審査要旨 | | キノイド構造は,電荷輸送を行う有機化合物中において重要な役割を果たしていると言われている。本論文は,赤外,ラマンスペクトルの測定と非経験的分子軌道計算に基づく基準振動解析とによって,基本キノイド分子とキノイドを含む導電性電荷移動錯体の,分子構造と電子状態に関する知見を得たものである。基本キノイドとしては,p-ベンゾキノン(p-BQ)およびp-ベンゾキノジメタン(p-BQM)が対象とされており,それらの基準振動解析から得られた知見をもとに,2,5-位の置換されたジシアノキノンジイミン(以下単にDCNQIと呼ぶことにする)の導電性電荷移動錯体に関して研究を行っている。論文は全6章により構成されている。 第1章では,研究の目的と位置づけがまとめられており,キノイドの振動スペクトルを詳細に把握することの意義と,振動スペクトルを用いた導電性電荷移動錯体の研究方法とが述べられている。 第2章では,p-BQMの赤外,ラマンスペクトルの実測について述べられている。試料作成装置とマトリックス単離法に関する技術的な事項についての記述がなされている。p-BQMの完全な赤外,ラマンスペクトルはこれまでに得られていなかったが,試料作成法の工夫により,その測定に成功している。 第3章では,p-BQとp-BQMに対する,非経験的分子軌道計算に基づく基準振動計算が述べられている。基準振動計算に用いられたプログラムは,ほぼすべて論文提出者によって自作されたものであり,計算方法に関しては論文中に詳細な記述が与えられている。p-BQとベンゼンとの間の振動数と振動パターンの相関関係が提示されている。p-BQの振動モードは,p-BQMおよびDCNQIの振動モードの記述を,以下行う際の基準として用いられている。p-BQMでは二重結合と単結合の違いがp-BQの場合より小さいことを,結合長,振動数,力の定数などから示し,p-BQMがp-BQにくらべてベンゼノイドに近いことを明らかにしている。 第4章では,DCNQIの導電性電荷移動錯体の振動スペクトルについて述べられている。本論文では,2,5-位が臭素(DBr-DCNQI)あるいはメチル基(DMe-DCNQI)で置換されたDCNQIを対象としている。室温では,これらのDCNQIの様々な金属(Li,Cu,Baなど)との錯体の赤外吸収スペクトルから,数本の赤外吸収帯についてその振動数()と電荷移動度()との間に直線的な関係が成り立つことを明らかにしている。DBr-およびDMe-どちらの場合についても,それらのCu錯体は混合原子価状態=-0.67eにあることが示されており,X線回折による実験結果とも一致する。つぎに,室温から低温(25K)までの赤外吸収スペクトルの温度依存性が述べられている。室温で金属的なLi(DBr-DCNQI)2およびCu(DBr-DCNQI)2では,低温で金属-絶縁体(M-I)転移により赤外吸収帯が分裂することを見いだしている。この吸収帯の分裂は,電荷密度波(CDW)の凍結によってDCNQI分子上の電荷分布が不均一になったためであると解釈している。この解釈に従うと,電荷密度の濃淡の幅()が室温で得られた-関係から近似的に見積もることができることとなり,Li(DBr-DCNQI)2およびCu(DBr-DCNQI)2についてそれぞれ=0.08eおよび0.40eと算出されている。さらに,分裂した吸収帯の本数から凍結したCDWの形態に関する情報が得られることが示されている。 第5章では,DCNQI分子およびアニオンと,両者の中間状態とに対する非経験的分子軌道法を用いた基準振動解析が述べられている。DMe-DCNQI分子がアニオンになるときのキノイド骨格の結合長や振動数の変化は,*軌道にイオン化電子が入るという電子配置の変化が原因であることが示されている。また,第4章で実験的に確認された-直線関係が成り立つためには,イオン化に伴い大きなmode rearrangementが起きないことが必要であることが指摘されている。 第6章では,非経験的分子軌道法に基づく基準振動計算の現状と,導電性電荷移動錯体の研究において振動分光法を用いることの利点とについて,論文提出者の見解が述べられている。 本論文の内容について共著者の協力のもとに3篇の論文が印刷公表されているが,いずれも本論文提出者の寄与が大きいと判断される。したがって,本論文の提出者である山北佳宏は,東京大学博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。 |