学位論文要旨



No 111003
著者(漢字) 山北,佳宏
著者(英字)
著者(カナ) ヤマキタ,ヨシヒロ
標題(和) キノイドとその電荷移動錯体の構造と物性に関する研究
標題(洋) Studies on the Molecular and Electronic Structures of Quinoid Molecules and Their Charge-Transfer Complexes
報告番号 111003
報告番号 甲11003
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2916号
研究科 理学系研究科
専攻 化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田隅,三生
 東京大学 教授 木下,實
 東京大学 教授 近藤,保
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 講師 田島,裕之
内容要旨

 有機化合物における電子輸送に関する研究は古くからあり、また現在も盛んに行われている。有機化合物中での電子輸送にはイオン種が関係し、イオン種の分子構造は中性分子のそれとは異なってる。したがって、分子構造の変化に鋭敏な振動分光法は有機化合物中の電子輸送を研究する際に有用であると考えられる。

 有機化合物中の電子輸送に対し、キノイド構造は密接な関わりを持っていることが知られている。キノイドの電子輸送における役割を振動スペクトルを用いて研究するためには、キノイドの振動スペクトルの特徴を把握しておく必要がある。しかし、キノイドの振動スペクトルは詳細に理解されているとは言えない。そこで、本論文は、基本キノイド分子の基準振動解析とキノイドを含む導電性電荷移動錯体に関する振動分光法による研究を行った。

p-ベンゾキノジメタンの振動スペクトル

 p-ベンゾキノジメタン(p-BQM,H2C=C6H4=CH2)はp-ベンゾキノン(p-BQ,O=C6H4=O)とならび最小のキノイド分子である。しかし、p-BQMは非常に重合しやすいため、これまで信頼性の高い振動スペクトルは観測されていなかった。そこで、p-BQMを低温アルゴンマトリックス中に単離し、遠赤外・赤外・ラマンスペクトルの測定を行った。p-BQMは[2,2]-パラシクロファンを真空中で気相熱分解することにより合成した。その結果、従来のデータに較べて信頼性の高い赤外吸収スペクトルを測定でき、p-BQMのラマンスペクトルをはじめて測定することができた。実測スペクトルに基づいてキノイドの振動スペクトルの特徴を考察したところ、1605および1557cm-1の赤外バンド、1621および1536cm-1のラマンバンドがキノイド構造に特徴的な二重結合伸縮モードであることなどが明らかとなった。

基本キノイドの振動解析

 p-BQMの基準振動解析はこれまでに全く行われていないので、代表的なキノイド分子であるp-BQとあわせて基準振動解析を行った。これらは最小のキノイド分子なので、キノイドの振動スペクトルを理解する際の基礎になるものと考えられる。基準振動計算において、構造パラメーターおよび力の定数の算出には非経験的分子軌道法を用いた。電子相関の影響を取り入れるため、Hartree-Fock解に2次のMoller-Plesset摂動法を適用した。分子軌道計算から得られた直交座標系における力の定数は、振動の自由度に等しい分子内対称座標系に変換し補正を加えた。計算プログラムは、分子軌道計算では既存のものを、基準振動計算では自作のものを用いた。計算された振動数は実測値を良好に再現しており、p-BQMについて実測されたほぼすべての赤外およびラマンバンドの帰属を行うことができた。キノイド骨格の基準振動パターンはp-BQとp-BQMとでほぼ共通であり、キノイドの共役形式の特徴がはっきりと反映されている。まず、p-BQとベンゼンとで振動数および振動パターンの比較を行い、それぞれの分子内振動の相関を調べた。次に、p-BQとp-BQMとで振動数および力の定数の比較を行った。p-BQとp-BQMとで共通な基準振動の振動数差は、その基準振動に最も近い分子内対称座標の力の定数の差によりすべて解釈できた。構造パラメーター、力の定数、振動数はすべてp-BQMがp-BQよりベンゼノイドに近いことを示している。

置換ジシアノベンゾキノンジイミン(DCNQI)の電荷移動錯体の振動スペクトル

 これまでの電荷移動錯体の振動スペクトルによる研究では、電荷移動度に伴うバンドの振動数の変化と、電子と分子内振動との相互作用の二点に焦点が置かれてきた。そこで、これらの観点から2,5-位の置換されたジシアノベンゾキノンジイミン(DCNQI,NC-N=C6H4=N-CN)の電荷移動錯体について、振動スペクトルによる研究を行った。置換DCNQIは様々な金属と2:1錯体をつくる。本研究でとり上げたのは、2,5-位がどちらも臭素で置換されたもの(DBr-DCNQIと略す)とメチル基で置換されたもの(DMe-DCNQI)の金属錯体である。

 電荷移動度に対する振動数変化を調べるため、室温においてDBr-DCNQIおよびDMe-DCNQIとそれらのリチウム(Li)、銅(Cu)、バリウム(Ba)錯体の赤外吸収スペクトルを測定した。これらの金属錯体は電荷移動度()が異なり、それぞれDCNQI1分子あたり=-0.5,-0.67,-1.0eである(eは電気素量)。次に、室温で金属的な錯体である、Li(DBr-DCNQI)2,Cu(DBr-DCNQI)2,Cu(DMe-DCNQI)2)の赤外吸収スペクトルを、室温から23Kまでの範囲で測定した。測定の際には熱平衡に細心の注意を払った。室温で測定されたDBr-DCNQIおよびDMe-DCNQIとそれらの金属錯体の赤外吸収スペクトルには、電荷移動度に対して直線的な波数シフトが観測された。どちらのCu錯体でも赤外吸収帯の波数位置は=-0.67eに相当するものであった。これはCu錯体が混合原子価状態を示すものである。

 低温における導電性電荷移動錯体の赤外吸収スペクトルには、次のような変化が観測された。低温で絶縁体に転移するLi(DBr-DCNQI)2錯体の場合、赤外吸収帯は2本に分裂した。この吸収帯の分裂は、電気伝導を担うDBr-DCNQIカラム内に電荷密度波(CDW)が凍結し、異なる電荷密度を持つ2つのDBr-DCNQIサイトができたためであると結論された。電荷移動度はDCNQI分子上の電荷密度に相当するから、室温で観測された吸収帯の振動数()とと直線関係を利用すれば、赤外吸収帯の分裂輻から2種類のサイトの電荷密度の差を見積もることができる。Li(DBr-DCNQI)2では2つのサイトの電荷密度の差は0.08eと算出される。これは電気伝導を起こす電子全体の16%の振幅(peak-to-peak)をもつCDWが凍結していることに対応する。

 低温で絶縁体に転移するCu(DBr-DCNQI)2では、赤外吸収帯は3本に分裂し、電子-分子振動相互作用(EMVカップリング)によるバンドが出現した。吸収帯の分裂は3倍周期のCDWがDBr-DCNQIカラム内に凍結したためであると説明される。CDWの振幅を吸収帯の分裂幅から見積もると、0.40eと大きな値が算出された。Cu錯体ではLi錯体の場合と異なり、DCNQIカラムに沿ったCuのカチオンサイトにCu+とCu2+が3倍周期で並ぶので、CDWの振幅が大きくなるに至ったと解釈できる。低温での赤外吸収の変化は転移温度(155K)付近から徐々に起こっている。これは温度の低下とともにCDWが徐々に凍結してゆくことに対応している。金属-絶縁体転移を示さないことが知られているCu(DMe-DCNQI)2では、吸収帯の分裂EMVバンドの出現も観測されなかった。

置換DCNQIにおける分子内振動と電荷移動度との関係

 置換DCNQIの分子内振動に関しては、これまでに中性およびラジカルアニオンについて、経験的に決定した力の定数によって基準振動解析が行われているのみである。そこで非経験的分子軌道計算に基づいた基準振動解析を行い、振動スペクトルの再帰属を行った。中性とアニオンの中間の電荷移動度を持つ場合についても、内挿により求めた構造パラメーターと力の定数とを用いて基準振動計算を行った。

 DMe-DCNQIおよびDBr-DCNQIのラジカルアニオンのラマンスペクトル、中性DMe-DCNQIの4種の同位体種の赤外およびラマンスペクトルの測定を行った。力の定数を補正するためのスケール因子は、主としてDMe-DCNQIとその同位体種の実測値に対して決定した。

 中性DMe-DCNQIのキノイド骨格の面内振動パターンを、p-BQを標準として解析した。中性分子がアニオンになるときの面内振動の力の定数には、多重結合伸縮では小さくなり単結合伸縮では大きくなるというように、結合交替がなくなる方向への構造変化が反映されている。これは、中性分子がアニオンになるとき、*軌道に新たに電子が入るという電子構造の変化によって説明される。振動数と電荷移動度との間に直線的な関係が成り立つためには、振動モードに大きな変化(mode rearrangement)が起きないことが必要条件であることが示唆された。

審査要旨

 キノイド構造は,電荷輸送を行う有機化合物中において重要な役割を果たしていると言われている。本論文は,赤外,ラマンスペクトルの測定と非経験的分子軌道計算に基づく基準振動解析とによって,基本キノイド分子とキノイドを含む導電性電荷移動錯体の,分子構造と電子状態に関する知見を得たものである。基本キノイドとしては,p-ベンゾキノン(p-BQ)およびp-ベンゾキノジメタン(p-BQM)が対象とされており,それらの基準振動解析から得られた知見をもとに,2,5-位の置換されたジシアノキノンジイミン(以下単にDCNQIと呼ぶことにする)の導電性電荷移動錯体に関して研究を行っている。論文は全6章により構成されている。

 第1章では,研究の目的と位置づけがまとめられており,キノイドの振動スペクトルを詳細に把握することの意義と,振動スペクトルを用いた導電性電荷移動錯体の研究方法とが述べられている。

 第2章では,p-BQMの赤外,ラマンスペクトルの実測について述べられている。試料作成装置とマトリックス単離法に関する技術的な事項についての記述がなされている。p-BQMの完全な赤外,ラマンスペクトルはこれまでに得られていなかったが,試料作成法の工夫により,その測定に成功している。

 第3章では,p-BQとp-BQMに対する,非経験的分子軌道計算に基づく基準振動計算が述べられている。基準振動計算に用いられたプログラムは,ほぼすべて論文提出者によって自作されたものであり,計算方法に関しては論文中に詳細な記述が与えられている。p-BQとベンゼンとの間の振動数と振動パターンの相関関係が提示されている。p-BQの振動モードは,p-BQMおよびDCNQIの振動モードの記述を,以下行う際の基準として用いられている。p-BQMでは二重結合と単結合の違いがp-BQの場合より小さいことを,結合長,振動数,力の定数などから示し,p-BQMがp-BQにくらべてベンゼノイドに近いことを明らかにしている。

 第4章では,DCNQIの導電性電荷移動錯体の振動スペクトルについて述べられている。本論文では,2,5-位が臭素(DBr-DCNQI)あるいはメチル基(DMe-DCNQI)で置換されたDCNQIを対象としている。室温では,これらのDCNQIの様々な金属(Li,Cu,Baなど)との錯体の赤外吸収スペクトルから,数本の赤外吸収帯についてその振動数()と電荷移動度()との間に直線的な関係が成り立つことを明らかにしている。DBr-およびDMe-どちらの場合についても,それらのCu錯体は混合原子価状態=-0.67eにあることが示されており,X線回折による実験結果とも一致する。つぎに,室温から低温(25K)までの赤外吸収スペクトルの温度依存性が述べられている。室温で金属的なLi(DBr-DCNQI)2およびCu(DBr-DCNQI)2では,低温で金属-絶縁体(M-I)転移により赤外吸収帯が分裂することを見いだしている。この吸収帯の分裂は,電荷密度波(CDW)の凍結によってDCNQI分子上の電荷分布が不均一になったためであると解釈している。この解釈に従うと,電荷密度の濃淡の幅()が室温で得られた-関係から近似的に見積もることができることとなり,Li(DBr-DCNQI)2およびCu(DBr-DCNQI)2についてそれぞれ=0.08eおよび0.40eと算出されている。さらに,分裂した吸収帯の本数から凍結したCDWの形態に関する情報が得られることが示されている。

 第5章では,DCNQI分子およびアニオンと,両者の中間状態とに対する非経験的分子軌道法を用いた基準振動解析が述べられている。DMe-DCNQI分子がアニオンになるときのキノイド骨格の結合長や振動数の変化は,*軌道にイオン化電子が入るという電子配置の変化が原因であることが示されている。また,第4章で実験的に確認された-直線関係が成り立つためには,イオン化に伴い大きなmode rearrangementが起きないことが必要であることが指摘されている。

 第6章では,非経験的分子軌道法に基づく基準振動計算の現状と,導電性電荷移動錯体の研究において振動分光法を用いることの利点とについて,論文提出者の見解が述べられている。

 本論文の内容について共著者の協力のもとに3篇の論文が印刷公表されているが,いずれも本論文提出者の寄与が大きいと判断される。したがって,本論文の提出者である山北佳宏は,東京大学博士(理学)の学位を受ける十分な資格を有すると認める。

UTokyo Repositoryリンク