学位論文要旨



No 111014
著者(漢字) 北爪,しのぶ
著者(英字)
著者(カナ) キタツメ,シノブ
標題(和) 魚卵ポリシアル酸構造の生合成機構及びウニ卵新規ポリシアル酸構造
標題(洋) Polysialic Acids:Biosynthesis in Trout Egg and Novel Structures in Sea Urchin Egg
報告番号 111014
報告番号 甲11014
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2927号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 井上,康男
 東京大学 教授 馬渕,一誠
 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 助教授 榎森,康文
 東京大学 講師 武藤,裕
内容要旨

 ポリシアル酸構造は、細胞表面に存在する複合糖質を修飾するユニークな構造である。元来、脳髄膜炎を惹起する病原性大腸菌等一部のバクテリアにのみ存在が知られている構造であったが、1978年に井上・岩崎によりニジマス卵糖タンパク質に見出されて以来、哺乳動物における胎児型神経細胞接着分子(N-CAM)をはじめ、ヒトを含む哺乳動物に広く分布することが知られるようになった。ポリシアル酸構造は、発現が時間的空間的に限定されていることから、癌胎児性抗原として注目されている。N-CAM分子中のポリシアル酸構造は、N-CAM同士のホモフィリックな接着に対して負の調節機能を持つことが示されている。また、ニューロブラストーマ、ミエローマ等の癌細胞においては、ポリシアリル化された N-CAMの発現が癌細胞の転移能及び浸潤能力を高めていることが示唆されている。近年、ポリシアル酸構造の存在報告例が増加してきたにもかかわらず、動物におけるポリシアル酸構造の生合成、および発現調節のメカニズムは、ほとんど未解明のままである。私は本研究において、先ずニジマス卵表層胞局在ポリシアル酸含有糖タンパク質(PSGP)の生合成のメカニズムを明らかにした。また、ニジマス卵ポリシアル酸含有糖タンパク質の生理機能の研究においては、1)研究室でのニジマスの飼育が困難であること、2)卵黄が多量に存在するために受精過程及び初期胚の観察が容易でない、等の技術上の問題点を抱えている。本研究は、受精及び胚の初期発生の実験系として古くから用いられて来たウニ卵においてポリシアル酸含有糖タンパク質を検索し、受精及び初期胚の発生過程におけるポリシアル酸構造の生理機能を調べることを目標とした。そして、ウニ卵及びゼリー画分中に初めてポリシアル酸含有糖タンパク質を見出し、それらが今までに例を見ない結合様式によるポリシアル酸構造を持つことを明らかにした。本論文は、以下の四章から構成されている。

 第一章:本章では、ニジマス卵成熟過程(6ヶ月間)におけるPSGP分子中の2,6-及び2,8-結合シアル酸残基の発現パターンの解析、並びにこれらのシアル酸残基の形成に関与するシアリルトランスフェラーゼ活性の同定、及び時期的な発現パターンの詳細な解析結果が述べられている。この研究によって得られた知見は、以下の通りである。

 1)排卵の4〜6ヶ月前のニジマス卵巣中にはSia2→8-Sia2→6-構造を持つシアル酸含量の少ないPSGP分子、即ちPSGP(low Sia)のみが発現されていることが分かった。排卵3ヶ月前からシアル酸含量の高おPSGP分子、即ちPSGP(high Sia)が新たに出現することがわかった。PSGP(high Sia)は、シアル酸の重合度が2から20までのポリシアル酸構造を持つことが示された。PSGP(high Sia)分子中のシアル酸含量は、卵成熟が進行するに従って増加していることも明らかになった。

 2)PSGP分子中のポリシアル酸構造の形成には、3種類のシアリルトランスフェラーゼ活性、即ち(i)アシアロPSGP分子のGalNAc残基の6位にシアル酸を転移する-N-アセチル-ガラクトサミニド:2,6-シアリルトランスフェラーゼ活性、(ii)2,6-結合のシアル酸残基に2,8-結合のシアル酸1残基を転移する2,6-シアロシド:2,8-シアリルトランスフェラーゼ活性(initiase)、及び(iii)a2,8-結合のポリシアル酸構造の形成に関与する2,8-ポリシアリルトランスフェラーゼ活性(polymerase)、が必要であることが初めて明らかにされた(図1参照)。2,8-ポリシアリルトランスフェラーゼ活性は、他の2種類のシアリルトランスフェラーゼ活性が卵成熟過程において常に発現しているのに対し、PSGP(high Sia)が出現する排卵3ヶ月前から出現、増加傾向をたどることが明らかにされた。1)、2)の結果から、PSGP(low Sia)は、PSGP(high Sia)の前駆体であることが考えられる。

図1

 3)興味深いことに卵巣においてこれらのシアリルトランスフェラーゼ活性は、通常の糖転移酵素とは異なり、ゴルジ体由来の分泌顆粒である未成熟な表層顆粒中の可溶性酵素として見出された。このことは、PSGP分子のポリシアリル化が、ゴルジ体ではなく表層顆粒中で起きていることを示していると思われる。

 第2章:ウニ卵ゼリー画分において初めてポリシアル酸含有糖タンパク質を見出し、しかもそのポリシアル酸構造が今までに例を見ない結合様式であったことを述べている。ウニ未受精卵は、硫酸化フコースに富んだ糖質、及びシアル酸に富んだ糖タンパク質から成るゼリー層で覆われている。糖タンパク質で報告されていた非常に高いシアル酸含量は、ポリシアル酸構造の存在を予想させるものであった。私はH.pulcherrimusの粗ゼリー画分の陰イオン交換クロマトグラフィーを行って、シアル酸に富んだ画分を集めた。この画分にフェノール処理を施し、遠心操作後の水層を透析して濃縮し、ゲル濾過クロマトグラフィーを行うことにより、シアル酸に富んだ糖タンパク質(以後polySia-gp(H)と略記)を精製した。polySia-gp(H)中のシアル酸残基の化学的解析、及び1H-NMRスペクトルによる解析の結果、その構造がN-グリコリルノイラミン酸(Neu5Gc)のグリコリル基中の水酸基を介したケトシド重合体、即ち(→5-Oglycolyl-Neu5Gc2→)n構造であることを明らかにした(図2参照)。この結合様式によるポリシアル酸構造は先例がない。このポリシアル酸構造は、シアル酸の重合度が4から40以上にわたって分布しており平均重合度は約25であった。ポリシアル酸構造はThr残基を介してコアポリペプチドに結合しているO-型糖鎖に結合していることが示された。polySia-gp(H)は、分子量が約180Kであり、N-型糖鎖は存在せず、約17本のポリシアリル化O-型糖鎖が結合していた。また、別種のウニ、即ちS.purpuratusより精製したpolySia-gp(S)は、分子量が約250Kであり約25本のポリシアリル化されたO-型糖鎖が結合していることが明らかにされた。

図2

 第3章:次にウニ卵細胞におけるポリシアル酸構造の検索を行った。H.pulcherrimusの未受精卵より細胞膜及び卵膜から構成されている表層画分を調製し、プロナーゼによる徹底消化を行った。プロナーゼ消化により可溶化された画分の陰イオン交換クロマトグラフィーを行い、シアル酸を含む主要画分を集めた。次にこの画分のクロロホルム-メタノール抽出を行って有機層と水層の界面に現れた変性タンパク質を除去した。この操作後の水層を透析した後、疎水クロマトグラフィーを行うことでシアル酸に富んだ糖ペプチド画分(以後ESP-Sia画分と略記)を精製した。ESP-Sia画分においても、前章で述べた新規な結合様式を持つオリゴ/ポリシアル酸構造の存在が見出された。ESP-Sia画分におけるオリゴ/ポリシアル酸構造は、ゼリー層から得られたpolySia-gpが重合度の高いポリシアル酸構造を有するのとは異なり、重合度は1から10程度と低く、平均重合度は約3であった。最も特徴的な点は、ESP-Sia画分のオリゴ/ポリシアル酸構造の一部は、硫酸基で非還元末端のシアル酸残基がキャップされている点である。このようなポリシアル酸構造、即ち(SO4-)-Neu5Gc2→(→5-Oglycolyl-Neu5Gc2→)m構造は、(→5-Oglycolyl-Neu5Gc2→)n 構造とは異なり、Clostridium perfringensのシアリダーゼに抵抗性を示した。ESP-Sia画分の穏和酸水解物より得た(SO4-)-Neu5Gcの1H-NMRスペクトルの結果は、Neu5Gcの9位の水酸基が硫酸化されていることを強く示唆している。Neu5Gc9SO4構造は今までに報告されていない新規な構造である。ESP-Sia画分に存在するポリシアル酸構造は、Thr残基を介して結合しているO-型糖鎖に含まれることが示された。(→5-Oglycolyl-Neu5Gc2→)n構造の非還元末端のNeu5Gc残基の硫酸化は、ポリシアル酸構造の伸長のターミネーションシグナルとして機能しているのかもしれない。

 第4章:新規なシアル酸結合即ち2→5-Oglycolyl-結合Neu5Gcダイマーの酵素的及び非酵素的加水分解速度を解析し、より普遍的なシアル酸結合即ち2→8-結合Neu5Gcダイマーの場合と比較した結果を述べている。pH<3.8では、Neu5Gc2→5-OglycolylNeu5Gcの加水分解速度はNeu5Gc2→8-Neu5Gcの場合より大きいことがわかった。これとは対照的に、pH>3.8ではNeu5Gc2→5-OglycolylNeu5GcはNeu5Gc2→8-Neu5Gcよりもはるかに安定であることが明らかにされた。このことは、2→5-ケトシド結合の方が分子内酸触媒の寄与を受けやすいことを示していると思われる。Neu5Gc2→5-OglycolylNeu5GcはNeu5Gc2→8-Neu5Gcよりも、Arthrobacter ureafaciens、C.perfringens及びVibrio choleraeのシアリダーゼにより加水分解されにくいことが分かった。特にA.ureafaciensシアリダーゼに関しては、Neu5Gc2→5-OglycolylNeu5Gcをほとんど加水分解しないことが分かった。

審査要旨

 ポリシアル酸構造は、主として細胞表面の複合糖質分子中に存在するユニークな糖鎖構造である。1978年に井上・岩崎により動物起源ポリシアル酸構造の最初の存在例がニジマス卵糖タンパク質に発見されて以来、ポリシアル酸鎖をもつ糖タンパク質は、哺乳動物などの脳に見出された胎児型神経細胞接着分子(N-CAM)をはじめ、現在では、細菌から昆虫・脊索動物に至る広範な生物種に発現されていることが示されている。ポリシアル酸構造の存在報告例が近時増大しているにも拘らず、動物におけるポリシアル酸鎖の生合成および発現調節機構の研究は全く未解明の状態であった。

 本研究は、ニジマス卵表層胞局在ポリシアル酸含有糖タンパク質(PSGP)におけるポリシアル酸鎖の生合成の分子機構の解明を目指して開始した研究である。実際、本研究によりポリシアル酸鎖の合成に関与する複数のシアル酸転移酵素の同定をはじめ、それら酵素の性質等、動物起源のポリシアル酸構造の形成機構を明らかにすることに初めて成功した。一方、ポリシアル酸含有糖タンパク質の生理機能の研究を行なう際、ニジマスを研究動物として使用するには技術上の難点がある。本研究は、受精及び胚の初期発生の実験系として優れているウニ卵においてポリシアル酸含有糖タンパク質を検索し、受精及び初期胚の発生過程におけるポリシアル酸構造の生理機能を調べることを目標とし新たに開始した研究をも含んでいる。その結果、ウニ卵及びゼリー画分中に初めてポリシアル酸含有糖タンパク質の存在を見出し、構造解析の結果それらの分子が今までに例を見ない残基間結合様式をしたポリシアル酸構造を有することを明らかにしている。これにより、複合糖質の構成成分としてポリシアル酸構造の生物界における分布が更に拡大されただけではなく、新規な構造の発見によりポリシアル酸構造の多様性とそれらの構造形成に与るポリシアリルトランスフェラーぜの多様性も示され、糖鎖生物学なる新たな学問・研究分野をはじめ種々の生物化学研究分野においてポリシアル酸含有複合糖質はますます脚光を浴びている。本論文は、以下の四章から構成されている。

 第1章は、ニジマス卵成熟過程でのPSGP分子の発現パターンの解析結果が述べられている。次いで、PSGP分子中のポリシアル酸鎖の形成に関与する、3種類の異なるシアル酸転移酵素活性の存在とそれらの必要性を明らかにしている。更に興味深いことに、これらの酵素活性が、通常の糖転移酵素とは異なりゴルジ体由来の分泌顆粒である未成熟な表層顆粒中に可溶性酵素として存在することを見出し述べている。

 ウニ未受精卵を覆うゼリー層には、シアル酸含量の高い糖タンパク質の存在が従来知られていた。この糖タンパク質には、ポリシアル酸構造の存在が推測されたので、第2章ではウニ未受精卵のゼリー画分からこの分子(polySia-gp(H))を精製し、シアル酸残基の存在形態の化学的・生化学的方法ならびに1H-NMRスペクトルの測定による解析を行った結果、その構造がN-グリコリルノイラミン酸のグリコリル基中の水酸基を介した重合体、即ち(→5-Oglycolyl-Neu5Gc2→)n構造であることを解明している。

 第3章では ウニ未受精卵から卵表層画分を調製し、プロナーぜ消化により可溶化された画分からシアル酸に富んだ糖ペプチド(ESP-Sia)画分を精製した。そして、ESP-Sia画分についても、前述の新規な結合様式を持つオリゴ/ポリシアル酸構造の存在を見出している。最も特徴的な点は、オリゴ/ポリシアル酸鎖の非還元末端のシアル酸残基の大部分が硫酸化されていることであり、これがポリシアル酸構造伸長のターミネーションシグナルとして機能している可能性を示摘している。

 第4章はシアル酸ダイマーNeu5Gc2→5-Oglycolyl-Neu5Gcを調製し酵素的及び非酵素的加水分解速度を測定・解析し、従来一般的に知られているNeu5Gc2→8Neu5Gcの場合と比較した今後の研究にとって貴重な興味ある結果を述べている。

 審査委員会は、本研究の発想・方法・結果ならびに結果に基づく討論が十分妥当なものであると判断した。また、本研究はその発端と研究の計画・実施においてオリジナリティーが高く、研究の成果は国際的な基準において極めて質の高いものと評価した。

 以上の評価に基づき、本論文は本学博士(理学)学位論文として合格に相当するものであることを審査委員全員が認めた。尚、本研究は、指導教官井上康男教授及び北島健助手等との共同研究に成る部分を含むが、著者が研究計画から実験及びデータ解析、考察全ての過程で主体的役割を果たしており、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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