本論文には、以下のような背景がある。桂らは、野生型の線虫C.elegansが10mM NaF存在下で死ぬことを発見し、一群のフッ素イオン耐性変異体(以下ではflr変異体という)を分離した(Katsura et al.:Genetics 136,145-154(1994))。NaFは、in vitroでは、ある種のホスファターゼを阻害し、三量体Gタンパク質を活性化するなど、シグナル伝達系と作用する。それで、これらの変異株の解析により、新しいシグナル伝達系を解明し生物個体での機能を知ることができる可能性がある。得られた5遺伝子(flr-1〜flr-5)の変異はすべて劣性で、次の2つに分類された。 (1)クラス1変異(flr-1,3,4):NaFに強耐性で成長が遅い。 (2)クラス2変異(flr-2,5):NaFに弱耐性で成長速度は正常。 なお、両クラス間の二重変異は、興味深いことにNaFに強耐性で成長速度は正常という折衷型表現型を示す。 また、flr遺伝子群が神経系で働くことを示唆する、以下のデータがある。 (1)flr変異の大部分は、ある種の神経系変異と二重変異にすると耐性幼虫形成(神経系の支配を受ける)を促進する(Katsura et al.:前出、および桂ら未発表)。これは耐性幼虫形成を制御する神経回路が並列系で構成されており、この機能破壊には複数の変異が必要なためと解釈できる。 (2)線虫の脱糞は約45秒周期の規則的な行動で、神経系の生物時計のモデルとして注目されている。クラス1のflr変異体は全てこの周期が短い(J.H.Thomasら、私信)。 (3)flr変異体の一部は走化性が異常である(浦崎ら未発表)。 本論文の提出者は、このように様々な機能を持つflr遺伝子群の分子的実体を明らかにするため、以下のように、(1)flr-3遺伝子およびcDNAのクローニング、(2)flr-3遺伝子の発現、(3)flr-1 cDNAのクローニングの研究を行った。 1.flr-3遺伝子およびcDNAのクローニング flr-3のトランスポゾンTc1挿入変異株のゲノムDNAより、Tc1をプローブとして、変異株に特有で復帰変異株にはないTc1挿入断片を得た。次に、このTc1に隣接するDNA断片(以下、プローブ1と呼ぶ)を用いてC.elegans cDNAライブラリーをスクリーニングし、陽性クローンを得た。さらに5’RACE法を用いて、ノザン解析の結果と合う長さの全長cDNAを得た。このcDNAは、525(または589)アミノ酸からなり、多くのプロテインキナーゼと相同性を示すタンパク質をコードしていた。キナーゼコンセンサス配列(Hanks et al.:Science 241,42-52(1988))のIIからXIまでは比較的明瞭だが、IのATP結合部位に関しては保存されていなかった。こうした例はいくつかのキナーゼやキナーゼ類似分子にみられる。 2.flr-3遺伝子の発現 前述のプローブ1とハイブリダイズするコスミド・クローンの1つをflr-3変異体に導入すると、導入体の成長速度が正常になり、このクローンの中にflr-3遺伝子のコード領域および調節領域が含まれていることがわかった。また、FLR-3のC末端15アミノ酸残基に対する抗体を作成した。この抗体は野生型線虫にあるがflr-3変異体にはない見かけの分子量約55kDaのタンパク質を認識した。さらに、クローン化したflr-3遺伝子を大腸菌lacZ遺伝子とつないだ後に線虫に導入し、-ガラクトシダーゼ活性によりflr-3遺伝子の発現を見る系を作成した。上述の抗体とlacZ融合遺伝子を用いて、今後、発現の部位と時期を調べる予定である。 3.flr-1 cDNAのクローニング flr-1は、変異に対応するDNA断片が既に得られていた(天野ら未発表)。これを用いてC.elegans cDNAライブラリーをスクリーニングし、最長の陽性クローンの塩基配列を決定した。これは部分長cDNAで、293アミノ酸をコードするORFがあり、線虫のDEG-1、MEC-4、ラット・アミロリド感受性Na+チャンネル(いずれもイオンチャンネル)と弱い相同性を示した。相同性は、機能的に重要な膜貫通部位で、特に高かった。 これらの実験結果より、論文提出者は、FLR-3がキナーゼまたはキナーゼ類似分子であり、FLR-1はイオンチャンネルと推定できることを示した。これらの分子は他のflr遺伝子産物とともに新しいシグナル伝達系を構成すると考えられる。これらの研究は、抽象的にしか議論できなかったflr遺伝子機能に具体的な物質的基盤を築き、今後の研究に展望を与えた。また、さらに脱糞周期・走化性・耐性幼虫形成制御など、多様な神経機能の機構解明の基礎となる可能性もあり、博士論文として十分の内容をもつと判断された。 なお、本論文は、石原健、桂勲両氏との共同研究であるが、実際の実験のほとんどは論文提出者が行ったものであり、論文提出者の寄与は十分であると判断する。 |