学位論文要旨



No 110995
著者(漢字) 鈴木,博幸
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ヒロユキ
標題(和) 速度論的安定化による低配位有機ケイ素化合物の合成と反応
標題(洋) Syntheses and Reactions of Kinetically Stabilized Low-Coordinate Organosilicon Compounds
報告番号 110995
報告番号 甲10995
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2908号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 教授 務台,潔
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 岩村,秀
 東京大学 助教授 小川,桂一郎
内容要旨

 周期表において炭素のすぐ下に位置するケイ素を研究対象とする有機ケイ素化学は、有機化学において近年最も注目を集めている分野の一つである。中でも炭素の化学では安定に存在するオレフィン、ケトンなどに対応するケイ素の不飽和結合化学種は極めて不安定であるため、近年ようやくその研究が始まったばかりであり、その化学についてはいまだ未知の部分が多い。そこで本研究ではこのような不飽和結合化学種の中でもケイ素-ケイ素二重結合化学種(ジシレン)、およびケイ素-硫黄二重結合化学種(シランチオン)を取りあげ、その合成、単離、および反応性について検討を行った。またこのような高反応性化学種の安定化の手法としては立体保護による速度論的安定化を用いた。

1.ケイ素-ケイ素二重結合化学種(ジシレン)

 立体保護基として2,4,6-トリス[ビス(トリメチルシリル)メチル]フェニル基(以下Tbt基と略)、2,4,6-トリメチルフェニル基(以下Mes基と略)をケイ素上に導入したジブロモシラン1に対してリチウムナフタレニドによる還元的カップリング反応を行うことにより、ジシレン2[(Z)-2および(E)-2]を合成した。(Z)-2は黄色、(E)-2は橙色の結晶であり、結晶の空気中での半減期は約40日である。これまでに合成されたジシレンの半減期が数分から1〜2日であることを考えると、2の水、酸素に対するこのような安定性の飛躍的な増大はTbt基の優れた立体保護能を反映した結果であると考えられる。

 

 2については、X線結晶構造解析によりその分子構造を詳細に検討した。ケイ素-ケイ素二重結合長は2.195Å[(Z)-2]、2.225Å[(E)-2]であり、炭素置換基を持つジシレンとしてはこれまでに報告されている値のなかで最も長く、またケイ素周りの結合角も著しく歪んだものとなっていることがわかった。

 これまでに単離されたジシレンは熱的には非常に安定な化学種として知られているが、2の場合は水、酸素に対し極めて安定であるにもかかわらず、熱的には不安定であり、ベンゾシラシクロブテン4を与えた。4はジシレン2が熱的にケイ素二価化学種であるシリレン3へ解離して生成すると考えられる。

 

 2に対してメタノール、トリエチルシラン、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエン、および単体硫黄のような種々の捕捉剤存在下での熱反応を行ったところ、いずれの場合においてもケイ素-ケイ素結合を保ったままの生成物は得られず、ジシレンが解離して生成すると考えられる3の捕捉体のみが得られた。これらの結果はいずれもジシレン2が穏やかな加熱により容易にシリレン3に解離するという現象を支持している。これはジシレンからシリレンへの熱解離の最初の例である。

 

 シリレンの発生法としてはこれまでにいくつか報告例があるが、そのほとんどは高い温度か光照射を必要としていたため、その反応性の検討も限られたものとなっていた。しかしこのジシレンの熱解離反応はTHF還流下という非常に穏やかな条件でシリレンを発生させることができることから、これまで不安定で得られなかった反応生成物の単離が可能となり、新規な反応性の解明が期待できる。2の熱分解をナフタレン共存下で行ったところ、シリレンとナフタレンとの2:1付加体である5が得られた。また、同様な熱分解をベンゼン中で行ったところ、熱解離によって生成したシリレンの分子内C-H挿入反応生成物であるベンゾシラシクロブテンのほかにシリレンとベンゼンとの2:1付加体である6が得られた。これら芳香族化合物とシリレンとの[1+2]付加反応を観測したのはこれが初めての例である。付加体5,6はいずれも100℃程度に加熱すると再びシリレンとベンゼン、あるいはナフタレンを再生することから、これまでのシリレン発生法では[1+2]付加反応は観測できなかったと考えられる。

 

 またこの熱解離反応を利用することで、これまでに合成例のない新規な構造を有する有機ケイ素化合物の合成が可能になる。2とt-Bu-C≡Pn(Pn=N,P)との反応では、三員環化合物である7a,bを、また二硫化炭素との反応では、環状のジシリルチオケトン8をそれぞれ合成することができた。

 

2.ケイ素-硫黄二重結合化学種(シランチオン)

 ケイ素と16族元素との二重結合化学種は立体保護基がケイ素上にしか導入できないため、速度論的安定化による合成、単離は非常に困難であった。そこで、これまで用いられてきた置換基に比べてはるかに高い立体保護能をもつと考えられるTbt基を導入することでその合成が可能になると考え、ケイ素-硫黄二重結合化学種(シランチオン)の合成を試みた。シランチオンの前駆体としては、修士課程において既にその合成を報告したボリスルフィドである1,2,3,4,5-テトラチアシロランを用い、その脱硫反応による合成を検討した。Tbt基、Mes基が置換した9aは対応するジヒドロシランと単体硫黄との熱反応によって合成できるが、ジシレンの熱解離反応を利用するとさらによい収率で合成できた。Tbt基、2,4,6-トリイソプロピルフェニル基(以下Tip基と略)が置換した9bは、対応するジブロモシランに対してリチウムナフタレニドを作用させた後に硫黄を加えることで合成できることを見い出した。

 

 まず9aに対して脱硫試剤として3当量のPh3Pを低温で作用させたところ、反応溶液はシランチオン10aの生成を示唆する黄色を呈した。しかしながらこの溶液を室温まで昇温した後、分離精製を行うと、シランチオンの2量体である11が得られ、ケイ素上の置換基がTbt基とMes基では立体保護が不十分であることがわかった。

 

 そこでMes基よりもかさ高い置換基であるTip基が置換した9bの脱硫反応を検討した。9bに対し、3当量のPh3Pを作用させたところ、この場合、シランチオンの2量化が妨げられ、シランチオン10bを黄色結晶として得ることができた。

 

 10bについてはX線結晶構造解析によりその分子構造を詳細に検討した。中心のケイ素周りの結合角の和は359.9°で、シラチオカルボニル基は平面であることがわかった。またケイ素-硫黄二重結合長は1.948Åであり、通常のケイ素-硫黄単結合(〜2.15Å)より約9%短くなっている。これまでに熱力学的な安定化によるシランチオンの単離例は報告されているが、そのケイ素-硫黄二重結合長は2.013Åであり、10bが真の二重結合性を有していることがわかった。また10bはフェニルイソチオシアナート、メシトニトリルオキシド、2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンなどと反応し、それぞれ[2+2],[2+3],[2+4]付加体を与えた。

 

審査要旨

 本論文は,6章からなっている。第1章は序論であり,第2〜6章において,ジシレンおよびシランチオンの合成と反応について述べている。

 第1章では,低配位有機ケイ素化合物のこれまでの研究を総括し,本研究の位置づけを適切に行っている。また,本研究で用いている速度論的安定化の意義と特徴を議論し,論文提出者の使用している立体保護基の有用性を説明している。

 第2章では,ケイ素-ケイ素二重結合化学種(ジシレン)の合成について述べている。立体保護基として2,4,6-トリス[ビス(トリメチルシリル)メチル]フェニル基(以下Tbt基と略),2,4,6-トリメチルフェニル基(以下Mes基と略)をケイ素上に導入した.ジブロモシラン1に対してリチウムナフタレニドよる還元的カップリング反応を行うことにより,ジシレン2[(Z)-2および(E)-2]を合成した。2については,X線結晶構造解析によりその分子構造を詳細に検討した。ケイ素-ケイ素二重結合長は2.195Å[(Z)-2],2.225Å[(E)-2]であり,炭素置換基を持つジシレンとしてはこれまでに報告されている値のなかで最も長く,またケイ素周りの結合角も著しく歪んでいることが明らかにされた。

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 第3章では,ジシレン2のシリレン3への熱解離反応について述べている。これまでに単離されたジシレンは熱的には非常に安定な化学種として知られているが,2の場合は水,酸素に対し極めて安定であるにもかかわらず,熱的には不安定であり,70℃に程度の穏和な条件でシリレン3に解離することが見出された。2の単独熱反応では4を与える一方,メタノール,トリエチルシラン,2,3-ジメチル-1,3-ブタジエン,および単体硫黄のような種々の捕捉剤存在下での熱反応では,いずれの場合においても3の捕捉体が得られた。これはジシレンからシリレンへの熱解離の最初の例である。この熱解離反応の速度論的検討も行われた。

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 第4章では,このようにして生成するシリレン3の環化付加反応について述べている。ジシレン2の熱解離反応はTHF還流下という非常に穏やかな条件でシリレンを発生させることができることから,これまで不安定で得られなかった反応生成物の単離が可能となり,新規な反応性の解明が期待された。実際,2のナフタレン共存下での熱分解から,シリレンとナフタレンとの2:1付加体5が,またベンゼン中での熱分解からシリレンとベンゼンとの2:1付加体である6が得られた。これら芳香族化合物とシリレンとの[1+2]付加反応を観測したのはこれが初めての例である。また,2とt-Bu-C≡Pn(Pn=N,P)および二硫化炭素との反応により,これまでに合成例のない新規な構造を有する三員化合物7a,bおよびジシリルチオケトン8をそれぞれ合成することができた。

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 第5章では,シランチオンの出発物質である1,2,3,4,5-テトラチオシロラン9の合成について述べている。Tbt基,Mes基が置換した9aは対応するジヒドロシランと単体硫黄との熱反応または硫黄共存下のジシレン2の熱解離反応により合成された。Tbt基,2,4,6-トリイソプロピルフェニル基(以下Tip基と略)が置換した9bは,対応するジブロモシランに対してリチウムナフタレニドを作用させた後に硫黄を加えて合成された。

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 第6章ではテトラチオシロランの脱硫による安定なシランチオンの合成について述べている。9aと3当量のトリフェニルホスフィンとの反応では中間体シランチオンの2量体である11が得られたが,Mes基よりもかさ高い置換基であるTip基が置換した9bの脱硫反応から,シランチオン10bを黄色結晶として得ることができた。

 10bのX線結晶構造解析によりその分子構造が詳細に検討された。中心のケイ素周りの結合角の和は359.9゜で,シラチオカルボニル基は平面であること,ケイ素-硫黄二重結合長は1.948Åであり,通常のケイ素-硫黄単結合(〜2.15Å)より約9%短くなることが明らかにされた。また10bはフェニルイソチオシアナート,メシトニトリルオキシド,2,3-ジメチル-1,3-ブタジエンなどと反応し,それぞれ[2+2],[2+3],[2+4]付加体を与えた。

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 なお,本論文第2章は,岡崎廉治氏,時任宣博氏,後藤みどり氏、友田修司氏,小川桂一郎氏,原田潤氏と,第3〜6章は岡崎廉治氏,時任宣博氏、第6章は岡崎廉治氏、時任宣博氏、永瀬茂氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって合成,構造解析,反応性の検討を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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