学位論文要旨



No 110990
著者(漢字) 池浦,広美
著者(英字)
著者(カナ) イケウラ,ヒロミ
標題(和) 内殻電子励起による表面光化学反応の研究
標題(洋) Photochemical Surface Reactions Induced by Core-Electron Excitation
報告番号 110990
報告番号 甲10990
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2903号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 田中,健一郎
 東京大学 教授 田中,虔一
 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 講師 横山,利彦
内容要旨

 分子の内殻電子励起による化学反応は、内殻電子が特定の原子に局在化しているため、分子内の個々の原子の内殻電子を特定の空軌道に選択的に励起することができ、励起サイトおよび励起状態を選別した化学反応が可能であり、永年の夢であった化学反応の制御を実現できる可能性を持っている。特に、表面化学反応は下地表面との相互作用による非局在化に打ち勝った場合に起こるため、気相反応と比べて励起エネルギーに対する選択性の高い反応を引き起こすと考えられる。これまで励起サイトを選択した反応については研究例があるが、励起状態を選択した反応については、励起状態の帰属の難しさからほとんど行われていない。このような観点から、脱離反応が表面光化学反応の素過程であり反応を理解するための基礎であることを考慮し、励起状態および吸着構造が調べられているぎ酸を用いて数種の空軌道に内殻電子を励起した後に起こるイオン脱離反応について研究を行った。また、近年盛んに行われている応用研究の一つであるエッチング反応は、複雑な反応であるため反応機構に関してはほとんど理解されていないが、内殻励起特有の現象が見いだされており、基礎研究の立場からのアプローチが必要な段階にある。そこで主に反応生成物の直接検出によりエッチング反応基礎過程についての研究も併せて行った。

DCOOD/Si(100)表面における内殻電子励起による光刺激イオン脱離の研究

 実験は高エ研・放射光実験施設BL-2Bからの単色光を光源とし、円筒鏡型電子分析器(CMA)、飛行時間型(TOF)イオン分析器を備えた超高真空装置を用いて行った。試料には、Si(100)清浄表面に重水素置換したぎ酸DCOODを室温で解離吸着(Si-OCDO、Si-D)させたものを用いた。C-ls吸収端近傍での内殻励起により生成する主な脱離イオン種は、TOF法により、D+、CDO+、CO+、CD+、C+、O+と同定された。各イオン種のTOFにウインドウをかけ、励起波長の関数として計数することにより、各イオンの脱離収量曲線を測定した。また、表面吸着種の光吸収断面積を得るために、CMAを用いてC(KVV)オージェ電子収量曲線を測定した。波長分解能約0.25eVで測定したD+、CDO+、CO+、O+、CD+、C+イオンの脱離収量曲線とオージェ電子収量曲線を図1に示す。これらの収量曲線には、低エネルギー側からそれぞれ、Cls-*(C=O)、*(C-D)、*(C-O)、*(C=O)軌道への遷移と考えられるピークが観測されることから、これらのイオンはSi-OCDOのC原子の内殻電子励起で生成していることが確認できる。特に、D+*(C-D)への励起で,CD+およびC+*(C=O)への励起で、CDO+およびCO+*(C-O)への励起で、O+*(C=O)への励起で脱離収量が増加していることから、イオン脱離が共鳴励起状態の性質に強く依存することが明かとなった。以上のような初期励起状態に依存した結合切断を説明するために、ぎ酸分子のそれぞれの反結合性軌道の局在性を検討した。結合距離を変えて軌道エネルギーを計算することにより求めた結合強度の結果は、各結合がその反結合性軌道へ励起した場合に弱まることを示唆した。また、二種類の結合切断(C-OおよびC=O)により生じるCD+およびC+*(C=O)軌道がC=O結合だけではなくC-O結合に対しても反結合性を示すことから、*(C=O)での増加が説明できる。このように、イオン脱離反応に共鳴励起状態の性質が強く現れることから、(1)反結合性軌道に電子を残したまま起こるオージェ過程(傍観型オージェ過程)、(2)内殻励起状態において結合距離が延びた後に起こるオージェ過程(解離過程と競合したオージェ過程)、のどちらかの過程を経てイオン脱離が起こっていることが推察される。特にD+*(C-D)励起で特異的に増加しており、D+の質量数が小さいことからも、(2)の過程を経て起こっている可能性が強いものと結論した。

図1.DCOOD/Si(100)からのオージェ電子および脱離イオン収量曲線
内殻電子励起によるエッチング反応基礎過程の研究

 一般に表面光化学反応の主要な生成物は中性種であり、本研究においても中性種の検出を行う必要がある。しかしながら、中性種の検出はイオン検出に比べて感度が低く,単色化した放射光はこのような実験に対しては強度的に不十分であり、残留ガスの影響を受け易い。そこで、超高真空の質の改善を行うとともに、四重極質量分析計(QMS)のイオン化部をできるだけ表向に近づけ、立体角を大きくすることにより高感度な測定が可能である超高真空装置の開発を行った。また、反応生成物の断片化を抑えるため、QMSの電子衝撃エネルギーを30eVに下げて使用した。実験はBL-7A、12Cおよび3Bからの単色光を光源として行った。試料にはa-SiO2(120A)基板に約100KでSF6を単分子層吸着したものを用いた。また、比較のためにpoly-Si基板も用いた。SF6は化学的に不活性な分子であり、吸着しただけではエッチングは起こらない。そのためこの系におけるエッチング反応は純粋に光化学反応によるものであり、基礎過程の研究に適している。

 a-SiO2においては、Si2p内殻準位付近の単色光(130eV)の照射開始時には生成物の検出はできなかったが、数時間照射した後、SOF2+,SiF3+、SF2+、SO2+、SO+、O2+などの質量フラグメントの検出に成功した(図2(a)参照)。解離パターンを考慮すると、多くの反応生成物はSiF4、SO2、SO、O2などの安定な分子と考えられ、SO2、SOなどの相対的に高い収量での検出から、F原子だけではなくS原子を含む活性種がエッチング反応に対して重要な役割を演じていることを見いだした。また、表面状態についての知見を得るため、イオン検出を試みた。その結果、F+、F2+、SiFx+、SiOFx+、SOx+、SOF+、SFx+などのイオン種が検出され、SおよびFを含むa-SiO2層が表面に生じていることがわかった(図2(b)参照)。この反応層についての組成および生成過程を調べるため、X線光電子分光法(XPS)による測定を行った。a-SiO2におけるSi2pのピークシフトの照射時間依存性の結果を図3に示す。これより、a-SiO2層が徐々にフッ素化され、30分で一つのSi-Fが、70分で二つのSi-F結合がSi-O結合と置き変わっていることがわかる。また、前述の反応生成物が検出されるまでに数時間の照射を要したのは、今回の実験条件下では反応初期過程としての反応活性層の生成が徐々に行われており、初期の段階においては脱離量が小さく検出できなかったと考えられる。

図表図2.SF6/SiO2における質量スペクトル(a)中性種 (b)イオン種 / 図3.SF6/SiO2におけるSi2pピークシフトの照射時間依存性

 比較のために行ったpoly-Siにおいては中性の反応生成物は検出できなかった。このことは、a-SiO2とpoly-Siの間にエッチングにおける大きな反応性の違いがあることを示している。そこでpoly-Siに対して全電子収量曲線の測定を行ったところ、SiFxを含む反応層が光照射により表面に生じていることを示した。それにもかかわらず、a-SiO2とpoly-Siの間にエッチングにおける反応性の違いがあるのは、それぞれの反応層からのエッチング生成物の脱離過程が異なるためと考えられる。脱離過程の違いの原因としては、a-SiO2ではS原子がO原子と反応してSO2などの安定な分子をつくり脱離に対して有効に働くのに対して、poly-SiではS原子が表面に残り、脱離の進行を妨げているものと考察した。

審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は緒論、第2章はDCOOD/Si(100)表面における内殻電子励起による光刺激イオン脱離の研究、第3章は内殻電子励起によるエッチング反応基礎過程の研究、第4章は摘要が述べられている。

 第1章では、本論文の意義、電子遷移による脱離反応、光刺激イオン脱離反応に関する過去に提案された脱離モデルや研究例、ぎ酸の吸着構造について述べ、軟X線表面光化学反応および放射光励起による半導体のエッチング反応の全般的な背景を簡潔に概説している。

 第2章では、光刺激イオン脱離の研究を行うために考案した超高真空実験装置と実験手法、ならびに、それを用いた内殻電子励起によるDCOOD/Si(100)表面からの光刺激イオン脱離の研究結果がまとめられている。Si(100)清浄表面に重水素置換したぎ酸を室温で解離吸着(Si-OCDO、Si-D)させた単分子吸着系をC-ls吸収端近傍の単色軟X線で内殻励起すると、主なイオン種としてD+、CDO+、CO+、CD+、C+、O+が脱離することが確認され、各イオンの脱離収量曲線が励起波長の関数として測定された。また、表面吸着種の光吸収断面積を得るために、炭素原子のオージェ電子収量曲線も同一試料で測定した。その結果、各イオンの脱離収量曲線とオージェ電子収量曲線には、低エネルギー側からそれぞれ、*(C=O)、*(C-D)、*(C-O)、*(C=O)軌道への遷移と考えられる内殻電子の共鳴吸収が観測されること、また、イオン種によりそれらの共鳴吸収の大きさや位置が異なることが見いだされた。とくに、D+*(C-D)への励起で、CD+およびC+*(C=O)への励起で、CDO+およびCO+*(C-O)への励起で、O+*(C=O)への励起で脱離収量が増加しており、共鳴吸収により内殻電子が遷移した励起軌道の結合性および局在性と結合の切断との関連を検証した。ぎ酸分子の励起軌道についての分子軌道計算の結果は、反結合性軌道への励起ではその軌道が強く局在する結合が弱まることを示唆した。また、二種類の結合切断(C-OおよびC=O)により生じるCD+およびC+は、*(C=O)への励起で増加することが認められたが、*(C=O)軌道がC=O結合だけではなくC-O結合に対しても反結合性を示すことで説明できる。このような初期励起状態に対する依存性から、(1)反結合性軌道に電子を残したまま起こる傍観型オージェ過程、(2)内殻励起状態において結合距離が延びた後に起こる解離過程と競合したオージェ過程、のどちらかの過程を経てイオン脱離が起こっているものと推察した。D+*(C-D)励起で特異的に増加しており、D+の質量数が小さいことからも、(2)の過程を経て起こっている可能性が強いものと結論した。このような観点からの研究は、これまでに簡単な2ないし3原子分子で行われているにすぎず、ぎ酸のような多原子分子について脱離イオン種を系統的に調べ、脱離過程が初期励起状態に強く依存することを見いだしたものとしては、本研究が最初である。

 第3章では、内殻電子励起によるエッチング反応基礎過程の研究結果がまとめられている。試料にはa-SiO2基板に約100KでSF6を単分子層吸着したものが用いられた。また、比較のためにpoly-Si基板も用いている。a-SiO2においては、Si2p内殻準位付近の単色光(130eV)の照射により、数時間の照射後からSOF2+、SiF3+、SF2+、SO2+、SO+、O2+などの質量フラグメントの検出に成功した。解離パターンを考慮すると、主な反応生成物はSiF4、SO2、SO、O2などの、安定な分子と考えられ、SO2、SOなどの相対的に高い収量での検出から、F原子だけではなくS原子を含む活性種がエッチング反応に対して重要な役割を演じていることを見いだした。一般に、中性の生成物の検出はイオン種に比べ格段に困難であり、これに成功したことが本研究の最も評価される点である。また、表面状態についての知見を得るために行った生成イオン種の検出実験では、F+、F2+、SiFx+、SiOFx+、SOx+、SOF+、SFx+などのイオン種が検出され、SおよびFを含むa-SiO2層が表面に生じていることが判明した。さらに、光電子分光によるSi2pのピーク位置の照射時間依存性の結果より、a-SiO2層が徐々にフッ素化されていることが判明し、前述の反応生成物が検出されるまでに数時間の照射を要したのは、今回の実験条件下では反応活性層の生成が徐々に行われ、初期の段階においては脱離量が少なく検出できなかったものと推察した。比較のために行ったpoly-Siにおいては中性の反応生成物は検出されず、a-SiO2とpoly-Siの間にエッチングにおける大きな反応性の違いがあることを示した。そこで反応条件下でのpoly-Siに対して全電子収量曲線の測定を行ったところ、poly-SiにおいてもSiFxを含む反応層が光照射により表面に生じていることが判明し、a-SiO2とpoly-Siとにおけるエッチング反応の違いは、それぞれの反応層からのエッチング生成物の脱離過程が異なるためであると考察した。さらに、脱離過程の違いの原因としては、a-SiO2の場合には、S原子がO原子と反応してSO2などの安定な分子をつくり脱離に対して有効に働くのに対して、poly-SiではS原子が表面に残り、脱離の進行を妨げているものと結論した。

 以上、本論文は、軟X線領域の放射光による固体表面上での光化学反応に関する新しい重要な知見をもたらすものであり、理学系研究科化学専攻の博士学位論文として相応しい内容を有していると判断し、合格とした。なお、本論文第2章は、関口哲弘氏、田中健一郎氏、第3章は関口哲弘氏、金田和博氏、北村修氏、田中健一郎氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

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