本論文は2章からなり、第1章はクロムカルコゲニドクラスター錯体[Cr6E8(PR3)6]の合成、構造、電子構造、磁性について、第2章はモリブデンカルコゲニドクラスター錯体[Mo3S5(PMe3)6]の電子状態の解析について述べられている。 第1章の研究対象化合物である[Cr6E8(PR3)6](E=S,Se)は、報告例がまれであるクロムカルコゲニドクラスター錯体の合成化学において重要性の高い新規化合物である。超伝導化合物のシェブレル相MxMo6E8のクロム類似体は報告例がなく、Cr6のクラスター骨格の安定性、構造の詳細、電子構造に多大の興味が抱かれている。一方分子性の構造モデルとなるモリブデン錯体[Mo6E8(PR3)6]は合成されているので、類似のクロム錯体の合成は可能であると推定され、当研究で実現された。一連のクロム誘導体の結晶構造、スペクトル、電子構造を研究することにより3d金属における金属-金属結合を4dおよび5dのものと比較することが可能になる。当論文では、[Cr6E8(PR3)6]の合成法の確立、トリアルキルホスフィンを変えた誘導体の合成とX線単結晶構造解析、DV-X法分子軌道法計算による電子状態の解析と構造の歪みの関係、磁化率、NMRの測定による磁性の研究を記述している。 [Cr6E8(PR3)6]は論文提出者が初めて合成したものであり、合成条件を検討した結果、CrCl2を出発化合物として、トリアルキルホスフィン共存下Na2SHあるいはNa2Seをメタノール中低温で反応することにより10-20%の単離収率で結晶性化合物が得られることが確立された。熱安定性は比較的高く、Cr6E8クラスター骨格は決して不安定ではないことが明らかになった。5種の誘導体のX線単結晶構造解析をおこない、分子構造を解析した。Cr6八面体骨格は配位ホスフィンのアルキル基の違いにより、顕著な歪みを示す。また歪みの程度は硫黄とセレン誘導体で異なる。歪みの原因は結晶中における錯体分子の充填の際の立体効果に加えて、クロムクラスター骨格のヤーンテラー効果による電子効果が重なることを、分子構造と電子構造の詳細な検討により明らかにした。モリブデン誘導体はこの種の歪みを示さない。この違いは3d金属であるクロムのクラスターにおいては4d金属のモリブデンのクラスターに比べ金属-金属結合が弱いことに起因する。電子準位解析も、クロム誘導体におけるHOMO-LUMOギャップがモリブデンに比べ相当小さいことを示した。モリブデン、タングステンの類似クラスター錯体が反磁性であるのに対し、クロム錯体は常磁性である。結晶状態の磁化率の温度依存性の測定からクロム錯体に特有な磁気的挙動を発見した。1H NMRスペクトルにおけるアルキル基のシグナルが常磁性シフトを示す2種類の吸収線から成ることが磁気的に非等価なクラスターが混合していることを示唆した。クロム誘導体は電子準位がCr-Cr距離に非常に敏感であり、スピン平衡状態をとることが推定された。しかしながら、当研究からは異常な磁性発現の機構は確定していない。 第2章は既に合成法を確立していた[Mo3S5(PMe3)6]のクラスター構造を電子構造から解釈することを目的としたモデル錯体に関するDV-X法分子軌道計算の結果を記述したものである。類似クラスター錯体である、[Mo3S2Cl9]3-、および[Cr3S5(dmpe)3]が二等辺三角形クラスター骨格を示すのに対し、当研究の対象化合物は正三角形である。この理由はHOMOが非縮退準位であるのでヤーンテラー効果が起こり得ないためである。 以上は、遷移金属クラスター化合物の化学において、特筆すべき重要なものであり、博士(理学)取得を目的とする研究の成果として十分であると判断する。 なお、本論文第2章は、齋藤太郎氏、井本英夫氏、矢嶋摂子氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって合成、構造解析、分子軌道計算をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 |