学位論文要旨



No 110999
著者(漢字) 林,直人
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ナオト
標題(和) チエノチオフェン誘導体をホストとする包接体結晶の構造と動的挙動
標題(洋) Structure and Dynamic Behavior of Clathrate Crystals Composed of Thienothiophene Derivatives as a Host Component
報告番号 110999
報告番号 甲10999
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2912号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,啓二
 東京大学 教授 岩村,秀
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 助教授 川島,隆幸
 東京大学 助教授 小林,昭子
内容要旨

 【序】 結晶相でのダイナミックな挙動を明らかにすることは、新しい物性の開拓にとって重要な研究課題である。私はその研究対象として、包接体結晶に注目し、一連の新しいホスト化合物を合成した。また、大きさ・形ともにほぼ同じでともに構造造異性体の間係にあるチエノアセン誘導体ホスト1、2を合成し、これらをホストとする包接体結晶におけるゲスト脱離、ゲスト交換、ホストーゲスト間反応などの動的挙動を明らかにした。構造類似の1と2は、結晶構造を支配する因子にも知見を期待して分子設計した。

 

 【包接挙動】 1と2は異なったホストーゲスト比の包措体結晶を与え(表1)、結晶構造は互いに異なっていた。これらの包接体結晶は側鎖のヒドロキシル基と中心部の硫黄原子が重なり型に近い配座をとる傾向が観測された。DMSOをゲストとした場合だけは、同型の結晶構造であった。これは、強い水素結合の存在が上記の静電的相互作用による優位配座の効果を上回ったためと推定した。DSCの測定により、同型結晶にもかかわらずゲストの脱離温度に20度程度の差があることを認めた。これは、一方の結晶に見いだされた構造的乱れのためと考えた。また、ベンゼン包接体はどちらも、結晶構造がパッキング力により支配される、いわゆる"true clathrate"であることがわかった。(1)3(Benzene)4では常温でゲストが徐々に脱離したのに対し、(2)(Benzene)では128℃まで保持されたのは、ゲスト分子が水素結合により2量化したホスト分子によってより堅固に囲まれているためと考えられる(図1)。

図表Table 1 Host-Guest Ratios of Inclusion Clathrates. / Figure 1 Crystal Structure of(2)(Benzene).

 【結晶変換反応】 ホスト1がゲストとしてエタノールを取り込んだ包接体結晶(1)(EtOH)2をプロパノール蒸気中にさらすと完全にゲストが交換され、1:PrOH=1:2の結晶へと変換された。交換の時間変化を追跡したところ、ゲスト交換は常に結晶表面で進行することが示唆された。粉末X線回折の結果、交換後の試料はプロパノールからの再結晶により得られた包接体結晶(1)(PrOH)2と同じであった。また、X線結晶構造解析により(1)(EtOH)2には、チャンネル型の包接空間が存在することがわかった(図2)。変換後の(1)(ProH)2にもチャンネル型の包接空間があり、固相一気相反応によるチャンネル型からチャンネル型への珍しい変換例であることが明らかになった(図2)。一方、この逆変換は完全には進行しなかった。(1)(PrOH)2をエタノール蒸気にさらしたところ、ゲストのプロパノールが40%程度エタノール置換された結晶が得られた。この粉末X線回折バターンが原料のものとほぼ一致したことから、この変換ではホスト分子の作る包接空間はほとんど変化せず、ゲストがほぼ半分置きかわっているだけであることがわかった(式1)。

図表Scheme 1 / Figure 2 Channel structures of clathrate crystals of(1)(EtOH)2(left)and (1)(PrOH)2)(right).

 他方、包接体結晶(2)2(EtOH)では溶媒蒸気によるゲストの交換・脱離はおこらなかった。こちらには、チャンネル型の包接空間は存在しなかったため、チャンネル型包接空間の存在が、ゲスト交換に効いていることが示唆された。また、どちらの包接体結晶もメタノール蒸気中にさらすとゲスト分子の脱離が起こり、1のみの結晶へと変換された。これらの挙動の違いは、チャンネル空間の大きさと蒸気分子の大きさが関係した現象と解釈した。

 【包接体結晶の光ソルボリシス反応】 エタノールをゲストとする包接体結晶(1)(EtOH)2、(2)2(EtOH)を結晶のまま数時間光照射すると、側鎖のヒドロキシル基が1つあるいは2つエトキシル基に置換された化合物が高收率で得られた(式2)。この反応は、他のアルコールをゲストとした包接体結晶でも同様に進行した。

Scheme 2

 X線結晶構造解析の結果、(2)2(EtOH)の結晶内でジエーテルが生成するためには、5.06Å離れた炭素-酸素原子間で結合ができる必要があることがわかった。この距離は結晶内でトポケミカル支配で反応がおこる距離としてはやや大きすぎる値である(図3)。さらに、光反応には誘導期が見いだされたことから(図4)、反応は格子欠陥から拡散的に進行するものと推定した。砕いた試料では反応速度が著しく加速されることも、これを支持する。

図表Figure 3 C・・O(Et)distance in (2)2(EtOH). / Figure 4 Time dependence of photosolvolysis of(1)(EtOH)2.

 包接体結晶(1)(EtOH)2の光照射後の赤外、固体13C NMR(CP-MAS)スペクトル、および粉末X線回折パターンは、原料とほとんど変化しなかった。また、光照射後の試料をメタノール蒸気中にさらしたりところ、エトキシ体は全く得られずに、メトキシ体のみが得られた。これらの実験結果から、C-O(Et)結合は光照射後の結晶内では生成しておらず、溶解あるいは加熱により生成するものと考えた。光照射後の試料にESRシグナルが観測されたことと、光照射後の試料をスピントラップブ剤と混合したところ、エトキシ体の収率は大きく減少したことから、光照射後の結晶にはラジカルカが安定に存在していて、溶媒との接触により電子移動などを経て置換体が生成するものと考えた。

審査要旨

 本論文は5章からなり、第1章は構造異性体である2種類のホスト化合物の包接挙動と結晶構造について、第2章では同型の結晶を与える場合の結晶構造と分子間力について、第3章においてゲスト交換に伴うチャンネル型包接空間の変換について、そして、第4章では包接体結晶におけるホストーゲスト間の光置換反応について、最後に、第5章で、蛍光性分子間錯体の結晶構造と蛍光性について述べている。

 異種の構成分子から成る分子性結晶の化学は、これまで、あまり注目されていたとは言えない。本論文の研究内容は、このような複数成分の分子性結晶の構造、反応および性質について、多くの興味ある現象を見い出し、新たな領域を開拓したものという印象を強く持つ。それらの現象が、いわゆる従来の定説的な考え方では説明しきれないところに本論文の魅力があり、むしろ今後さらに展開すべき興味深い問題点を掘り起こしたという意味で、インパクト度の大きい論文であると評価する。

 特に、第4章で述べられた固相における光置換反応の発見はこれまでに例がなく、ホストーゲスト包接体結晶の特長が生かされた興味深い光反応である。本論文で調べられた例以外にも、このタイプの固相反応はさらに多く発見され得るもので、反応機構的にも、新しい固相反応の例として、先駆的な研究となるものと思われる。すなわち、結晶中でラジカル種を安定に発生させ、さらに結晶中での電子移動過程によりイオン種への変換過程を明らかにしている。これは、溶液中での電子移動を含む早い反応を、結晶中に移すことにより各ステップを観測可能にさせたことに相当し、溶液での光反応機構の研究にたいしても寄与は大きいものと考えられる。

 また、第5章で述べられるている気体ゲストの交換反応、すなわち、ホストのチャンネル型包接空間がゲストの交換により別のタイプのチャンネル型に変化する現象は、いわゆるセレンデピティーを見逃さず、緻密な観察力で実験を行った成果と思われ、固体と気体との接点におけるミクロ現象について新たな視点を提供したものである。すなわち、固体が気体分子に溶けるということ、あるいは、チャンネル型空間からの分子の押し出し、といったミクロの描像が綿密な実験により明らかにされている。

 各章に述べられた実験結果はそれぞれに重要な結論を与えているが、全編を通して、特に実験結果にたいする結晶工学的考察が優れている。

 また、実験量も豊富で、特にX級結晶解析は20種近くの包接体結晶について実行しており、信頼性あるデータを提供し、考察・議論に確かな根拠を与えている。

 以上、あらゆる観点から見て、本論文は博士(理学)の学位を授与するに値するものと認める。

 なお、すでに、本論文の内容の一部は、7編の学術雑誌に投稿され発表されているが、いずれも、論文提出者が主体となって解析、検討をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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