学位論文要旨



No 110980
著者(漢字) 早野,裕
著者(英字)
著者(カナ) ハヤノ,ユタカ
標題(和) 波面補償システムの最適適応制御
標題(洋) Auto-turning control in adaptive optics systems
報告番号 110980
報告番号 甲10980
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2893号
研究科 理学系研究科
専攻 天文学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻,隆
 東京大学 教授 宮本,昌典
 東京大学 教授 えの目,信三
 国立天文台 教授 家,正則
 都立科学技術大学 教授 河野,嗣男
内容要旨

 現在10mクラスの大口径望遠鏡の建設が相次いで進められおり、日本もアメリカ合衆国ハワイ州ハワイ島のマウナケア山頂に8mの望遠鏡(SUBARU)を建設中である。望遠鏡の大口径化の目的は主に二つあり、一つは集光力を向上させること、もう一つは空間角度分解能を向上させることである。しかし、大気ゆらぎによって大望遠鏡の空間分解能は回折限界よりも10倍以上劣化している。また、望遠鏡の感度も実質上は大気ゆらぎによる天体像のぼやけによって制限されており、地上観測における大きな障害となっている。大口径望遠鏡の特徴及び性能を生かすためにも、大気ゆらぎによる天体からの電磁波の波面の乱れを実時間で補正する補償光学(Adaptive Optics,AO)システムの開発実用化が必要である。

 AOシステムは観測装置の直前に設置され、大気ゆらぎの影響を受けた単独恒星の入射波面を測定し、それが平面波になるように可変形鏡を変形させて波面補償を行ってから観測装置へと送るサーボ光学系である。単独恒星は無限遠にある点光源とみなせるので、大気を通過する前の波面は平面波としてよい。システムの基本的な構成は波面検出装置、波面補償光学素子すなわち可変形鏡、それに検出した波面情報から適切な補償量を決定するコントローラからなる。波面はいくつかの部分に空間的に分割するか、Zernike多項式等を用いてモード展開をして表現するのが実用的である。

 現在稼働中あるいは開発中の主要なAOシステムでは、波面検出装置として、Shack-Hartmannカメラ、shearing interferometer、Roddierカメラの3種類が用いられている。また、可変形鏡としてはPZT stacked artay deformable mirror、bimorph mirror、membrane mirrorの3種類が用いられている。また、波面分割数は十数から百程度である。測定した波面情報から可変形鏡の変位量を決定するためには、それらを関係づける制御マトリックスと呼ばれる行列が用いられる。制御マトリックスは、可変形鏡の変位量と波面検出器の出力との関係を表す応答マトリックスを計測し、その逆マトリックスを解いて求めているのが一般的である。そのため制御マトリックスはシステム使用前に決定する必要がある。また、サーボコントローラに対しては古典的なPI(比例要素及び積分要素)制御を用いているシステムが多い。しかし、補償すべき大気ゆらぎは気象条件によって緩やかに変動しており、またバースト的に大気ゆらぎが大きくなる現象が間欠的に起こることが知られている。従って、システム使用前に制御マトリックス及びサーボ制御パラメータを最適化していても、それを固定したままではでは最適な制御を行うことはできない。この変化に対応するため、測定している波面情報や波面誤差の残差から人間の判断で適当にサーボコントローラのパラメータを設定したり、何種類かの制御マトリックスを用意して人問の判断で適宜変更して対処している。

 本論文では、これらの変化に対応して自動的に適切なパラメータ調節を行う適応制御方式の導入について述べる。実験はAOシステムの中でも最も低次の波面誤差を補償するTip-Tiltシステムに対して行った。また、SUBARU望遠鏡のカセグレンAOシステムを具体例として適応制御を適用することについて考察を行った。

 Tip-Tiltシステムとは入射波面の傾斜成分のみを補償するもので、恒星像位置の変動を静止させる働きを持つ。大気ゆらぎがKolmogorov乱流に従っていると仮定すると、波面誤差は1.03(D/r0)5/3(rad2)となる。一方波面傾斜誤差を補償した後の残差は0.13(D/r0)5/3(rad2)になる。このように波面誤差の中で傾斜成分はもっとも大きな成分を占めている。Dは望遠鏡口径、r0はFried’s coherence lengthと呼ばれ、波面が平面とみなせる程度の大きさを示している。このため波面傾斜補償機能をもたないAOシステムは存在しないといって過言ではない。

 実験に使用したtip-tiltシステムは国立天文台岡山天体物理観測所(OAO)188cm望違鏡の近赤外線用クーデ分光器の前光学系として装備する目的で製作された。当観測所における典型的な恒星像サイズはFWHM(半値全幅)で2 arc second程度であるが、分光器の分解能を向上させるためにスリット幅は視野1 arc second(264m)から0.5 arc seccond(132m)で使用する必要があるため、狭いスリット上に効率よく目的天体像を静止させることが要求される。そのため、tip-tiltシステム自体も光学素子をできる限り少なくして実効的な透過率を向上させ、観測波長と波面傾斜測定の波長を分離する工夫をした。制御方式はパラメータ調節可能なPIDコントローラを使用した。PIDコントローラは比例要素P、積分要素I、微分要素Dを組み合わせた制御調節機構である。PIDそれぞれの要素のパラメータの初期値を、室内実験によって測定されたtip-tiltシステムの応答から求めておき、観測時に波面傾斜誤差の残差が最小になるようにPIDパラメータを随時自動調節できるようにする。OAOで実際に恒星 Tauを観測した結果、もっとも波面傾斜誤差の残差が減少する方向にPIDパラメータを調節されることを確認した。そのときの、システムバンド幅は100Hzであった。また、tip-tiltシステムの効率を測定したところ、光学系による光量の減衰は75%程度、tip-tiltシステムの使用/非使用の切り替えで200mのスリット幅(0.75 arc second)に入射する光量が1.3倍程度増加することが確かめられた。このシステムの開発により、自動的に最適な制御状態を検索する適応制御方式を補償光学系に導入する具体的な展望を拓くことができた。

 最後に、SUBARU望遠鏡カセグレン焦点に装備する第一期のAOシステムの制御方式について考察と提案を行った。現在開発中のAOシステムは、波長1mから5mの近赤外線領域に対応し、波面分割数は37を予定している。波面検出にRoddier方式を用いる。従来の制御方式に、環境外乱に対して一定の制御性能を保証するために適応制御方式を加味することを試みた。環境外乱として考慮すべき主な点は、波面の基準となるガイド星の明るさと大気ゆらぎの変動である。ガイド星が暗くなると波面測定のS/N比が低下し、波面補償誤差が増大する。また、大気ゆらぎの程度が激しくなるとFried’s coherence length r0が分割した波面の大きさより小さくなる。このとき、波面補償が十分でなくなり、波面誤差の残差が増大する。このような事態に対して、前者では時間フィルター、後者では空間フィルターを用いて測定誤差を減少させることが有効とされ、このフィルター機能を制御マトリックスに持たせることを考案した。すなわち制御マトリックスの各成分は、星の明るさや波面誤差の残差がパラメータを含めた形で表される。

 適応制御を用いたAOシステムは今後、天文学的に意味のある観測を行うために実用上必要不可欠である。本論文における実験及び考察は、それに対する具体的で実現可能な設計指針を示したものである。

審査要旨

 本論文(論文題名:波面補償システムの最適適応制御)は全4章からなり、第1章では補償光学の概念、大気乱流理論、サーボ制御の基礎など本論文の背景となる重要事項について概説がなされ、第2章では論文提出者が開発した波面の傾斜成分補償光学系とその新しい適応制御アルゴリズムについて、また第3章では国立天文台がハワイ島に建設中の8mすばる望遠鏡の補償光学制御系に本論文で開発した適応制御法を応用する可能性についての検討が述べられている。最終の第4章では本論文の結論が簡潔に要約されている。

 国立天文台はハワイ州ハワイ島のマウナケア山頂に口径8mの望遠鏡「通称すばる」を建設中である。望遠鏡の大口径化の目的は、集光力の増大と回折限界の同上である。しかし、大気中の温度ゆらぎによる屈折率の非一様性のため、大望遠鏡の空間分解能は回折限界に比べ10倍以上も劣化しているのが通常である。大気ゆらぎによる像の広がりは、望遠鏡の感度低下にもなり、地上観測における大きな障害となっている。

 地上からの天体観測の宿命と考えられていた大気ゆらぎによる望遠鏡解像力の劣化を打ち消す方法として、最近「補償光学」の実用化の研究開発が急ピッチで進められている。「補償光学系」は、大気ゆらぎによる天体からの電磁波の波面の乱れを波面測定装置で高速に連続計測し、計算機制御の可変形薄鏡で反射面形状を実時間制御して波面を補正するサーボ光学系のことであり、光検出器の高感度化、可変形鏡の開発、計算機制御の高速化により実現の見通しが開けてきたものである。

 測定した波面の情報から可変形鏡の変位量を決定するためには、それらを関係づける制御行列と呼ばれる行列が用いられる。制御行列は、可変形鏡の変位量と波面検出器の出力との関係を表す応答行列を計測し、その逆行列を解いて求めているのが一般的である。このため制御行列は事前に較正し、またサーボコントローラに対しては古典的なPI(比例要素及び積分要素)制御を用いるのが一般的である。補償光学システムは欧州南天天文台やハワイ大学で試作され天体観測に試験的に用いられ始めているが、その制御システムの調整は、装置製作者が使用の度に試行錯誤的に経験に基づいて行っているのが現状であり、装置運転に多数のスタッフを要する上、安定な動作を確保する上で実際的には色々と問題が残されている。

 また、補償すべき大気ゆらぎは気象条件によって緩やかに変動しており、またバースト的に大気ゆらぎが大きくなる現象が間欠的に起こることが知られている。従って、事前に制御行列及びサーボ制御パラメータを較正していても、それを固定したままでは最適な制御を維持することができない。

 本論文では、このような状況変化に対応して、自動的に安定かつ適切に制御パラメータの調節を行う適応制御方式の開発と応用について述べている。実際の実用レベルの装置試作と実験は補償光学系の中でも最も低次の波面誤差を補償するTip-Tiltシステムに対して行った。また、すばる望遠鏡のカセグレン補償光学系を具体例として適応制御を適用することについて考察を行った。

 製作したtip-tiltシステムは国立天文台岡山天体物理観測所(OAO)188cm望遠鏡の近赤外線用クーデ分光器(F/29)の前光学系として装備する目的で製作された。実用化を前提とした装置であるため、光学素子数をできる限り少なくして実効的な透過率を向上させ、観測波長と波面傾斜測定の波長を分離するなどの工夫がなされている。制御方式はパラメータ調節可能なPID(比例・積分・微分型)コントローラを使用し、観測時に波面傾斜誤差の残差が最小になるようにPIDパラメータを随時自動調節されるようにした。実際に恒星 Tauを観測した結果、もっとも波面傾斜誤差の残差が減少する方向にPIDパラメータを調節されることを確認した。システムバンド幅は100Hz,光学系による光量の損失は25%程度、本装置を使用することによりスリットに入射する光量が約1.3倍程度増加することが確かめられた。

 このシステムの開発により、自動的に最適な制御状態を検索する適応制御方式を補償光学系に導入する具体的な展望を拓くことができた。適応制御を用いたAOシステムは今後、天文学的に意味のある観測を行うために実用上必要不可欠である。本論文における実験及び考察は、それに対する具体的で実現可能な設計指針を示したものである。

 これらは論文提出者の独自の考案によるものであり、試作器を実現することによりこの適応制御の有効性を立証したことは、論文提出者の光学理論と新しい制御理論に関する深い理解に基づき、実験における独創性を証明した優れた業績である。なお、本論文は共同研究の結果を記述したものであるが、全章にわたって論文提出者が主体となって進められたもので、論文提出者の寄与が十分であると判断され、本論文が博士(理学)の学位を受けるにふさわしいものと判断し、審査員全員で合格と判定した。

UTokyo Repositoryリンク