学位論文要旨



No 110998
著者(漢字) 奈良,雅之
著者(英字)
著者(カナ) ナラ,マサユキ
標題(和) 「Ca2+結合タンパク質と金属イオンとの相互作用に関する振動分光学的研究」
標題(洋) Vibrational Spectroscopic Studeis on the Interactions between Ca2+-binding Proteins and Metal Ions
報告番号 110998
報告番号 甲10998
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2911号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 助教授 菅原,正雄
内容要旨

 細胞内のCa2+結合タンパク質は、細胞内Ca2+濃度変化に応じて機能を発現すると考えられる。カルモジュリン(分子量17000)、パルブアルブミン(分子量11500)などがこれらのタンパク質に属し、Ca2+結合部位とその周辺がヘリックス・ループ・ヘリックス構造(EFハンド構造)をとる。Ca2+結合タンパク質の構造と機能との相関を理解するためには、タンパク質と金属イオンとの相互作用を調べることが重要である。しかし、タンパク質側鎖と金属イオンとの相互作用を調べる手法が少ないため、溶液中での金属-配位子相互作用に関する情報はほとんど得られていないのが現状である。本論文ではフーリエ変換赤外分光法を用いてCa2+結合タンパク質のCa2+結合部位の側鎖COO-基と金属イオンとの相互作用を調べる方法を提出し、Ca2+結合タンパク質の金属結合による活性化機構について考察した。

 以下、その内容を記述する。

(I)Ca2+結合タンパク質と金属イオンとの相互作用。カヮカマス・パルブアルブミンにおける側鎖COO-基の配位様式を同定するマーカーバンド

 カワカマス・パルブアルブミン(pI=4.10)のMg2+結合型、Mn2+結合型、Ca2+結合型の(重)水溶液中での赤外吸収スペクトルを測定すると、それぞれバンド幅の広い同じようなスペクトルパターンを与えるので、それらから有用な情報を抽出することは難しい。そこで、それぞれのスペクトルに二次微分演算及びフーリエ・セルフ・デコンボルーション(以下「バンド分解スペクトル」と略す)を施した。COO-逆対称伸縮振動領域において、Mg2+結合型では1584cm-1に1本のバンド、Mn2+結合型では1584,1577cm-1に2本のバンド、Ca2+結合型では1582,1553cm-1に2本のバンドが現れ、スペクトルに違いが見いだされた。

 Ca2+結合型のパルブアルブミンの結晶構造解析はコイ(pI=4.25)等いくつかの生物種で報告されたが、Mn2+、Mg2+が結合した結晶構造が報告されたのはカワカマス(pI=4.10)だけである。X線結晶構造解析によると、この分子はCa2+結合部位を2個(CDサイト、EFサイト)持ち、結合部位はアミノ酸12残基からなる。配位子はCDサイトではAsp-51(1),Asp-53(3),Ser-55(側鎖のO)(5),Phe-57(主鎖のO)(7),Glu-59(9),Glu-62(12)、EFサイトではAsp-90(1),Asp-92(3),Asp-94(5),Lys-96(主鎖のO)(7),Glu-101(12),water-128である。12位のGlu-62,Glu-101側鎖COO-基は二座配位型でCa2+に結合し、それ以外の側鎖COO-基は一座配位型でCa2+に結合している。Mn2+結合型と、CDサイトにCa2+が結合したものの結晶構造では、12位のGlu側鎖COO-基がMn2+あるいはMg2+に対して一座配位型(あるいはpseudo-bridging型)で結合している。従って、スペクトルの違いは、結晶構造における金属-COO-基相互作用の違いを反映すると考えられる。

 COO-逆対称伸縮振動領域の解釈を行うためには、モデル化合物として酢酸塩との比較を行った。酢酸塩に関するCOO-逆対称伸縮振動とCOO-基-二価金属イオンの結合様式との相関は、経験的に次のようにまとめられる。(1)二座配位型は、フリー型のCOO-基のバンド(1578cm-1)に比べて低波数側にバンドを示す。(2)一座配位型はフリー型COO-のバンドより高波数側に現れる。(3)pseudo-bridging型(金属との結合に関係しない酸素原子に水などが水素結合した一座配位型)は、通常の一座配位型に比べて低波数側にバンドが現れる。

 パルブアルブミンの結晶構造と酢酸塩についての経験則を用いると、赤外スペクトルの結果は次のように解釈される。(1)Ca2+結合型で観測される1553cm-1のバノドは、Glu-62及びGlu-101側鎖の二座配位型COO-基に帰属される。(2)Mn2+結合状態では、1553cm-1にはバンドは観測されず、その代わりに1574cm-1にバンドが現れたので、このバンドがGlu-62,Glu-101によるものであり、一座配位型(あるいはpseudo-bridging型)を反映する。(3)Mg2+結合型でも1553cm-1のバンドは観測されないので、Glu-101側鎖COO-基は上で述べたとおりで一座配位型(あるいはpseudo-bridging型)であり、Glu-62側鎖COO-1基も二座配位型ではMg2+と結合しない。

(II)金属イオンと相互作用する酢酸イオンの分子軌道計算を用いた振動解析

 COO-基と金属イオンとの結合様式とCOO-伸縮振動との相関を理解するために、モデル系としての酢酸イオンについて非経験的分子軌道計算を併用した振動解析を行った。いくつかのレベルで計算を行ったところ、HF/6-31+G**レベルで、溶媒効果を考慮に入れたself-consistent reaction field法を適用することが有効であることが明らかになった。Ca2+が二座配位型で結合すると二つのC-Oの結合距離はほぼ等しくCOO-基の対称性が保たれるが、一座配位型で結合するとC-O結合距離に差が生じ対称性が崩れる。また、二座配位型のCOO-基はフリー型に比べて∠OCOが狭くなっている。それぞれのCOO-逆対称伸縮振動は、二座配位型はフリー型に比べて低波数側に、一座配位型はフリー型に比べて高波数側に現れる。また、COO-対称伸縮振動は、二座配位型はフリー型に比べて高波数側に、一座配位型はフリー型に比べて低波数側に現れる。pseudo-bridging型は一座配位型に比べて対称性が崩れず、COO-逆対称伸縮振動はフリー型の近傍に現れることがわかった。これらの計算結果は、COO-逆対称、対称伸縮振動バンドの波数値が、二つのC-Oの結合距離の差と∠OCOとの間に相関があることを示した。従って、(I)で述べた酢酸イオンとCa2+との相互作用に関する経験則を再現し、パルブアルブミンのCOO-逆対称伸縮振動領域の解釈を支持した。

(III)コイ・パルブアルブミン(pI=4.25)と金属イオンとの相互作用

 コイ(pI=4.25)パルブアルブミンについて、 Ca2+結合型、Mn2+結合型、Mg2+結合型の赤外吸収スペクトルを測定し、バンド分解スペクトルを調べると、カワカマスとほぼ同じスペクトルパターンを与えた。コイ(pI=4.25)パルブアルブミンのGlu-62,Glu-101はCa2+と二座配位型で結合することが結晶構造で報告されているので、Ca2+結合型で観測される1553cm-1のバンドをGlu-62及びGlu-101側鎖の二座配位型COO-基に帰属したことの妥当性を確認した。Sr2+結合型,Cd2+結合型,Yb3+結合型,Tb3+結合型についても、同様にバンド分解スペクトルを調べた。アミドI’及び逆対称伸縮振動領域に関して、Sr2+結合型、Cd2+結合型はCa2+結合型に似ているが、Yb3+結合型、Tb3+結合型では、アミドI’バンドの最大ピークの位量と1553cm-1のバンドが観測されない点で違いが見られ、ランタノイドイオンの効果がCa2+とは異なる可能性が示された。

(IV)カルモジュリンとMg2+,Ca2+,Sr2+,Cd2+との相互作用に関する研究

 M2+(=Mg2+,Ca2+,Sr2+,Cd2+)結合型及びフリー型のカルモジュリンの重水溶液中での赤外スペクトルを測定し、バンド分解スペクトルを調べた。Ca2+結合型とフリー型のスペクトルを比較すると、アミドI’領域の1660cm-1のバンド、COO-逆対称伸縮振動領域の1552cm-1のバンド、COO-対称伸縮振動領域の1425cm-1のバンドが、フリー型では現れず、Ca2+結合型でのみ観測されることがわかった。そこで1660,1552,1425cm-1のバンドに着目し、それぞれCa2+結合型(活性型)のマーカーバンドI,II,IIIとした。マーカーバンドIIは(I)で述べた1553cm-1のバンドに対応し、4つのCa2+結合部位の12位のGlu側鎖COO-基の二座配位型を反映していると考えられる。Sr2+結合型、Cd2+結合型のスペクトルはCa2+結合型に似ているが、Mg2+結合型はフリー型に似ている。すなわち、マーカーバンドIはSr2+結合型、Cd2+結型では1661,1663cm-1に現れるが、Mg2+結合型では現れない。マーカーバンドIIは、Sr2+結合型、Cd2+結型では1550,1552cm-1に現れたが、Mg2+結合型では観測されない。マーカーバンドIIIはすべての金属結合型で現れた。

 金属イオンと金属結合型の活性との相関はホスホジエステラーゼ活性測定等で報告され、Ca2+の代替イオンとしての効果は、Ca2+のイオン半径から離れるほど小さくなる。マーカーバンドI,IIはその傾向を定性的に示しており、金属結合による活性化と関連していることが示唆された。本研究で、Ca2+とMg2+のイオン半径の違いが12位のGlu側鎖のCOO-基との相互作用の仕方に反映されることが明らかになった。さらに代替イオンとしての効果が高いと考えられるSr2+,Cd2+でも、これらの結合型のCOO-逆対称伸縮振動領域のスペクトルに違いがあり、リガンドとの相互作用がCa2+の場合と異なる可能性が示された。

(V)ケイジドカルシウム化合物存在下での紫外レーザー光照射によるCa2+結合タンパク質の構造変化

 カルモジュリンのCa2+結合に伴う構造変化を直接調べるため、紫外光照射により解離定数が40倍になるCa2+キレート剤Nitr-5共存下で、光照射によりCa2+濃度を変化させたときのタンパク質のスペクトル変化を差スペクトル法を用いて調べた。タンパク質とCa2+とが実際に結合することを、二座配位型のマーカーとなる1550cm-1付近のバンド強度が増加することにより確認した。Ca2+フリー型からCa2+が結合するときのカルモジュリンのアミドIバンドの変化が観測され、この方法がCa2+との結合によるタンパク質分子の構造変化をとらえる有効な手段となりうることが示された。

審査要旨

 パルブアルブミンやカルモジュリンは同族のCa2+結合タンパク質で、金属結合部位とその周辺の構造が類似している。Ca2+の配位子にはグルタミン酸、アスパラギン酸のCOO-基が関与していることがX線結晶構造解析により明らかにされている。溶液中における金属-配位子相互作用に関する情報を得ることは、Ca2+結合タンパク質の構造と機能との相関を理解するうえで重要である。本論文ではCa2+結合タンパク質のCa2+結合部位の側鎖COO-基と金属イオンとの相互作用を調べる方法を提出し、タンパク質溶液中における側鎖COO-基配位構造について考察を行っている。さらに非経験的分子軌道計算を併用した振動解析により理論的考察も行っている。

 第1章では、Ca2+結合タンパク質の構造と機能に関する概説と、本論文の主旨が述べられている。本論文の主な研究手法となるフーリエ変換赤外分光法のタンパク質分子への適用について概説されている。

 第2章では、カワカマス・パルブアルブミン(pI=4.1)のMg2+,Mn2+,Ca2+結合型の赤外スペクトルを、二次微分演算、フーリエ・セルフ・デコンボルーションを用いて解析し、1553cm-1のCOO-逆対称伸縮振動バンドがグルタミン酸側鎖COO-基の二座配位型を示すバンドであることを明らかにしている。他のCOO-逆対称伸縮振動バンドの帰属についてもX線結晶構造に基づいて検討されている。

 第3章では、酢酸イオンと金属イオンとの相互作用について非経験的分子軌道計算を併用した振動解析が行われている。酢酸塩の配位構造とCOO-逆対称、対称伸縮振動バンドとの相関について、計算結果に基づいて議論がなされている。溶液中の酢酸イオン及び酢酸イオンと金属イオンが相互作用した系に対して、反作用場を考慮に入れたself-consistent reaction field法が有効であることが示されている。これらのバンドの波数値が、二つのG-O結合距離、∠OCOとの間に相関があることが導かれている。これらの計算結果は他章の赤外バンドの解釈を支持するものである。

 第4章では、カワカマス・パルブアルブミン(pI=5.0)と金属イオンとの相互作用について述べられている。COO-逆対称伸縮振動領域のスペクトルパターンはカワカマス・パルブアルブミン(pI=4.1)と似ているが、アミドI’領域において最強バンドのピークの波数値に違いが示され、三次元構造の違いがピークのずれを生じさせた可能性が述べられている。

 第5章では、コイ・パルブアルブミンと金属イオンとの相互作用について述べられている。Mg2+,Mn2+,Ca2+以外にSr2+,Cd2+,Yb3+,Tb3+の効果についても調べられている。アミドI’及びCOO-逆対称伸縮振動領域に関して、Sr2+,Cd2+結合型はCa2+結合型型に似ているが、Yb3+,Tb3+結合型はCa2+結合型とはスペクトルパターンが大きく異なることが示されている。

 第6章では、カルモジュリンと金属イオンとの相互作用についてイオン半径との相関で調べている。カルモジュリンのCa2+結合型と二価金属イオンフリー型の赤外スペクトルを比較することにより、1660cm-1のアミドI’バンド、1552cm-1のCOO-逆対称伸縮振動バンド、1425cm-1のCOO-対祢伸縮振動バンドがCa2+結合型のマーカーになることを明らかにしている。Mg2+,Sr2+,Cd2+がカルモジュリンに及ぼす効果はこれらのマーカーバンドを用いて議論されている。Mg2+結合型のスペクトルパターンはCa2+結合型とは異なり、Mg2+の効果とCa2+の効果とが異なることが示されている。Ca2+の代替イオンと考えられるSr2+,Cd2+も、それぞれの結合型のスペクトルパターンがCa2+結合型のものとは少し異なり、Sr2+,Cd2+の効果がCa2+の効果と一致していないことが示されている。

 第7章では、紫外レーザー光照射によりCa2+を放出するケイジドカルシウム化合物を用いてカルモジュリンのCa2+結合に伴う構造変化に関する直接的な情報が調べられている。Ca2+フリー状態から、Ca2+が結合に伴って構造変化が起こる様子が赤外差スペクトル法を用いることによる明確にされている。

 第8章では、本論文で得られた結果を総説している。

 以上のように、本研究ではカルシウム結合タンバク質の側鎖COO-基と金属イオンとの相互作用を調べる新しい方法論を開拓し、多くの新しい知見が得られている。なお、本論文の内容について共著者の協力のもとに3篇の論文が発表されているが、いずれについても本論文提出者の寄与によるものと判断される。従って、本論文の提出者である奈良雅之は東京大学博士(理学)の学位を受けるに十分な資格を有すると認める。

UTokyo Repositoryリンク