応による部分(ここでは,0b4fmと定義している)のみを選別することができるのも大きな特徴である。 通常、この様な反応により生成される粒子数は極めて多く(例えばここでの中心衝突では、約800個に上る荷電粒子が一度に生成される)、更にほとんどが前方の小角度に放出されるために空間粒子密度が高く,ハドロンのスペクトルを測定するのは実験的に極めて難しい。論文提出者らのグループは、この困難を解決するために、高い空間粒子密度条件下でも動作する前方磁気スペクトロメータを設計、建設した。論文提出者は、このスペクトロメータの飛跡検出器系の中心部分であるTime Projection Chamber(TPC)の設計、建設において中心的役割を果たした。 測定は,中間子(±)、K中間子(K+)、陽子について、各々0.45-4.0 GeV/c、0.45-3.0 GeV/c、0.45-5.0 GeV/cの運動量領域が、実験室系の角度で6度から約25度までなされた。これらのデータは、すべて学位論文提出者により解析された。 この実験の結果、ハドロンの生成について有用な知見が得られたが,以下の二点は特に際立った成果である。 1)中心衝突事象で、陽子のラピディティ分布が系の重心付近にピークを持つ幅広い分布を示した。これはSi+Alなどの軽い衝突系では観測されなかったものであり、強いnuclear stoppingの達成を示唆すると考えられる。 2)陽子の横方向運動量分布(p⊥)において、指数関数に従った振舞いからの相違が観測された。この指数関数的振る舞いは,陽子陽子(p+p)衝突実験における二次生成粒子で発見され、陽子原子核(p+A)衝突、および軽い原子核(A+A、A+B)衝突においても成立すると考えられてきた。 これらの実験結果は,2種類のカスケード模型(RQMD,ARC)と流体力学模型を使って解析された。その結果,Au+Au原子核衝突反応の概要は、粒子の多重散乱を考慮したカスケード描像によってかなり良く記述されるとの結論が得られた。また,1)の陽子のラピディティ分布とカスケード計算との比較からは、衝突系の中心部におけるハドロン密度の最大到達値が、通常の原子核の7-8倍に達している可能性を得た。しかしながら,ここで使われたハドロン密度の推定手法は新しいものであり,確定的な値を得るには,今後さらに検討が必要であろう。 2)の指数関数的振る舞いからの相違については,単純な二粒子の衝突反応に基づくカスケード描像では説明することができなかった。この相違の理解を深めるために,流体力学模型による解析も行ない,集団的流れ(系の中心部から外縁部へ向かう多粒子の流体的運動)の効果が、この指数関数的振る舞いからのずれに寄与することを明らかにした。 上で述べたように,この論文には論文提出者が中心になって行った、高エネルギー重イオン衝突実験によるハドロン生成についての研究が詳しく述べられている。そこで得られた知見は,物理的に重要なものであり,この分野の基礎的な発展に寄与すると考えられる。このことから,審査員5人全員は,この論文が学位論文としてふさわしいと判断した。 |