学位論文要旨



No 111010
著者(漢字) 川上,穣
著者(英字)
著者(カナ) カワカミ,ミノル
標題(和) 線虫C.elegansの成長速度と神経機能に関わるflr遺伝子
標題(洋)
報告番号 111010
報告番号 甲11010
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2923号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西郷,薫
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 助教授 室伏,擴
 東京大学 講師 飯野,雄一
 国立遺伝学研究所 教授 桂,勲
内容要旨 <序>

 線虫C.elegansは細胞系譜及び全神経回路構造が完全に記述されており、個体の表現型を細胞レベルで解析できる優れた系である。桂らは野生型C.elegansが10mM NaF(フッ化ナトリウム)存在下で死ぬことを発見し一群のNaF耐性変異体を単離した。NaFはin vitroではある種のホスファターゼの阻害剤で、三量体Gタンパク質を活性化状態に固定する等の作用を持つ。これらの標的分子は情報伝達関連が多く、一連の変異体の解析で新しい情報伝達系を解明できる可能性がある。得られた5遺伝子(flr-1〜5:fluoride resistant)の変異株は全て劣性で、表現型により以下の2つに分類された。

 (1)クラス1変異株(flr-1,3,4):NaFに強耐性で成長が遅い。

 (2)クラス2変異株(flr-2,5):NaFに弱耐性で成長速度は正常。

 興味深いことに両クラス間の二重変異は、NaFに強耐性で成長速度は正常という折衷型表現型を示す(Katsura et al.1994)。最近になってflr遺伝子群が神経系で働くことを示唆するデータが得られた。

 (1)flr遺伝子の変異の大部分は、ある種の神経系変異と二重変異にすると耐性幼虫形成(神経系の支配を受けている)を促進する(Katsura et al.1994,桂ら未発表)。これは耐性幼虫形成を制御する神経回路が並列系で構成されており、この部分の機能破壊には複数の変異が必要なためと解釈できる。またこれは、flr遺伝子が神経系で機能することを示唆する。(2)線虫の脱糞は約45秒周期の規則的な行動で、生物時計のモデルとして注目されている。最近クラス1のflr変異体は全てこの周期が短いことが判明した(J.H.Thomas私信)。このことから、flr遺伝子が、生物時計として働く神経系において機能することが推測される。(3)flr変異体の一部は走化性が異常である(浦崎ら未発表)。これはflr遺伝子が走化性に関与する神経経路で働くことを示す。

 このように様々な機能を持つflr遺伝子群の分子的実体を明らかにするため、flr-3及びflr-1遺伝子のクローニングを行った。

<結果>1.flr-3遺伝子のクローニングと同定

 flr-3遺伝子変異株(トランスポゾンTc1挿入変異株)のゲノムDNAに対してTc1をプローブとするサザン解析を行い、変異株に特有なバンドを単離してTc1挿入断片を得た。このTc1近傍のDNA断片(プローブ1)を用いたサザン解析により、復帰突然変異株ではこのTc1がぬけていることを確認した。プローブ1を用いてYACフィルター(線虫ゲノムDNAのほとんどをカバーするYACクローン群をプロットしたフィルター)を解析し、このDNA断片が遺伝学的に決定したflr-3遺伝子座と一致する位置にあることを確認した。プローブ1とハイブリダイズするコスミドAH12は、flr-3変異体に導入するとその表現型を抑圧した。AH12はflr-3遺伝子とその発現に必要な領域を全て含むと思われる。プローブ1を用いてC.elegans cDNAライブラリーをスクリーニングして陽性クローンを得た。さらに5’RACE法を用いて、ノザン解析の結果と合う長さの全長cDNAを得た。このcDNAは589アミノ酸からなる、多くのプロテインキナーゼと相同性を示すタンパク質をコードしていた。キナーゼコンセンサス配列(Hanks et al.1988)はIIからXIまでは比較的明瞭だが(図1)、IのATP結合部位に関しては保存されていない。こうした例はいくつかのキナーゼやキナーゼ類似分子にみられる。

図1:FLR-3のキナーゼ相同性領域と他のキナーゼとの比較。S.C.は出芽酵母の、H.S.はヒトのキナーゼであることを示す。Boxはキナーゼにおいて特によく保存されている残基。
2.flr-3遺伝子の発現の部位と時期同定の試み

 FLR-3のC末端15a.a.に対する抗体を作成した。この抗体は野生型にあるがflr-3変異体にはない見かけの分子量約55kDaのタンパク質を認識した。現在この抗体とlacZ融合遺伝子の両方を用いて発現の部位と時期を調べている。

3.flr-1遺伝子のクローニングと同定

 flr-1についてもflr-3と同様な実験で、変異に対応するTc1挿入DNA断片が得られている(天野ら未発表)。これを用いてC.elegans cDNAライブラリーをスクリーニングし、得られた陽性クローンのうち最長のものの塩基配列を決定した。この部分長cDNAには291アミノ酸をコードするORFがあり、このアミノ酸配列は線虫のDEG-1及びMEC-4と弱い相同性を示した(図2)。DEG-1及びMEC-4は、ラットアミロリド感受性Na+チャンネル(rENaC)とともにデジェネリンファミリーに属するイオンチャンネルで2つの膜貫通部位(MSDI,II)とcysteine-rich regionを持ち、MSDIIはファミリー内で特に相同性が高い。FLR-1はDEG-1と最も似ていてMSDIIを含む領域は特に相同性が高かった。

図2:FLR-1と他のデジェネリンとの比較。Boxはファミリー内で特によく保存されている残基。
<考察>

 以上よりFLR-3はキナーゼまたはキナーゼ類似分子、FLR-1はイオンチャンネルらしいことが判明した。これらは他のflr遺伝子産物と協同して新しいシグナル伝達系を構成すると考えられ、rENaCの制御系(cAMP系)と類似の系の可能性もある。rENaCの開口を抑制するANP(atrial natriuretic peptide)のレセプターは膜貫通型で細胞内にキナーゼ様ドメインとグアニル酸シクラーゼドメインをもち、そのキナーゼ様ドメインはATP結合部位が保存されていない。また他の膜貫通型グアニル酸シクラーゼはキナーゼ様ドメインのみを持ち、グアニル酸シクラーゼドメインは保存されていない。これはATP結合部位を欠くキナーゼ様ドメインがcGMP代謝系に果たす重要な役割を示唆する。cGMPはcAMPを減少させ、rENaCを負に制御する。FLR-3もcGMP代謝系に関与する分子かもしれない。

 ところでクラス1のflr遺伝子は生物時計に関与するが、多くの生物種において生物時計のペースメーカーにcAMPシグナル伝達系が関わることが知られている。また最近単離された匂い分子受容体はGタンパク質と共役し、アデニル酸シクラーゼを介してcAMP濃度を上げ、cAMP依存性陽イオンチャンネルを開いて活動電位を発生させる。rENaCの制御系もcAMP系であるので、flr遺伝子群がcAMPシグナル伝達系を構成すると仮定すれば、生物時計に関与する機能や、走化性やdauer形成の異常を一貫して説明できるかもしれない。今後こうした可能性を検証するためには、他のflr遺伝子のクローニングが必須であると思われる。

Hanks et al.Science 241:42-52 1988Katsura et al.Genetics 136:145-154 1994
審査要旨

 本論文には、以下のような背景がある。桂らは、野生型の線虫C.elegansが10mM NaF存在下で死ぬことを発見し、一群のフッ素イオン耐性変異体(以下ではflr変異体という)を分離した(Katsura et al.:Genetics 136,145-154(1994))。NaFは、in vitroでは、ある種のホスファターゼを阻害し、三量体Gタンパク質を活性化するなど、シグナル伝達系と作用する。それで、これらの変異株の解析により、新しいシグナル伝達系を解明し生物個体での機能を知ることができる可能性がある。得られた5遺伝子(flr-1〜flr-5)の変異はすべて劣性で、次の2つに分類された。

 (1)クラス1変異(flr-1,3,4):NaFに強耐性で成長が遅い。

 (2)クラス2変異(flr-2,5):NaFに弱耐性で成長速度は正常。

 なお、両クラス間の二重変異は、興味深いことにNaFに強耐性で成長速度は正常という折衷型表現型を示す。

 また、flr遺伝子群が神経系で働くことを示唆する、以下のデータがある。

 (1)flr変異の大部分は、ある種の神経系変異と二重変異にすると耐性幼虫形成(神経系の支配を受ける)を促進する(Katsura et al.:前出、および桂ら未発表)。これは耐性幼虫形成を制御する神経回路が並列系で構成されており、この機能破壊には複数の変異が必要なためと解釈できる。

 (2)線虫の脱糞は約45秒周期の規則的な行動で、神経系の生物時計のモデルとして注目されている。クラス1のflr変異体は全てこの周期が短い(J.H.Thomasら、私信)。

 (3)flr変異体の一部は走化性が異常である(浦崎ら未発表)。

 本論文の提出者は、このように様々な機能を持つflr遺伝子群の分子的実体を明らかにするため、以下のように、(1)flr-3遺伝子およびcDNAのクローニング、(2)flr-3遺伝子の発現、(3)flr-1 cDNAのクローニングの研究を行った。

1.flr-3遺伝子およびcDNAのクローニング

 flr-3のトランスポゾンTc1挿入変異株のゲノムDNAより、Tc1をプローブとして、変異株に特有で復帰変異株にはないTc1挿入断片を得た。次に、このTc1に隣接するDNA断片(以下、プローブ1と呼ぶ)を用いてC.elegans cDNAライブラリーをスクリーニングし、陽性クローンを得た。さらに5’RACE法を用いて、ノザン解析の結果と合う長さの全長cDNAを得た。このcDNAは、525(または589)アミノ酸からなり、多くのプロテインキナーゼと相同性を示すタンパク質をコードしていた。キナーゼコンセンサス配列(Hanks et al.:Science 241,42-52(1988))のIIからXIまでは比較的明瞭だが、IのATP結合部位に関しては保存されていなかった。こうした例はいくつかのキナーゼやキナーゼ類似分子にみられる。

2.flr-3遺伝子の発現

 前述のプローブ1とハイブリダイズするコスミド・クローンの1つをflr-3変異体に導入すると、導入体の成長速度が正常になり、このクローンの中にflr-3遺伝子のコード領域および調節領域が含まれていることがわかった。また、FLR-3のC末端15アミノ酸残基に対する抗体を作成した。この抗体は野生型線虫にあるがflr-3変異体にはない見かけの分子量約55kDaのタンパク質を認識した。さらに、クローン化したflr-3遺伝子を大腸菌lacZ遺伝子とつないだ後に線虫に導入し、-ガラクトシダーゼ活性によりflr-3遺伝子の発現を見る系を作成した。上述の抗体とlacZ融合遺伝子を用いて、今後、発現の部位と時期を調べる予定である。

3.flr-1 cDNAのクローニング

 flr-1は、変異に対応するDNA断片が既に得られていた(天野ら未発表)。これを用いてC.elegans cDNAライブラリーをスクリーニングし、最長の陽性クローンの塩基配列を決定した。これは部分長cDNAで、293アミノ酸をコードするORFがあり、線虫のDEG-1、MEC-4、ラット・アミロリド感受性Na+チャンネル(いずれもイオンチャンネル)と弱い相同性を示した。相同性は、機能的に重要な膜貫通部位で、特に高かった。

 これらの実験結果より、論文提出者は、FLR-3がキナーゼまたはキナーゼ類似分子であり、FLR-1はイオンチャンネルと推定できることを示した。これらの分子は他のflr遺伝子産物とともに新しいシグナル伝達系を構成すると考えられる。これらの研究は、抽象的にしか議論できなかったflr遺伝子機能に具体的な物質的基盤を築き、今後の研究に展望を与えた。また、さらに脱糞周期・走化性・耐性幼虫形成制御など、多様な神経機能の機構解明の基礎となる可能性もあり、博士論文として十分の内容をもつと判断された。

 なお、本論文は、石原健、桂勲両氏との共同研究であるが、実際の実験のほとんどは論文提出者が行ったものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。

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