定常軸対称ブラックホールに関してはこれまでに多くのことがわかっている。それは、孤立した定常軸対称ブラックホールはその時空構造が質量と角運動量と電荷のみで定まることが示されているからである。天体のような大きなスケールでは、電荷が全体の構造に影響するほど存在していることはほとんどないと考えられるので、存在しうるのは質量と角運動量とを持ったブラックホール、つまりカー・ブラックホールしかない。 しかし、ブラックホールの近くに物質があると、その物質の重力的な影響によってブラックホールやその周辺の時空構造がカー時空と異なってくる。そうしたブラックホールとその周囲の時空構造や物質の構造を考えようとすると、解析的な取り扱いがほとんど不可能になるように思われる。天体物理的な状況では、ブラックホールの周りに物質が存在することは、連星系やアクリーション・ディスクにみられるようにごく普通の状況である。もちろん、連星系の場合には慣性系から見た定常状態が存在しないために、強い重力場の非軸対称で非定常な問題をあつかわなくてはならない。しかし、アクリーションディスクの場合にはその構造がほぼ軸対称的であると考えてもよく、定常状態が存在し得る。 そうしたブラックホールのまわりに軸対称に分布した自己重力のある物質の定常状態(以下ではブラックホール-トロイド系と呼ぶことにする)の問題は、一般相対論の解としての時空構造がカー時空とはどうのように異なってくるかるかという観点と天体物理的な状況でどういう現象をもたらすのかという点から関心が持たれていた。 時空構造の面からすると、回転系の引きずりという効果があり、ブラックホールの地平面上でのその大きさはブラックホールの角速度に対応しているが、ブラックホールの回転をあらわす物理量としては別に角運動量というものもある。この二つの量は孤立したブラックホールでは一意的に結び付いた物理量となる。しかし、ブラックホール-トロイド系では自己重力を持ったトロイドの回転による時空の引きずりの効果とそのトロイドの重力によるブラックホールの変形とのかねあいで、角速度と角運動量の向きが逆転してしまったり、角速度が0で角運動量が値を持ったり、角速度が0でないのに角運動量が0であったりもする。こうした状況では、ブラックホールが回転しているのは、角運動量を持っているときなのか角速度が0でないときなのかといった問題が現れてくる。 また天体物理的には、ブラックホールの周りのアクリーションディスクの自己重力の存在がトロイドの安定性に関係し、トロイドの質量が中心のブラックホールの質量の数%程度以上の場合、トロイドのまわりにできる一種のロッシュローブから物質が一旦流れ出し始めたとき、その流出が止まらなくなるという不安定性(runaway instabilityという)が起こるという可能性が指摘されていた。こうした不安定性が起きると、トロイドはきわめて短時間しか存在できなくなる。しかしこのrunaway instabilityに関しては、ブラックホールとして回転のあるカー・ブラックホールをとると安定化されてしまうという議論もされており、どちらが正しいかはわかっていなかった。 この問題は、物質が流出したときのロッシュローブの変化と平衡状態での物質の占める領域の変化のかねあいで決まるものである。ところが、ロッシュローブ的なポテンシャルのカスプはトロイドの自己重力の存在だけではなく、一般相対論的な効果でも生じてくるものである。つまり、自己重力のないトロイドを考えた場合にもロッシュローブ的なポテンシャルが存在する。したがって、トロイドの自己重力を考慮しないで行った解析の結果と自己重力をも考慮して行った解析とは異なる可能性がある。また、たとえ自己重力を取り入れる場合でもブラックホールの強い重力場の中での自己重力であるので、トロイドの重力をニュートン重力やポストニュートン的に扱ってしまうと、ロッシュローブの大きさとトロイドの物質の存在領域の関係が必ずしも正しいものではなくなる。いいかえると非常に微妙な変化を正確に取り入れなくてはならない問題なのである。 このようなことから、ブラックホールのまわりのトロイドを一般相対論の枠組の中で矛盾のないように解くことが必要とされていた。しかし、一般相対論的な回転天体の構造を求めることは困難な問題で、1980年代の後半になってようやく孤立した回転体の解を自由に求めることができるようになってきた。したがって、ブラックホール-トロイド系の構造を一般相対論的に解くことは、さらに難しい問題であった。この問題に関して世界的には、1990年代になってイタリアのTriesteのA.LanzaがAbramowiczの指導のもとで、数値計算コードを開発しようとしたが、トロイドではなく厚みのないディスクとして扱わなくては解を得ることができなかった。 本論文は、その問題に対する世界で初めての近似のない解を与えたもので、全体で7章からなる。 第1章では、強い重力を持つ回転天体の構造を求めることに関してのこれまでの研究がまとめられる。しかし、それらは孤立した天体を求めるものであって、本論文でその構造を求め安定性を解析しようとするブラックホール-トロイド系を求める計算法は、簡単な状況に適用されるものがようやく開発され始めたが、あらゆる状況に対応できるものは未だ開発されていないことが説明される。また、最近観測された線バースト現象はブラックホールの周りの中性子トロイドから生じるというモデルがあり、そうした対象が本論文で扱われることを述べる。そして、第1章のまとめとして本論文の構成が示されるとともに、ブラックホール-トロイド系のトロイドがrunaway-instabilityを引き起こすという結果が述べられる。 第2章では、ブラックホール-トロイド系の構造を求める問題を扱う際の仮定と基本方程式および境界条件が説明され与えられる。その系は軸対称、定常、赤道面対称で、無限遠では平坦な時空になり、トロイドの物質は完全流体で回転軸のまわりの比角運動量が一定の運動のみをしていることが仮定される。また物質の状態方程式としては相対論的なポリトロープ関係と現実的な中性子物質の状態方程式が使用される。さらにブラックホールの地平面は原点からの距離が一定の位置にあるとすることが可能で、その地平面上での慣性系の引きずりの大きさとメトリックの一部の値が境界値となるとして扱われる。このような条件のもとで、アインシュタイン方程式が書き下される。一方、物質についてのつりあいの式は、barotropeに対しては簡単に積分できることが示される。 続いて第3章では、第2章の条件のもとで得られたアインシュタイン方程式の解法が示される。その際重要なのは、時空のメトリックに対する地平面上と無限遠での境界条件である。ここでは、以前に本論文提出者によって定式化された方法にしたがって、それらの境界条件を満たすグリーン関数を使うことで積分方程式に変換する。こうして得られた積分方程式では境界条件が既にとり込まれているので、数値的に解く際に非常に扱い易くなる。次いで、トロイドの状態方程式をポリトロープにした場合と中性子性物質にした場合に、一つの定常状態を求めるためのモデルパラメーターが議論される。本質的なパラメーターはブラックホールの重力と回転をあらわすための2個とトロイドの重力と回転状態をあらわすための2個の量であるが、トロイドに関しては状態方程式と回転則を定めるためにパラメータを指定しなくてはならないのである。こうしてパラメータを定めると、原理的には一つの定常状態が定まるが、数値的にそれを求めるためには、積分方程式であらわされたアインシュタイン方程式と積分されたつりあいの式とを交互に解きそれを繰り返すことで解を収束させるという解決が示される。 第4章では第3章の解法を用いて求められた平衡解が種々のパラメータに対して与えられる。中性子物質からなる自己重力トロイド(中性子トロイド)は世界で初めて求められたものである。そこで、それらの時空構造と物質の分布が示されている。トロイド中の最大密度が1015g/cm3程度を越えると、トロイドの内部に広いエルゴ領域ができることがわかった。 第5章と第6章では第4章で得られたトロイドの定常状態のうち、ロッシュローブを満たす状態にあるモデル(以後では臨界状態という)を使って、トロイドのrunaway instabilityを議論している。第5章ではAbramowicz,Calvani & Nobili(1983)によって提案されたrunaway instabilityとは、ロッシュローブを満たしていた物質が一旦流れ出した場合にとどまることなく流出を続けるという不安定であるということを原理から解説する。第6章では、Abramowiczたちはトロイドの重力をニュートン的に考慮し、ブラックホールに関しては擬ニュートンポテンシャルを使って、最終的にトロイドの質量が数%以上であると不安定となるという結果を与えたことが述べられる。一方Wilosn(1984)はブラックホールとしてカー時空を使い、トロイドの重力を考慮しない扱いをして不安定が起きないことを示した。これらの結果は、結論として矛盾しているが、それぞれが不十分な取り扱いしかしていないことでどちらが正しいかを決めることが難しい。そこで本論文提出者は第4章で求めた臨界状態を使ってこの安定性の問題を解析する。その際、質量流出の過程では全質量・全角運動量・物質の比角運動量を保存するということを使うと、ポリトロープのトロイドの場合には、臨界状態から一旦物質を流れ出させると、物質はロッシュローブのなかに収まりきれない状態へ移行せざるを得ないことが示された。つまりrunaway instabilityが起きるのである。ただし、トロイドの質量が小さくなって行くと不安定から安定へと変わっていく傾向が見られる。この結果からすると、N=3のポリトロープではトロイドの自己重力が不安定性に影響していると考えられる。続いて中性子物質の状態方程式を使った平衡状態の臨界モデルを使って同様な解析がなされ、やはりrunaway instabilityが起きることが示される。この場合にはトロイドの質量が小さくなっても不安定のままである。 第7章では不安定性に関しての議論がなされる。一つはポリトロープと中性子物質で不安定性の傾向に違いが見られることの物理的な原因についてである。不安定性に関与するファクターとして4つのことが考慮される。それは(1)トロイドの自己重力、(2)トロイドとブラックホールの質量比、(3)ブラックホールの角速度の変化と(4)トロイドの硬さ(柔らかさ)である。自己重力に関しては、物質が流出すると自己重力が弱まるため物質はひろがり、トロイドを囲むロッシュローブは縮小する。つまり不安定化させるファクターである。トロイドの自己重力を無視したとき、物質の流出に伴ってブラックホールの質量が増大しロッシュローブのカスプの位置が外へ変化する。一方でトロイドの内側の位置も外へ変化するが、トロイドの質量(自己重力は考えない)が大きいほどその変化が小さい。つまり不安定化する可能性があるのである。ブラックホールの角速度が大きくなるとカスプの位置はブラックホールに近付く。そのためトロイドは安定化され易くなる。またトロイドの物質の硬さの影響としては、ポリトロープ的に考えると、指数が3より大きくなって柔らかくなるほど物質の流出によって不安定化し易いことがわかる。本論文ではこれらの影響がすべて考慮されているが、Wilsonの場合には(3)の影響のみが考慮されたために、安定であるという結論が得られたことがわかる。Abramowiczたちの結論は本論文の結論と似ているが、それは偶然であって、たまたま不安定化に一番寄与するファクターを取り入れたためと考えられるのである。もう一つの議論は、ブラックホールのまわりの中性子トロイドに関するものである。そのモデルは線バーストをもたらすものとして提案されているが、このrunaway instabilityを考慮すると、きわめて短時間しか存在できないことになって、観測を説明することが大変に困難になると結論される。 以上を要するに、論文提出者は世界でこれまで誰も求めることのできなかったブラックホール-中性子トロイド系の平衡状態を求めることに成功し、その系がrunaway instabilityをおこすことを示すことで線バースト・モデルとの関連を明らかにし、一般相対論の時空構造と天体物理学の分野で重要な寄与をしている。よって本論文は博士(理学)の学位論文としてふさわしいものであると、審査委員会の全員の意見が一致した。 |