学位論文要旨



No 110991
著者(漢字) 市橋,正彦
著者(英字)
著者(カナ) イチハシ,マサヒコ
標題(和) クラスターの解離ダイナミクスと振動運動
標題(洋) Dissociation Dynamics of Clusters and Their Vibrational Motion
報告番号 110991
報告番号 甲10991
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2904号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 田中,虔一
 東京大学 教授 太田,俊明
内容要旨 I.

 103個程度以下の原子・分子の集合体であるクラスターは、有限多体系の非線形振動体であり、クラスターの反応過程とそのダイナミクスは、そうした特徴を持つクラスターの振動状態と強く関連している。一つには、クラスター全体が変形する低振動数の全体振動が励起され、それに続いて特徴的な反応が進行することが予測される。また、特定の振動モードにエネルギーが局在し、特定の粒子が容易に解離しやすくなることも考えられる。このようなクラスターの振動運動と解離反応との関連を研究するため、分子動力学法を用いたクラスター全体振動の抽出およびクラスターイオンの衝突誘起解離、赤外光解離などの実験を行なった。

II.アルゴンクラスターの全体振動

 弾性球モデルを用い、アルゴンクラスター(Arn)を構成するAr原子の運動から典型的な全体振動(膨張収縮振動、四重極変形振動、ねじれ振動)を抽出する方法を開発した。また、クラスターの"相転移"に対して、これらの振動スペクトルが敏感に変化することを見出した。さらに、回転楕円体に近い形状を持つクラスターに特有の折れ曲がり振動は、周期的に励起・脱励起を繰り返す再帰現象を示すことがわかった。

III.シアン化水素クラスターの構造および電子付着過程

 高励起Bydberg原子は低速の電子源として有用であり、衝突によってクラスターに低速の電子が付着することが知られている。主量子数の選別されたRydberg原子を用いた場合には、クラスター内振動と電子の運動エネルギーが一致したところで、クラスターへの電子付着が共鳴的に起こることが期待される。こうした現象を検証する出発点として、(HCN)n(n=2-10)の安定構造を求め、その構造に対するアフィニティ準位を計算した。アフィニティ準位はn=4で真空準位より下に位置するようになり、この計算結果は実験で得られた分布のしきいサイズとよく一致している。

IV.Arn-1Xe+の低エネルギー振動と衝突誘起解離

 Xe+をAr原子が溶媒和した構造を持つArn-1Xe+では、膨張収縮振動、四重極変形振動、ねじれ振動に加えて、Ar原子のつくる"篭"のなかでXe+が振動するケージ振動も観測された。このような性質を持つAr12Xe+をAr原子と70eV程度の衝突エネルギーで衝突させると、クラスターイオンの中心にあるXe+に効率よく衝突エネルギーが伝達され、ケージ振動を経て、Xe+が選択的に放出される反応が顕著に進行することが見出された。

V,VI,VII.アルゴンクラスターイオンの衝突誘起解離

 アルゴンクラスターイオン()の解離過程を実験的に調べるために、八極子イオンガイドを備えたタンデム型質量分析装置を製作し、(n=2-23)と希ガス原子(36Ar,Kr)との衝突実験を行なった。その結果、衝突エネルギーが1eV程度の領域では、反応が衝突によるクラスター内振動の励起および単分子的解離という二段階で進行していることが判明した。この衝突反応においては、標的原子が大きくなるにしたがって、衝突エネルギーが効率よくクラスターの内部エネルギーに変換され、クラスターが集団励起される可能性を示唆している。さらに、衝突の動的過程を詳しく調べるために、量子力学的分子動力学計算を行なった。

 [実験]装置は4台の油拡散ポンプで差動排気された真空槽と、電場-磁場二重収束型質量分析器から構成されている。クラスターイオンは超音速分子線を電子衝撃することによって生成される。試料気体を澱み圧5気圧で直径30mのノズルから真空槽に噴出する。断熱膨張により気体は急速に冷却され、電子銃から打ち込まれた50eVの電子によってイオン化され、クラスターイオンが形成される。このクラスターイオンをイオンレンズで収束し、八極子イオンガイドによって四重極質量選別器に導く。質量選別されたクラスターイオンは、八極子イオンガイドを備えた衝突室に導入される。衝突室には10-5-10-4Torrの標的気体を満たし、この中で、クラスターイオンと標的気体とを反応させる。未反応の親クラスターイオンおよび娘クラスターイオンを八極子イオンガイドで輸送して、電場-磁場二重収束型質量分析器に導入し、質量分析する。

 36Ar原子との衝突によって生成するクラスターイオンの質量スペクトルを図1に示す。標的気体36Arを衝突室に導入したときには,蒸発反応によると融合反応による36Ar(m<22)が生成する。一方、標的気体を導入しないときにも,(m<22)に帰属される小さなピークが現れる。これは、親クラスターイオンの内部温度が高いため、四重極質量選別器を通過した後にも、単分子解離、+(n-m)Arが進行していることによる。単分子解離の結果から親クラスターイオンの内部温度を見積もると、n10において50K程度であった。また、図2にから生成する娘イオンの生成断面積を示す。この衝突過程においては蒸発反応が主要な反応経路であり、融合反応の分岐比は親クラスターイオンのサイズとともに増加するが、最大でも20%程度である。これら娘イオンの生成は次のような2段階で進んでいるものと考えられる。

 

図表図1:親クラスターイオンからの生成イオンに対する質量スペクトル。 / 図2:36Arとの衝突における蒸発反応断面積(□)と融合反応断面積(◇)。衝突エネルギーは0.2eV。

 前半は衝突によって振動励起された中間体あるいはが形成される過程であり、後半はこれらの中間体が解離する過程である。後半は衝突によって振動励起されたクラスターイオンが単分子解離する過程と考えると結果がうまく説明される。図3に示したように、単分子解離を扱うRRK理論によって得られる娘イオンの分布は実験によって得られた分布をよく再現している。36Arとの0.2eV衝突において、蒸発反応では衝突エネルギーの60%が、融合反応では100%がクラスターイオンに移動すると見積もられる。

 [衝突過程の量子力学的分子動力学計算]とAr原子との衝突過程をDIMモデルに基づいた分子動力学計算によって追跡した。ある内部温度を持つクラスターイオンから50Å離れたところにAr原子を配置し、さまざまな衝突径数と相対速度でAr原子を入射し、に衝突させ、入射してから30psの間、反応を追跡した。その結果、衝突径数が3Å以下の領域では、主に融合反応が進行し、衝突径数がクラスターの半径程度に大きくなると蒸発反応が選択的に起こることがわかった。また、親クラスターイオンの内部温度が0Kのときには、融合反応が効率よく進行し、Arが最も多く生成した。内部温度を50K、100Kと上昇させるにしたがって、蒸発反応が融合反応にとって代わり、主反応となった。一方、とAr原子の衝突における衝突径数と入射原子の運動エネルギー損失の関係から全反応断面積を求めると、この全反応断面積は実験値とほぼ一致し、クラスターサイズによる全反応断面積の変化をよく再現している。

VIII.アクリロニトリルクラスターイオンの衝突誘起解離

 アクリロニトリル(AN:CH2=CHCN)あるいはその誘導体の分子クラスターは電子付着により、クラスター内で重合反応を起こすと考えられている。これらのクラスターの構造を明らかにするため、ANクラスター負イオンおよび正イオンと希ガス原子とを衝突させ、生成する解離イオンを観測した。ANクラスター正イオンとKr原子との1.0eV衝突では、いくつかのAN分子がから蒸発し、(m<n)が生成した。ANクラスター負イオンの場合には、AN分子が蒸発して生成したイオンに加えて、HCNあるいはCH2CNが脱離して生成するイオンも観測された。このような娘イオンの生成はにおいては、AN分子間に存在する結合が分子内結合と同じくらいの強さになっていることを示しており、クラスター内で重合反応が進行したことを示唆している。また、から生成する娘イオンとしては、あるいはが比較的多く生成した。このことは重合反応によって(AN)3が効率よく生成し、はイオン核が中性分子(AN)3およびANによって溶媒和された構造をしていることを示している。

IX.アンモニアクラスターイオンの赤外光解離

 クラスター内振動モード間のエネルギー移動、および、クラスターの構造と振動運動との関連を調べるために、赤外光による(NH3)n-1の解離実験を行なった。新たに開発したS字型の八極子イオンガイドを衝突実験装置に組込み、クラスターイオンビームと同軸方向にCO2レーザー光を照射した。図4に、そのようにして得られた光解離スペクトルを示す。この領域の赤外吸収は、NH32変角振動(傘振動)によるものであり、その励起エネルギーが分子間振動に移動し、NH3分子がクラスターイオンから蒸発する。気相中のNH3の傘振動の振動数は950cm-1であり、(NH3)5内のNH3の振動数はこれから大きくシフトしている。クラスターの中心にあるからの静電相互作用によって、NH3の傘振動が大きな影響を受けているためと推測される。6量体における光解離断面積は10-18cm2程度であり、クラスターサイズの増加とともに、この値は大きくなっていく。この吸収極大に相当する振動数は、クラスターサイズとともに低振動数へ移動していき、これは、光吸収を起こすNH3分子上の窒素原子の周りの電子密度が減少していくことに起因しているものと考えられる。また、照射する赤外レーザー光の振動数によって娘イオンのサイズ分布が微妙に変化している。これは、クラスターの内部エネルギーの違いによるクラスターの構造の変化が傘振動の振動数に敏感に反映しているためと考えられる。

図表図3:36Arの衝突から生成するイオンの分布。実験値(棒グラフ)と計算値(■,◆)。衝突エネルギーは0.2eV。 / 図4:(NH3)n-1の光解離スペクトル。
審査要旨

 本研究は、クラスターの振動運動と解離ダイナミクスとの関連を明らかにすることを目的とし、実験および計算の両面から研究を行なったものである。計算面で、クラスターの全体振動を抽出する新たな手法を導入したことに加えて、実験面では、八極子イオンガイドを備えたクラスターイオン衝突誘起解離装置および赤外光解離装置を開発し、振動励起によるクラスターイオンの解離過程の研究を行なっている。本論文は10章からなり、第I章では本学位論文の序論、第II章では、クラスターの形状変化をともなう低振動数の全体振動を弾性球モデルを用いて抽出する手法、および、これらの振動スペクトルがクラスターの"相転移"に対して敏感に変化することについて述べている。さらに、回転楕円体に近い形状のクラスターでは、折れ曲がり振動(ねじれ振動の一種)が周期的に励起・脱励起を繰り返す再帰現象を示すことを見いだしている。第III章では、シアン化水素クラスターの構造およびアフィニティ準位の計算を行ない、電子親和力を求めている。この計算結果とクラスターへの電子付着の実験結果との比較から、4量体以上では電子付着による振動励起によって蒸発が進行することを示している。第4章では、希ガスクラスターイオンArn-1Xe+とアルゴン原子との衝突反応を分子動力学法を用いて追跡している。この衝突においてはクラスターイオンからのXe+の脱離が効率よく進行することを観測し、このイオン核の脱離が、衝突によるクラスター中でのイオン核の振動(ケージ振動)励起を経由して進行していることを明らかにしている。こうした計算によって得られた結果を基盤として、第V章から第VIII章では衝突によるクラスターの解離過程を、第IX章では赤外光によるクラスター内振動の励起による解離過程の研究を行なっている。第V章から第VII章においては、と標的原子(ArあるいはKr原子)との衝突過程について述べている。この衝突過程においては、クラスターからの構成原子の蒸発、クラスターからの標的原子への電荷移動、およびクラスターと標的原子との融合が観測されており、これらの反応が、衝突によるクラスターの振動励起および振動励起されたクラスターの単分子解離という2段階反応の観点から解析が行なわれている。クラスターサイズにおける全反応断面積の変化は量子力学的な分子動力学計算に基づく剛体球衝突モデルによる予測とよく一致している。一方、娘イオンの分岐比は、振動励起されたクラスター内での統計的なエネルギー分布とAr原子の逐次的な蒸発によってよく再現されており、上述の2段階反応によって実際の衝突誘起解離が進行していることを支持している。第VIII章では、衝突誘起解離という手法を用いて、クラスター内重合していると考えられるアクリロニトリルクラスター負イオンの構造を明らかにしたことについて述べられている。衝突誘起解離によって生成する娘イオンの種類とその存在比から、このクラスター負イオンがクラスター重合を起こしていることを確認し、また、3量体イオン核が中性の3量体と単量体によって溶媒和された構造をとっていることを示している。第IX章では、分子内振動励起からのクラスターの解離過程を研究するために、クラスターの赤外光解離装置を開発し、さらに、アンモニアの2振動励起によるアンモニアクラスターイオンの振動前期解離スペクトルの測定を行なったことについて述べている。ここでは、吸収極大に対応する振動数のサイズによる長波長シフトをイオン核との静電相互作用によるアンモニア分子上での電子密度分布の変化と結びつけて議論している。第X章では、本学位論文の結びを述べている。

 なお、本論文は近藤保、尾崎裕、永田敬、野々瀬真司、廣川淳、篠田泰寿との共同研究を含んでいるが、論文提出者が主体となって研究したものであり、論文提出者の寄与が十分である。したがって、本論文の提出者である市橋正彦は、東京大学博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を持つものと認める。

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