本論文は4章からなり、第1章は緒論、第2章はDCOOD/Si(100)表面における内殻電子励起による光刺激イオン脱離の研究、第3章は内殻電子励起によるエッチング反応基礎過程の研究、第4章は摘要が述べられている。 第1章では、本論文の意義、電子遷移による脱離反応、光刺激イオン脱離反応に関する過去に提案された脱離モデルや研究例、ぎ酸の吸着構造について述べ、軟X線表面光化学反応および放射光励起による半導体のエッチング反応の全般的な背景を簡潔に概説している。 第2章では、光刺激イオン脱離の研究を行うために考案した超高真空実験装置と実験手法、ならびに、それを用いた内殻電子励起によるDCOOD/Si(100)表面からの光刺激イオン脱離の研究結果がまとめられている。Si(100)清浄表面に重水素置換したぎ酸を室温で解離吸着(Si-OCDO、Si-D)させた単分子吸着系をC-ls吸収端近傍の単色軟X線で内殻励起すると、主なイオン種としてD+、CDO+、CO+、CD+、C+、O+が脱離することが確認され、各イオンの脱離収量曲線が励起波長の関数として測定された。また、表面吸着種の光吸収断面積を得るために、炭素原子のオージェ電子収量曲線も同一試料で測定した。その結果、各イオンの脱離収量曲線とオージェ電子収量曲線には、低エネルギー側からそれぞれ、*(C=O)、*(C-D)、*(C-O)、*(C=O)軌道への遷移と考えられる内殻電子の共鳴吸収が観測されること、また、イオン種によりそれらの共鳴吸収の大きさや位置が異なることが見いだされた。とくに、D+は*(C-D)への励起で、CD+およびC+は*(C=O)への励起で、CDO+およびCO+は*(C-O)への励起で、O+は*(C=O)への励起で脱離収量が増加しており、共鳴吸収により内殻電子が遷移した励起軌道の結合性および局在性と結合の切断との関連を検証した。ぎ酸分子の励起軌道についての分子軌道計算の結果は、反結合性軌道への励起ではその軌道が強く局在する結合が弱まることを示唆した。また、二種類の結合切断(C-OおよびC=O)により生じるCD+およびC+は、*(C=O)への励起で増加することが認められたが、*(C=O)軌道がC=O結合だけではなくC-O結合に対しても反結合性を示すことで説明できる。このような初期励起状態に対する依存性から、(1)反結合性軌道に電子を残したまま起こる傍観型オージェ過程、(2)内殻励起状態において結合距離が延びた後に起こる解離過程と競合したオージェ過程、のどちらかの過程を経てイオン脱離が起こっているものと推察した。D+は*(C-D)励起で特異的に増加しており、D+の質量数が小さいことからも、(2)の過程を経て起こっている可能性が強いものと結論した。このような観点からの研究は、これまでに簡単な2ないし3原子分子で行われているにすぎず、ぎ酸のような多原子分子について脱離イオン種を系統的に調べ、脱離過程が初期励起状態に強く依存することを見いだしたものとしては、本研究が最初である。 第3章では、内殻電子励起によるエッチング反応基礎過程の研究結果がまとめられている。試料にはa-SiO2基板に約100KでSF6を単分子層吸着したものが用いられた。また、比較のためにpoly-Si基板も用いている。a-SiO2においては、Si2p内殻準位付近の単色光(130eV)の照射により、数時間の照射後からSOF2+、SiF3+、SF2+、SO2+、SO+、O2+などの質量フラグメントの検出に成功した。解離パターンを考慮すると、主な反応生成物はSiF4、SO2、SO、O2などの、安定な分子と考えられ、SO2、SOなどの相対的に高い収量での検出から、F原子だけではなくS原子を含む活性種がエッチング反応に対して重要な役割を演じていることを見いだした。一般に、中性の生成物の検出はイオン種に比べ格段に困難であり、これに成功したことが本研究の最も評価される点である。また、表面状態についての知見を得るために行った生成イオン種の検出実験では、F+、F2+、SiFx+、SiOFx+、SOx+、SOF+、SFx+などのイオン種が検出され、SおよびFを含むa-SiO2層が表面に生じていることが判明した。さらに、光電子分光によるSi2pのピーク位置の照射時間依存性の結果より、a-SiO2層が徐々にフッ素化されていることが判明し、前述の反応生成物が検出されるまでに数時間の照射を要したのは、今回の実験条件下では反応活性層の生成が徐々に行われ、初期の段階においては脱離量が少なく検出できなかったものと推察した。比較のために行ったpoly-Siにおいては中性の反応生成物は検出されず、a-SiO2とpoly-Siの間にエッチングにおける大きな反応性の違いがあることを示した。そこで反応条件下でのpoly-Siに対して全電子収量曲線の測定を行ったところ、poly-SiにおいてもSiFxを含む反応層が光照射により表面に生じていることが判明し、a-SiO2とpoly-Siとにおけるエッチング反応の違いは、それぞれの反応層からのエッチング生成物の脱離過程が異なるためであると考察した。さらに、脱離過程の違いの原因としては、a-SiO2の場合には、S原子がO原子と反応してSO2などの安定な分子をつくり脱離に対して有効に働くのに対して、poly-SiではS原子が表面に残り、脱離の進行を妨げているものと結論した。 以上、本論文は、軟X線領域の放射光による固体表面上での光化学反応に関する新しい重要な知見をもたらすものであり、理学系研究科化学専攻の博士学位論文として相応しい内容を有していると判断し、合格とした。なお、本論文第2章は、関口哲弘氏、田中健一郎氏、第3章は関口哲弘氏、金田和博氏、北村修氏、田中健一郎氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。 |