学位論文要旨



No 111002
著者(漢字) 安松,久登
著者(英字)
著者(カナ) ヤスマツ,ヒサト
標題(和) 振動・回転・電子励起されたクラスターおよび分子の化学反応ダイナミクス
標題(洋) Reaction Dynamics of Clusters and Molecules in Vibrational,Rotational and Electronic Excited States
報告番号 111002
報告番号 甲11002
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2915号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 岡崎,廉治
 東京大学 教授 太田,俊明
内容要旨 1緒言

 振動、回転、電子励起状態にある分子は、(1)解離、(2)イオン化、(3)振動緩和など、その励起状態に特徴的な反応を示す。例えば、三原子分子が二原子分子と単原子とに解離する反応では、励起状態の電子構造や幾何構造の小さな変化が、解離断片の内部エネルギー分布に著しい変化をもたらす。一方、これら反応分子のまわりに第三体が存在する系、すなわちクラスターは、有限多体系であるため、多数の分子が協奏的に反応に関与する(多体反応の誘起)。本研究では、準安定励起原子衝突、光吸収、固体表面衝突によりクラスターや分子を振動・回転・電子的に励起し、反応生成物の内部エネルギー分布や質量分布を測定することにより、これら励起状態にあるクラスターおよび分子の反応過程を調べた。三原子分子の反応系として、シアン化アルカリ分子の解離励起反応、また、クラスターの反応として、(CO2)nの固体表面衝突解離、およびC60分子の光吸収とその後続緩和過程を取り上げて研究した。

2シアン化アルカリ分子の電子励起状態ダイナミクス2.1

 シアン化アルカリ分子(MCN,N=Na,K,Rb)は、電子基底状態において、M+・CN-なる電子構造およびT型の幾何構造を持つ。一方、その電子励起状態には、M+・(CN-)*なる励起イオン対状態と、M+(CN-)*に相関する反発状態とが複雑に混在していると考えられる。これら2種類の電子励起状態間の遷移は、CN-の超励起状態からM+への電子移動として捉らえることができる。すなわち、MCNは超励起状態の反応を調べるためのモデル系である。これら反応の結果生成した解離断片は、その励起状態に特徴的な振動回転分布を持つと考えられる。これらの点に着目し、希ガス準安定励起原子(Rg(3P2,0),Rg=Ar,Kr)との衝突によるMCNの解離励起によって生成するCN(B2+)の振動回転分布を精密に測定し、MCNの電子励起状態における挙動を解明した。さらに、MCNの吸収スペクトルを真空紫外領域で測定することにより、MCNの電子構造を明かにした。

2.2準安定励起原子衝突法によるシアン化アルカリ分子の解離励起反応2.2.1実験

 流動残光法を用いた。新たに設計した高温炉を用いてMCN蒸気を生成し、マイクロ波放電により生成したRg(3P2,0)と衝突させた。反応領域からのCN(B2+-X2+)発光スペクトルを測定し、シミュレーション解析によりCN(B2+)生成物の振動回転分布を精密に決定した。

2.2.2MCN+Ar(3P2,0)

 CN(B2+)の振動分布を図1に示す。結果をまとめると、(1)CN(B2+)生成物は、二つの振動領域(v’=0-3もしくはv’=11-19)に分布する、(2)CN(B2+,v’=11-19)生成物の振動分布は、Mに著しく依存する。

図1:NaCN(○)、KCN(●)、RbCN(△)とAr(3P2,0)との反応により生成したCN(B2+,v’)の振動分布P(v’)。

 MCNの解離反応に対して分子動力学計算を行なった結果、CN(B2+,v’=0-3)は、M(2S)+CN(B2+)解離極限へ透熱的に相関する反発状態上での直接解離により生成することがわかった。

 一方、CN-の超励起状態((CN-)*)には、CN核間距離の著しく長いものが存在することから、高振動励起したCN(B2+,v’=11-19)生成物は、M++(CN-)*解離極限へ透熱的に相関する励起イオン対状態を経由した前期解離により生成すると結論した。さらに、CN(B2+,v’=11-19)の振動分布のMに対する依存性は、Mのイオン化エネルギー(IE)の違いに起因すると考えられる。すなわち、IEは、励起イオン対状態のCN核間距離、および励起イオン対状態から最終状態への遷移確率に対して著しい影響をおよぼす。多重曲面交差モデルを用いた結果、これらM依存性を定性的に説明することができた。

2.2.3MCN+Kr(3P2,0)

 CN(B2+)生成物の振動分布を図2(a)に示す。KCN、RbCNから生成したCN(B2+)の振動分布は、v’=1に極大を持つ反転分布を形成する。また、NaCNから生成したCN(B2+,v’=1)の振動分布も、通常の解離励起反応生成物と比較して著しく大きい。CN(B2+)生成物の回転分布を図2(b)に示す。回転分布もN’=60付近に極大を持つ反転分布を形成する。MCN+Ar(3P2,0)反応から類推すると、これらCN(B2+)も励起イオン対状態を経由する前期解離により生成している考えられる。すなわち、CN(B2+)生成物の振動・回転が共に励起されていることから、これら前期解離状態は、CN核間距離が長く、直線構造をしていると考えられる。

図2:(a)NaCN(○)、KCN()、RbCN(△)とKr(3P2,0)との反応により生成したCN(B2+,v’,N’)の振動分布P(v’)、および、(b)回転分布R(N’)。
2.3シアン化アルカリ分子の真空紫外光吸収スペクトル2.3.1実験

 新たに設計した高温吸収セルにNaCN、KCN、RbCN結晶を充填し、1000Kに加熱してMCN蒸気を得た。その吸収セルにシンクロトロン軌道放射光を分光して入射し、透過光強度を測定することにより、MCNの吸収スペクトルを得た。

2.3.2結果と考察

 図3に、MCNの吸収スペクトルを示す。

図3:(a)NaCN、(b)KCN、(c)RbCN分子の吸収スペクトル。矢印は吸収ピークの位置を表わす。(a)、(b)の縦軸は絶対吸収断面積、(c)の縦軸は光学密度を表わす。

 各スペクトルには、4-5個のバンド[A]-[E]が観測された。励起エネルギーおよび電子構造に関する考察から、観測した吸収バンドは次に示す解離極限へ透熱的に相関する電子励起状態への遷移として帰属した。バンド[A]:M(2S)+CN(X2+)、バンド[B]:M(2S)+CN(A2II)、バンド[C]:M(2P)+CN(X2+)、バンド[D]:M++CN-(3+)、バンド[E]:M(2S)+CN(B2+)。以上より、MCNの電子励起状態には、反発状態および励起イオン対状態が混在することがわかった。励起イオン対状態(バンド[D])の励起エネルギーは、Mに著しく依存する。CN(B2+,v’=11-19)の生成過程がMに著しく依存することと合わせて考えると、これら結果は、CN(B2+,v’=11-19)の生成過程に励起イオン対状態が関与していることを示している。

3クラスターと固体表面との衝突過程3.1

 I2分子とMgOやAl2O3表面との衝突反応では、主にI2の回転励起によりI2分子が解離する。これに対し、分子の周囲に第三体を溶媒和させたクラスターと固体表面との衝突反応の場合、クラスター全体が極度に押しつぶされるため、溶媒和の構造がクラスターの反応過程に著しい影響をおよぼすと考えられる。(CO2)nは、特徴的な溶媒和構造を持つクラスターイオンである。すなわち、(1)n=1-4の領域ではCO2の分子軸の周囲に溶媒和する、(2)n=5-15の領域ではの分子軸上に溶媒和する、(3)n=16で第一溶媒和殼が完成する。これらの点に着目し、(CO2)nとSi表面との衝突反応を取り上げて、中心イオン()の解離に対する溶媒効果を調べた。

3.2実験

 クラスターイオン-固体表面衝突実験装置を新たに設計した。図4に実験装置の概略図を示す。ヨウ素蒸気とCO2との混合気体を真空中に噴出し、その直下に電子を導入することにより、(CO2)nを生成した。飛行時間法を用いてこれら(CO2)nのクラスターサイズ(n)を選別し、静電場により(CO2)nの並進エネルギーを制御して、Si表面に衝突させた。散乱した負イオンを飛行時間法により質量選別して同定した。

図4:クラスターイオン-固体表面衝突実験装置の概略図。
3.3結果

 散乱した負イオンは、I-(CO2)mおよび(CO2)m(m=0-2)であった。(CO2)nと固体表面との衝突過程に対する溶媒効果は、が解離する分岐比

 

 および(CO2)(l=1,2)が生成する分岐比

 

 に顕著に現れると考えられる。

 ここで、[(CO2)m]は、散乱した(CO2)mのイオン強度を表わす。図5に、あたりの衝突エネルギー(Ecol)が20および50 eVのときの、fdisの親クラスターサイズ(n)に対する依存性を示す。Ecol=20eVでは、fdisはnにほとんど依存しない。これに対して、Ecol=50eVでは、(1)n=1-4の領域では、nの増加とともにfdisは急激に増化する、(2)n=5-15の領域では、fdisはほぼ一定である、(3)n=16-20の領域では、nの増加とともにfdisは減少する。

 一方、は、Ecolの小さな時に、その値が大きい。図6に、のnに対する依存性を示す。l=1,2いずれの場合にも、はnに対して単調に増加する。

図6:(a)I-(CO2)(Ecol=15eV)、および、(b)(CO2)(Ecol=5eV)が生成す分岐比,l=1,2)の親クラスターサイズ(n)に対する依存性。
3.4考察

 二原子分子の表面衝突解離との類似性から、は振動回転励起を通じて解離していると結論した。Ecol=50eVのときは、CO2溶媒分子はの解離を促進もしくは抑制する効果を持ち、の解離過程は溶媒和構造に著しく敏感である(図5参照)。n=1-4の領域でfdisがnとともに増加していることから、表面衝突の際に、の分子軸の周囲に溶媒和したCO2分子が結合間に割り込むことにより、の解離が促進されていると考えられる。CO2分子の溶媒効果を理論的に調べるため、独自に開発したプログラムを用いて(CO2)とSi表面との衝突に対して分子動力学計算を行なった。その結果、表面衝突の瞬間にとCO2との距離が著しく減少していることがわかった。n=5-15の領域でfdisがほぼ一定であることから、の分子軸上に溶媒和したCO2分子はの解離にほとんど影響をおよぼさないと結論できる。n=16-20の領域でfdisがnとともに減少していることから、溶媒和殻が閉じると、解離したI-とIが効率よく再結合すると考えられる。一方、Ecol=20eVにおいてCO2分子は解離にほとんど影響しない。これは、CO2との衝突速度が小さいためであると考えられる。この場合、表面に衝突したクラスターの有効温度が小さいために、(l=1,2)とCO2とが再結合して、(CO2)を生成する効率が高くなると考えられる。これら(CO2)生成を半定量的に考察するため、表面上のと(CO2)に対して平衡モデルを適用した結果、実験結果とよい一致を示した。

図5:の解離分岐比(fdis)の親クラスターサイズ(n)に対する依存性。(〇):あたりの衝突エネルギー(Ecol)が20eV、(◆):Ecol=50eV
4C60分子の超励起状態吸収スペクトルとイオン化過程4.1

 C60分子の光イオン化スペクトルから、7.8eV近傍に超励起状態の存在が示唆されている。これら超励起状態では、自動イオン化が速やかに起こると期待される。一方、C60分子の振動状態密度は非常に高いため、分子内振動緩和の速度が著しく速いと考えられる。すなわち、イオン化と分子内振動緩和が競争する。以上の点に着目し、C60分子の吸収スペクトルを3.5-11.5eVの領域で測定し、励起状態の光イオン化過程を解明した。実験は、2.3シアン化アルカリ分子の吸収スペクトルと同様の手法を用いて行った。

4.2結果と考察

 図7(a)に、C60分子の吸収スペクトルを示す。イオン化エネルギー(7.61eV)よりも高エネルギー側に4つの吸収ピーク(7.88,8.15,8.30,〜9.2eV)が存在する。図7(b)に、C60分子の相対的光イオン化量子収率を示す。イオン化量子収率は、イオン化エネルギーより緩やかに増加し、8eV付近に微細構造を持つ。

 C60分子の光電子スペクトルとの対比から、7.88,8.15,〜9.2eVの吸収ピークは、それぞれ第二、第三、第四イオン化状態に収束する超励起Rydberg状態への遷移に帰属した。8.30eVの吸収ピークは、8.15eVの電子状態に対する五員環振動の振動励起状態への遷移に帰属した。イオン化エネルギー近傍ではイオン化の効率が小さい。(図7(b)参照)これは、C60は振動状態密度が著しく高いため、光電子とC60の格子振動との相互作用により光電子のエネルギーが分子内振動に速やかに緩和し、核イオンと効率よく再結合するためであると考えられる。一方、超励起Rydberg状態ではイオン化効率が大きい。これは、Rydberg電子が大きな軌道半径を持ち、格子との相互作用が小さいためであると考えられる。

図7:(a)C60分子の吸収スペクトル。矢印は吸収ピークの位置を表わす。(b)C60分子の相対的光イオン化量子収率。
審査要旨

 本研究は、非常に高い励起状態(振動・回転・電子励起状態)にあるクラスターおよび分子の化学反応過程(電子移動過程、解離過程、イオン化過程、振動緩和過程、エネルギー移動・散逸過程など)を解明することを目的として、準安定励起原子衝突法、光吸収法、固体表面衝突法などを用いることにより、これら反応過程を動力学的観点に基づいて解明した。

 本論文は8章からなり、第1章は本学位論文の序論、第2章から第5章はシアン化アルカリ分子(MCN)の電子励起状態における解離過程、第6章はクラスター負イオン、(CO2)n、と固体表面との衝突過程、第7章はC60分子の光吸収・光イオン化・振動緩和過程、第8章は結論および将来展望について述べている。

 特に、第2章では、アルゴン準安定励起原子、Ar(3P2,0)、との衝突によるNaCN、KCNの解離励起反応について述べている。生成したCN(B2+)の振動分布は、2つの振動領域(v’=0-3および11-19)に分れていることを発見した。CN(B2+,v’=0-3)は、M(2S)+CN(B2+)に相関する反発状態上での直接解離により、また、CN(B2+,v’=11-19)は、著しくCN核間距離の長い励起イオン対状態、M+・(CN-)*、を経由する前期解離により生成すると結論した。

 第3章では、Ar(3P2,0)とRbCNとの衝突により生成したCN(B2+)の振動分布と第2章の結果とを比較することにより、アルカリ金属に対する直接解離および前期解離過程の依存性を議論した。直接解離過程に対しては分子動力学計算を、また、前期解離過程に対しては状態交差モデルを用いて、アルカリ金属の役割を定量的に考察した。アルカリ金属のイオン化エネルギーは(CN-)*のポテンシャルエネルギーおよびM+・(CN-)*の励起エネルギーに対して大きな寄与を及ぼすことから、アルカリ金属のイオン化エネルギーにより、CN(B2+)生成物の振動分布を制御できることを明らかにした。

 第4章では、Kr(3P2,0)とMCN(M=Na,K,Rb)との衝突によるCN(B2+)生成過程について述べている。励起エネルギーを変えることにより、MCNの解離励起反応は著しく変化し、CN(B2+)生成物は、v’=1に極大を持つ逆転振動分布を示した。状態交差モデルを用いて、実験結果を定量的に考察した。

 第5章では、4.1-11.4eVの領域におけるMCN(M=Na,K,Rb)の吸収スペクトルについて述べている。M*+CN*に相関する反発状態、および励起イオン対状態、M+・(CN-)*、に対応する吸収ピークを発見し、これら励起状態が直接解離や前期解離に寄与していることを示した。

 第6章では、(CO2)nとSi表面との衝突過程について述べている。(CO2)nの表面衝突により誘起されるとCO2とのクラスター内衝突により、の解離が促進(CO2分子のくさび効果)もしくは抑制(CO2分子のかご効果)されることを発見した。これらCO2分子の動的溶媒効果の大きさは、クラスターイオン中のに対するCO2の位置に大きく依存することから、クラスターの幾何構造により解離過程を制御できることを示唆した。分子動力学計算を行ない、CO2分子のくさび効果を理論的に検証した。一方、(CO2)nの解離に伴うI-(CO2)の生成に着目し、固体表面との衝突過程を議論した。衝突に際して、(CO2)nが準平衡になっていると考えることにより結果を解釈した。固体表面上にクラスターが拡散する領域は、クラスターサイズによらず、衝突エネルギーのみに依存することを示唆した。

 第7章では、C60分子の吸収スペクトルについて述べている。光吸収絶対断面積を3.5-11.4eVの領域で測定し、超励起Rydberg状態に対応する吸収ピークを発見した。超励起Rydberg状態に励起した場合にはC60のイオン化効率が大きいのに対し、連続状態ではイオン化効率が小さく、振動緩和の速度が大きいことを発見した。

 なお、本論文第2章は近藤保、鈴木薫、第3章および第4章は近藤保、第5章は近藤保、鈴木薫、正畠宏祐、田林清彦、第6章は近藤保、永田敬、寺嵜亨、佃達哉、菅井俊樹、第7章は近藤保、正畠宏祐、田林清彦、北川宏諸氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究したものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 以上より、本論文の提出者である安松久登は、東京大学博士(理学)の学位を受けるに十分な資格を持つものと認める。

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