学位論文要旨



No 110997
著者(漢字) 柘植,清志
著者(英字)
著者(カナ) ツゲ,キヨシ
標題(和) 第6族金属カルコゲニドクラスター錯体の研究
標題(洋)
報告番号 110997
報告番号 甲10997
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2910号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 齋藤,太郎
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 岩本,振武
 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 教授 小間,篤
内容要旨

 金属カルコゲニドクラスター錯体は、構造に対する興味ばかりでなく、含金属酵素の活性中心や伝導性固体化合物のモデルとして、合成及びその性質の研究が行われている。博士課程では、修士課程に引き続き、モリブデンカルコゲニドクラスター錯体の研究と、新たにクロムカルコゲニドクラスター錯体の研究を行った。

Iクロムカルコゲニドクラスター錯体[Cr6E8(PR3)6]の研究

 序 第6族金属では、モリブデン、タングステンのクラスター錯体は、数多く合成されているが、クロムのカルコゲニドクラスター錯体の報告例は少ない。4d、5d金属に比べて小さいd軌道を持つ3d金属のクラスター錯体では、金属間相互作用が弱くなり、4d、5d金属とは異なる性質を持つクラスター錯体が合成できると考えられる。本研究では、クロムの新規カルコゲニドクラスター錯体を合成することを第一の目的として研究を行った。この研究の過程で、金属八面体Cr6S8骨格を持つクラスター錯体を得たが、この化合物は、モリブデン、タングステンでも同構造の錯体が合成されており、この骨格を持つ錯体について詳細に検討することにより、3d金属と4d、5d金属の金属結合の違いを明らかにできると考えた。また、このクラスター単位を持つモリブデンの固体化合物MxMo6E8(Chevrel相)は超伝導性化合物であり、このクラスター単位を持つ錯体の研究によりクロムのChevrel相類似化合物合成の一つの指針が得られると考えられる。そこで、Cr6S8骨格を持つクラスター化合物の合成法の確立、さらに、金属の違いによる影響を明らかにするために、配位子の異なる誘導体の合成、そして、得られた化合物の分子構造及び電子構造の解析を目的として研究を行った。

1.合成法

 CrCl2にNaSHとPMe3を低温で反応させることにより低収率ながらCr6S8骨格を持つクラスター錯体が得られることを見いだした。各種クロム塩、及び反応試剤を検討した結果、配位子としてPEt3を用いると、scheme 1の方法で再現性よく[Cr6S8(PEt3)6]が含成できることがわかった。

scheme 1

 配位子の影響を調べるため、セレンの配位した化合物の合成も試み、scheme 2の方法により、セレンの配位した6核クラスター錯体の合成も可能となった。硫黄の化合物では、PEt3以外は合成が困難であったが、セレンの配位した化合物では、PMe3、PMe2Phの配位した錯体も得ることができた。

scheme 2
2.3d金属骨格と4d金属骨格の比較

 得られた5つの錯体について単結晶構造解析を行った。図1に[Cr6S8(PEt3)6]のORTEP図を示す。他の4つ錯体でもE及びPR3の配位の様式は同じである。表1に、各化合物におけるCr-CrおよびCr-E、Cr-Pの結合距離を示す。

図1[Cr6S8(PEt3)6]のORTEP図表1[Cr6E8(PR3)6]における結合距離(Å)(括弧内は平均値)

 モリブデンの同構造のクラスター錯体[Mo6S8(PR3)6](PR3=PMe3、PEt3、PMe2Ph)が合成されているが、Mo-Mo距離は2.66±0.01Åであり、Mo6の八面体の対称性及びMo-Mo距離はPR3に依存しない。しかし、クロムの錯体ではPR3によりCr6八面体の対称性及びCr-Cr距離が異なる。PEt3の場合には、E=S、Se共にCr6骨格は正八面体であるが、PMe3、PMe2Phでは、PEt3の錯体に比べ、Cr-Cr平均距離が伸びると同時に、Cr26骨格が正八面体から歪み、対称性がD3d及びD2hになる。また、カルコゲンによる影響もモリブデンとは異なる。モリブデンの錯体では硫黄をセレンにすることによりMo-Mo結合距離が0.04Åしか変化しないのに対し、クロムの錯体では0.10Åの差が生じる。これらの構造に関する議論から3d金属Crの八面体骨格では、金属結合が4d金属の骨格に比べて弱い事がわかった。また、分子軌道計算によってもクロムの骨格では金属結合が弱い事が確かめられた。

3.Cr6E8骨格の歪みについて

 配位子がPMe3およびPMe2Phの錯体では、Cr6八面体が歪む事がわかった。これを説明するためにpackingの効果を考え、各分子でPの作る八面体とCrの八面体の関係を調べた。その結果、PMe2Phの錯体では、結晶構造では、Ph基が整列出来るようにPの位置が理想的な位置から歪み、その影響を受けてCr6八面体が歪む事がわかった。PMe3の錯体では、Pの作る八面体とCrの八面体は、同じ対称性(D3d)に歪んでいるが、Cr-Crの結合長の変化は、packingの効果だけでは説明できない事がわかった。そこで、PMe3の錯体について分子軌道の計算を行った。PMe3の錯体は、D3dに歪むと同時に平均結合長がPEt3の錯体に比べ約0.1Åと大きく伸びているので、対称性及びCr-Cr距離を変化させたモデル化合物[Cr6S8(PH3)6]について計算を行った。結果を図2に示す。(a)は、Cr-Crの距離を2.59Åとし、対称性をOhとしたPEt3錯体のモデルである。(b)は、Cr-Crの距離を2.69Åとし、対称性をOhとしたPMe3錯体のOhのモデルである。(c)もPMe3錯体のモデルであるが、より実際の構造に近いD3dを仮定した計算である。(a)では、0.4eVあったt1uとegのエネルギー差が、(b)では、0.15eVに減少し、t1uの6電子のうち2電子がegに入り、high spinの状態になった。より実際の構造に近い(c)では、t1uの軌道が分裂してa2uとeuになり、安定化されたeuの軌道に、(b)でt1uを占めていた4電子が入った。Cr6の骨格は、長いCr-Cr結合に対しては、Ohの対称性の構造では不安定であり、Jahn-Teller効果による歪みを受ける事がわかった。

図2[Cr6S8(PH3)6]のエネルギー準位

 モリブデンの錯体では、Mo-Mo距離を0.1Å変化させても、egに電子が入ることがなくJahn-Teller効果による歪みは受けない。金属距離に対してHOMO付近の軌道が影響を受けやすいため、Crの誘導体は、Moの誘導体と異なった構造を持つと考えられる。

4.Cr6E8クラスター錯体の磁性

 合成した化合物のうち、[Cr6S8(PEt3)6]、[Cr6Se8(PEt3)6]、[Cr6Se8(PEt3)6]、[Cr6Se8(PMe2Ph)6]の磁化率を2K-350Kで測定した。モリブデン、タングステンの錯体が反磁性の化合物であったのに対し、クロムの錯体はいずれも常磁性の化合物であることがわかった。eff-Tを図3に示す。[Cr6S8(PEt3)6]、[Cr6Se8(PEt3)6]、[Cr6Se8(PMe3)6]については、NMR、ESRの測定も行った。31P-NMRは観測できなかった。1H-NMRでは、PR3のアルキル基の水素は常磁性シフトしたシグナルを与え、溶液中でも常磁性の化合物であることがわかった。また、Seの化合物では、二種類のホスフィンがある事がわかり、異なる磁気的な状態にある錯体が存在すると考えられる。また、PEt3の配位した錯体のESRは、10K付近でg=2.1の幅広のシグナルを与えるが、50K付近でこのシグナルは消滅し、この温度以上ではシグナルは現れなかった。PMe3配位錯体は、10Kから室温までシグナルを与えなかった。

図3[〔Cr6E8(PR3)6]の有効磁気モーメント

 磁化率の測定から、Cr6E8骨格の磁気的挙動は、カルコゲン置換のみならず、ホスフィンのアルキル基を変えることによっても異なることがわかる。どの化合物も温度上昇につれeffの増加する常磁性を示す。これらの化合物では、近いエネルギーに異なるスピン状態が存在し、分布の仕方によって有効磁気モーメントが変化すると考えられる。

 まとめ クロムの新規クラスター錯体[Cr6E8(PR3)6](E=S,Se;PR3=PEt3,PMe3,PMe2Ph)を合成し、その分子構造の決定、磁性の測定を行った。クロムの錯体は、モリブデンの錯体と異なり、常磁性の化合物であり、配位子によって金属八面体が正八面体から歪むことがわかった。電子構造の解析から、クロムの化合物では、モリブデンの化合物に比べ金属結合が弱く、構造変化を起こしやすい事を明らかにした。

IIモリブデンカルコゲニドクラスター錯体[Mo3S5(PMe3)6]の研究

 序 モリブデンの三核クラスター錯体は、架橋配位子を三つと面配位の配位子を一つ持つMo3X4骨格の化合物が数多く合成されている。その多くは6電子の化合物であるが、8電子の化合物も合成され、三核クラスター錯体での安定な電子数を調べるため電子状態の研究も行われている。

 修士課程において、面配位の配位子を二つ持つ三核クラスター錯体[Mo3S5(PMe3)6]を(NH4)2[Mo3S13]にPMe3を反応させることにより合成した。面配位の配位子を一つ持つMo3X4骨格の錯体は、報告例が多いのに対し、面配位の配位子を二つ持つ三核モリブデンカルコゲニドクラスター錯体は、[Mo3S2Cl9]3-しか報告例がなかった。博士課程では、主にこの化合物の電子状態と構造の関係について詳細な検討を行った。

1.[Mo3S5(PMe3)6]の構造

 単結晶X線構造解析により[Mo3S5(PMe3)6]の構造を決定した。[Mo3S5(PMe3)6]のORTEP図を図4に示す。[Mo3S5(PMe3)6]分子は、Moの三角形に二つの面配位の硫黄と3つの架橋配位の硫黄が配位したMo3S5骨格を持つ化合物である。3つのモリブデンには二つずつPMe3が配位している。3つのMoの作る三角形は、Mo-Mo距離が2.71Åの正三角形である。

図4 [Mo3S5(PMe3)6]のORTEP図
2.[Mo3(3-S)2(-X)3L6]クラスター錯体の電子状態

 硫黄両面配位のモリブデンクラスター錯体として、[Mo3S5(PMe3)6]の他に[Mo3S2Cl9]3-が報告されている。この化合物は、[Mo3S5(PMe3)6と同じ[Mo3(3-S)2(2-X)3L6]の構造を持ち、骨格電子数も同数である。しかし、[Mo3S2Cl9]3-では、3つのモリブデンの作る三角形は正三角形から歪み、ほぼ二等辺三角形である。この構造の違いを説明するためD3hの対称性を仮定して、[Mo3S5(PH3)6]と[Mo3S2Cl9]3-についてDV-Xa法により計算を行った。計算の結果を図5に示す。[Mo3S5(PH3)6]では、HOMOが4a1"となったが、[Mo3S2Cl9]3-では、HOMOが半充慎の19e"となった。このために、[Mo3S2Cl9]3-では、Jahn-Teller効果によりMo3の三角形が歪むが、[Mo3S5(PMe3)6]では、Mo3の三角形が正三角形から歪まないことがわかった。

図5 HOMO付近のエネルギー準位図(a)[Mo3S5(PH3)6] 黒:Mo 4d5s5p,ハッチ:2-S 3s3p,クロスハッチ:3-S 3s3p,白:P 3s3p,ドット:H 1s (b)[Mo3S2Cl9]3- 黒:Mo 4d5s5p,ハッチ:2-Cl 3s3p,クロスハッチ:3-S 3s3p,白:Cl(末端)3s3p

 軌道の成分の比較から、[Mo3S5(PH3)6]のHOMOの4aI"は、[Mo3S2Cl9]3-のLUMOの4a1"に、[Mo3S5(PH3)6]のLUMOの19e"は、[Mo3S2Cl9]3-のHOMOの19e"に対応し、同構造の二つの化合物で、軌道の準位が入れ替わっていることがわかった。どちらの化合物でも、4a1"の軌道は、主に金属のd軌道からなる弱い金属反結合性の軌道であり、19e"の軌道は、主に金属のd軌道からなる弱い金属結合性の軌道である。この二つの軌道で配位子の成分を調べると、4a1"の軌道は、配位子の軌道をほとんど含まないが、19e"の軌道は、架橋配位子の非共有電子対の成分を反結合的に含むことがわかった。つまり、4a1"は、金属間の弱い反結合性の相互作用により不安定化する軌道であるのに対し、19e"は、金属間の弱い結合性の相互作用により安定化するが、金属配位子間の的な反結合性の相互作用によって不安定化する軌道であることがわかった。架橋配位子が塩素の場合は、塩素の電気陰性度が大きいため、非共有電子対と金属のd軌道のエネルギー差が大きい。この結果、[Mo3S2Cl9]3-では、金属配位子間の相互作用が弱く、金属結合性の19e"の軌道がHOMOで、金属反結合性の4a1"がLUMOとなる。架橋配位子が硫黄の場合には、硫黄の電気陰性度が塩素に比べて小さく、非共有電子対と金属のd軌道のエネルギー差が小さく近くなる。このため、[Mo3S5(PH3)6]では、金属配位子間の反結合的な相互作用が大きくなり、19e"の軌道は4a1"の軌道より不安定化し、HOMOが金属反結合性の4a1"、LUMOが金属結合性の19e"という準位の逆転が起こることがわかった。

まとめ

 [Mo3(3-S)2(-X)3L6]の構造を持つ8電子のクラスター錯体では、金属のd軌道と架橋配位子との的な相互作用が重要であり、架橋配位子が硫黄の化合物では、金属結合性の軌道と金属反結合性の軌道の準位の逆転が起こる事がわかった。このために、骨格電子数のが同数の化合物でも硫黄架橋の化合物と塩素架橋の化合物で、金属の作る三角形の構造が異なる事が明らかになった。

審査要旨

 本論文は2章からなり、第1章はクロムカルコゲニドクラスター錯体[Cr6E8(PR3)6]の合成、構造、電子構造、磁性について、第2章はモリブデンカルコゲニドクラスター錯体[Mo3S5(PMe3)6]の電子状態の解析について述べられている。

 第1章の研究対象化合物である[Cr6E8(PR3)6](E=S,Se)は、報告例がまれであるクロムカルコゲニドクラスター錯体の合成化学において重要性の高い新規化合物である。超伝導化合物のシェブレル相MxMo6E8のクロム類似体は報告例がなく、Cr6のクラスター骨格の安定性、構造の詳細、電子構造に多大の興味が抱かれている。一方分子性の構造モデルとなるモリブデン錯体[Mo6E8(PR3)6]は合成されているので、類似のクロム錯体の合成は可能であると推定され、当研究で実現された。一連のクロム誘導体の結晶構造、スペクトル、電子構造を研究することにより3d金属における金属-金属結合を4dおよび5dのものと比較することが可能になる。当論文では、[Cr6E8(PR3)6]の合成法の確立、トリアルキルホスフィンを変えた誘導体の合成とX線単結晶構造解析、DV-X法分子軌道法計算による電子状態の解析と構造の歪みの関係、磁化率、NMRの測定による磁性の研究を記述している。

 [Cr6E8(PR3)6]は論文提出者が初めて合成したものであり、合成条件を検討した結果、CrCl2を出発化合物として、トリアルキルホスフィン共存下Na2SHあるいはNa2Seをメタノール中低温で反応することにより10-20%の単離収率で結晶性化合物が得られることが確立された。熱安定性は比較的高く、Cr6E8クラスター骨格は決して不安定ではないことが明らかになった。5種の誘導体のX線単結晶構造解析をおこない、分子構造を解析した。Cr6八面体骨格は配位ホスフィンのアルキル基の違いにより、顕著な歪みを示す。また歪みの程度は硫黄とセレン誘導体で異なる。歪みの原因は結晶中における錯体分子の充填の際の立体効果に加えて、クロムクラスター骨格のヤーンテラー効果による電子効果が重なることを、分子構造と電子構造の詳細な検討により明らかにした。モリブデン誘導体はこの種の歪みを示さない。この違いは3d金属であるクロムのクラスターにおいては4d金属のモリブデンのクラスターに比べ金属-金属結合が弱いことに起因する。電子準位解析も、クロム誘導体におけるHOMO-LUMOギャップがモリブデンに比べ相当小さいことを示した。モリブデン、タングステンの類似クラスター錯体が反磁性であるのに対し、クロム錯体は常磁性である。結晶状態の磁化率の温度依存性の測定からクロム錯体に特有な磁気的挙動を発見した。1H NMRスペクトルにおけるアルキル基のシグナルが常磁性シフトを示す2種類の吸収線から成ることが磁気的に非等価なクラスターが混合していることを示唆した。クロム誘導体は電子準位がCr-Cr距離に非常に敏感であり、スピン平衡状態をとることが推定された。しかしながら、当研究からは異常な磁性発現の機構は確定していない。

 第2章は既に合成法を確立していた[Mo3S5(PMe3)6]のクラスター構造を電子構造から解釈することを目的としたモデル錯体に関するDV-X法分子軌道計算の結果を記述したものである。類似クラスター錯体である、[Mo3S2Cl9]3-、および[Cr3S5(dmpe)3]が二等辺三角形クラスター骨格を示すのに対し、当研究の対象化合物は正三角形である。この理由はHOMOが非縮退準位であるのでヤーンテラー効果が起こり得ないためである。

 以上は、遷移金属クラスター化合物の化学において、特筆すべき重要なものであり、博士(理学)取得を目的とする研究の成果として十分であると判断する。

 なお、本論文第2章は、齋藤太郎氏、井本英夫氏、矢嶋摂子氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成、構造解析、分子軌道計算をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク