チロシンキナーゼ(protein tyrosine kinase)は、細胞の外的要因に呼応して、細胞の分化や増殖を促す、細胞内の因子のひとつである。また、ある種のチロシンキナーゼの異常な活性化は、細胞のガン化を起こすことが知られる。チロシンキナーゼが、生体内のどの様な細胞で、どの様な現象に寄与しているかを調べることは、細胞の分子レベルのメカニズムを明らかにしていく上で、ひとつの目安となるものであると考えられる。ショウジョウバエは、遺伝子を生体内でアッセイすることに適した生物のひとつであり、また、遺伝学的な蓄積が豊富なため、遺伝学的な手法が適用可能である。そこで、本研究では、まず、新規の、ショウジョウバエのチロシンキナーゼ遺伝子を単離することを試みた。チロシンキナーゼの保存アミノ酸をもとにして、PCR用のプライマーを合成し、PCRを行った。この結果、ハエDNAより、7種類の新規チロシンキナーゼ配列を得た。このうち、3つのショウジョウバエ遺伝子、DFR1、DFR2、sanの解析を行った。 DFR1のcDNA、ゲノムDNAクローンを単離、解析したところ、以下の様なことが明らかになった。DFR1遺伝子は、胚期、蛹期に比較的多く発現し、そのコードする遺伝子産物は、脊椎動物繊維芽細胞増殖因子(FGF)受容体に類似した構造の、受容体型のチロシンキナーゼであった(図1)。DFR1のcDNAクローンをプローブとしたin situハイプリダイゼーションによって、ハエ組織におけるDFR1転写産物の分布を調べたところ、以下の様なことが明らかになった。DFR1転写産物は、胚期では、胞胚期の中胚葉予定領域の細胞群、幼虫の筋肉細胞の前駆細胞、また、中枢神経系では、形成途中のダリア細胞の一種、longitudinal gliaで発現があった。 DFR1タンパク質の一部を、大腸菌で大量発現させ、精製し、ウサギに免疫して、抗DFR1抗体を作製した。抗DFR1抗体は、ショウジョウバエ抽出液の中の、80kDaのバンドを染色した。ショウジョウバエ胚を固定して、抗DFR1抗体で染色したところ、以下の様なことが明らかになった。DFR1タンパク質は、DFR1mRNAと同じ細胞で発現していた。筋肉の前駆細胞では、筋肉が表皮に結合する部分に濃縮していた。また、DFR1タンパク質は、腹部体節の#27筋肉(図3)や、胸部体節のpmm筋肉を含む、特定の筋肉に接するnerve terminal様の構造(small bouton)に濃縮していた。DFR1エンハンサーの支配下でlacZ遺伝子を発現するハエの胚を抗lacZ抗体で染色し、lacZレポーター遺伝子の発現を調べたところ、未同定の、中枢神経の細胞の核で発現があった。おそらく、DFR1タンパク貿は、この細胞で作られ、軸索を通じて、nerve terminalへ輸送されているのだと考えられる。 三齢幼虫の複眼原基で、DFR1プローブによるin situハイブリダイゼーション、抗DFR1抗体を用いて、DFR1遺伝子産物の発現を調べた。DFR1転写産物は複眼原基の下層のグリア細胞で発現し、タンパク質は、光受容細胞の軸索を包むように分布していた。また、ハネ原基、脚原基でも発現があった。 次に、正常な受容体の機能を奪ってしまうような、dominant-negative変異のDFR1遺伝子を、熱ショックプロモーターを用いて、胚で発現させ、DFR1のloss-of-function表現型を観察した。産卵後約7時間の胚で、このような変異型遺伝子を発現させた場合、一部の筋肉細胞に形成の異常が起こった。このことは、DFR1が、筋肉細胞の形成に必要であることを意味する。 また、DFR1ゲノム領域を欠損した染色体Df(3)sr16を用いて、DFR1の機能を調べようとした。しかし、この欠損染色体には、他の筋肉の形成にかかわる遺伝子が含まれていることがわかり、DFR1の欠損がどのような表現型を示すのかを知ることができなかった。そこで、DFR1遺伝子の異常は致死になると考え、Df(3)sr16の致死性を相補しない(点)突然変異のハエについて、DFR1の変異が起こっているかどうかを調べた。Df(3)sr16を相補しない致死性変異ラインを15系統作製し、譲与されたものと併せて、48系統のハエについて、DFR1ゲノム断片が致死性を回復するかどうかを調べた。 DFR2のcDNA、ゲノムDNAクローンを単離、解析したところ、DFR2遺伝子もまた、FGF受容体様のタンパク質をコードしていた。DFR1タンペク質が細胞外に2個のイムノグロプリン様ドメインを持つのに対して、DFR2タンパク質は、細胞外に5つのイムノグロプリン様ドメインを持っていた(図1)。in situハイブリダイゼーションによって、DFR2転写産物の分布を調べたところ、胞胚期の内胚葉の予定細胞領域、中枢神経系の特殊な細胞である、midline細胞、幼虫の気管になる細胞で発現があった。DFR1遺伝子の5’領域にP因子の挿入したラインを発見した。西郷研究室の大城氏を中心とした研究で、このラインをもとにDFR2変異体が作製された。DFR2変異体では気管が伸びないなどの異常が起こっていた。 sanのcDNA、ゲノムDNAクローンを単離した。また、RACE-PCRなどを行い、sanの転写単位を決定した。san遺伝子のコードするタンパク質は、チロシン残基を含む特異的なぺプチド配列を認識すると考えられるSH2(src homology 2)領域を2箇所に持ち、細胞骨格系のタンパク質に見いだされ、タンパクの結合に関与すると考えられる、アンキリン様の配列を5個持っていた(図2)。in situハイブリダイゼーションによって、san転写産物の分布を調べたところ、sanは発生段階の多くの細胞で共通に発現していたが、特に、初期胚と、メスの生殖細胞で多く発現しいることが明らかになった。sanは唾腺染色体52F領域に位置し、この領域の欠損変異体、Df(2)Jp4、Df(2)Jp7で欠損していた。これら欠損変異体で、共通に欠損している部分にsanが位置していることを明らかにした。sanのゲノム領域約10kbをP因子によって、ハエゲノムに導入したところ、この断片はsanの胚期の発現に十分であることがわかった。52F領域の、3種類の(点)致死変異が、sanゲノム断片によって回復されるかどうかを調べたが、いずれも、回復されず、この中に、sanの変異と考えられるものはなかった。sanのような非受容体型のチロシンキナーゼをコードする遺伝子は、ハエでは約5種類知られている。これらは、いずれも、多くの細胞で非特異的に発現がみられ、お互いの役割を相補しあっている可能性が示唆されている。sanのnull変異は、あるいは致死性ではない可能性も高いと思われる。 図表図1 ショウジョウバエFGF受容体ホモログDFR1、DFR2の構造と脊椎動物FGF受容体の構造の比較 / 図2 dtk7(san)と既知の非受容体型チロシンキナーゼの構造の比較。HTK16はヒドラのチロシンキナーゼ、ZAP70とsykは哺乳類の免疫系の細胞のチロシンキナーゼ。 / 図3 ショウジョウバエの幼虫期の筋肉25、27の筋肉の前駆体はDFR1を強く発現する。6、7の筋肉は、dominant-negative型DFR1で影響を受けやすい。 |