学位論文要旨



No 111019
著者(漢字) 白水,美香子
著者(英字)
著者(カナ) シロウズ,ミカコ
標題(和) 部位特異的変異法によるRasタンパク質の機能領域の解析
標題(洋)
報告番号 111019
報告番号 甲11019
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2932号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横山,茂之
 東京大学 教授 山本,正幸
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 教授 竹縄,忠臣
 東京大学 助教授 横田,崇
内容要旨

 ガン遺伝子産物Rasタンパク質は,増殖や分化においてさまざまなシグナル伝達経路に関わっているとされており,また,酵母からヒトまで高度に保存されている.Rasタンパク質は低分子量GTP結合タンパク質で,通常不活性型であるGDP結合型で存在するが,増殖分化因子刺激によりGDPがGTPと交換され,活性型であるGTP結合型となる.そこでターゲットと相互作用し,シグナルを伝達した後,GTPを加水分解し,GDP結合型に戻る.GTPを加水分解を促進する因子としてp120-GAP,NF1およびp100-GAPがみいだされている.また,ターゲットとして,Rafファミリーなどのセリン/スレオニンキナーゼ,およびPI3キナーゼが同定された.また,種々の細胞外刺激によりMAPキナーゼが活性化され,発癌性のRasタンパク質によっても活性化されることが明らかになっている.このようにRasタンパク質は,複数の因子と相互作用するため,細胞内でも複数の経路を動かしていると考えられる.しかし,細胞内でどの因子と相互作用することが,その生物活性を発現する上で重要であるのかは解明されていない.そこで,今回,複数の因子との認識様式を解析すること,さらに,それら複雑な経路を特異的に抑制もしくは駆動できるようなRasタンパク質を検索することを目的として研究を行った.

 まず,ヒトHa-ras(Val12型)遺伝子に変異を導入し,その変異ras遺伝子をそれぞれPC12細胞に導入した.得られた形質転換体で各変異体の発現を誘導し,その神経様突起形成能を調べた.その結果,エフェクター領域と呼ばれる領域中の変異,さらに,31番目のグルタミン酸残基をリジンにした(E31K)変異などが神経様突起形成能を喪失させた.また,各変異Rasタンパク質の発現によるMAP kinaseの活性化についても解析を行ったところ,G12V/I21Aなどの変異体については,MAP kinaseの活性化はおこっているが,神経様突起の形成がRas(G12V)のようにみられなかった.

 次に,各変異Rasタンパク質(Gly12型)を大腸菌で発現させ精製したものを用いて,Raf-1との結合能を解析した.その結果,Raf-1の結合にはエフェクター領域およびその近接した領域(E31〜R41),および,リン酸結合領域の一部の残基(L56〜A59)が関わっていることが明らがになった.さらに,MAP kinaseを活性化できない変異体であるK42A,L53A変異体がRaf-1と結合することが明らかになった.このことは,RasがRaf-1と結合するだけでは活性化できないか,または,PC12細胞ではMAP kinase活性化の主要な経路がRaf-1を通っていないことを示唆する.

 さらに,様々な濃度のp120-GAPまたはNF1存在下での各変異Rasタンパク質のGTPase活性を測定し,最大のGTP加水分解速度と,p120-GAPまたはNF1に対する親和性を求めた.p120-GAPおよびNF1ともにエフェクター領域(Y32〜Y40)およびリン酸結合領域(D57〜Q63)と,さらに,その近接するE31およびL56残基が相互作用に必要であることが明らかとなった.しかし,各々の変異によりp120-GAPとNF1とで与える影響が異なる変異体が存在した.これら変異体を用いることで細胞内でのp120-GAPおよびNF1の役割の差異が明らかになると考えられる.

 分裂酵母ではRasは接合,胞子形成および細胞の形態維持という異なるシグナル伝達経路に関わっており,胞子形成についてはRasのターゲットがMEKKホモログのByr2であり,形態維持についてはScd1/Ral1がターゲットであるとされている.そこで,分裂酵母のras1破壊株における各変異Ha-Rasタンパク質(Gly12型)の相補活性を調べた結果,胞子形成能は相補できるが接合能を相補できない変異体が得られた.これらの変異体は,Byr2とは相互作用しうるが,Scd1/Ral1とは正しい相互作用が行えないと考えられる.このうち,I21A変異体については,PC12細胞における挙動と似ており,Scd1/Ral1と似た哺乳類細胞内の因子との相互作用ができない可能性がある.また,Raf-1と結合できるY32F変異体は,胞子形成の経路も相補できなかった.このこととRaf-1とは結合できないが胞子形成能を抑圧できる変異体が存在したことから,Raf-1とMEKKが異なる認識をされていることが示唆される.

 以上の結果,細胞内における活性発現および他の因子との相互作用に必要な領域は主に,NMRによりGTP結合型でコンフォメーションの多形性を示す領域に重なっていることが明らかになった(図).したがって,他の因子との相互作用における多形性の重要性が示された.さらに,その領域内における変異体で,多形性がみられないものは,GAPとRaf-1のうち一方としか相互作用できなくなっており,シグナル伝達活性を喪失していた.したがって,GTP結合型においてその領域の構造が多形性をとることは,複数の因子と相互作用する上で必要であるために,シグナル伝達に重要であると考えられる.

図 変異によりRasの活性に与える影響(今回の結果に加えて,既に報告されている結果も示した.

 また,本研究において,G12V/E31K変異体を発現させるとNGFによる神経様突起形成が抑制されることをみいだした.そこで,他の優性抑制Ras変異体として報告されているS17N変異体,およびKrev-1タンパク質とあわせて,PC12細胞におけるその抑制機構を解析した.その結果,いずれもNGFによる神経様突起形成は抑制した.また,NGFによるMAP kinaseの活性化をS17N変異体は半分程度に抑制したが,G12V/E31K変異体およびKrev-1タンパク質による抑制はみられなかった.したがって,神経様突起形成にはMAP kinaseの活性化以外の経路が必要であると考えられる.また,G12V/E31K変異体の抑制効果がKrev-1としての機能を得たためなのかを明らかにするため,出芽酵母において,Krev-1でみられる出芽部位を不規則にする活性をもつかどうかを調べたところ,G12V/V45E変異体では観察されたが,G12V/E31K変異体ではみられなかった.したがって,G12V/E31K変異体は何らかの因子を競合阻害して抑制するようになったと考えられる.

 さらに,ヒトの癌細胞から発見されたA18Dという変異がどのような機構でRasタンパク質に発癌性をもたらすのかを解析したところ,GDP/GTPの解離速度が野生型に比べ,非常に速くなっており,さらにGTPよりGDPのほうが解離しやすかった.また,もともとのGTPase活性は野生型に比べやや低下しているが,GAPによるGTPase活性の上昇は野生型同様みられた.さらに,A18D変異体の発現によりPC12細胞の神経様突起が形成された.したがって,A18D変異体の発癌性は,解離速度の上昇によるもので,GTPase活性の低下によるものではないと考えられた.これまで,人工的に作成された変異ではヌクレオチドの解離速度の上昇により発癌性を与えるようになったものはあるが,癌細胞より見いだされた変異ではGTPase活性が低下しているもののみであった.また,A18D変異体は解離速度が非常に速くなっているため,Rasの活性制御のサイクルにおいてGTPase活性の低下のために発癌性をもつ変異体とは異なる挙動を示すと考えられ,その検証に役立つと考えられる.

 本研究において,PC12細胞における神経様突起形成のシグナル伝達経路において,また,分裂酵母においても,Raf-1〜MAP kinaseの経路とそれ以外の経路で選択的に機能するような変異体を得ることができた.これらは,未知の経路の解明に役立つと考えられる.

審査要旨

 ガン遺伝子として発見されたras遺伝子は,低分子量GTP結合タンパク質をコードしており,その遺伝子産物Rasは細胞の増殖や分化において重要な役割を担っている.また,近年になって,Rasは複数の因子と相互作用し,細胞内において複数の経路に関わっていることが明らかになってきている.

 本論文は,Rasタンパク質のN端側ほぼ半分の領域にわたり,部位特異的変異法により変異を導入し,それぞれの変異体の活性を解析している.そして,PC12細胞における神経様突起形成能,および,p120-GAP,NF1,Raf-1との相互作用に必要な残基を同定し,シグナル伝達活性および他の因子との相互作用に重要な領域が,NMRにより構造の多形性を示す領域によく一致することを示している。また,PC12細胞におけるRasによる神経様突起形成には,既に明らかになっているMAP kinaseカスケード以外にも,必要な経路があることを明らかにしている.

 本論文の第2章では,各変異体のPC12細胞における神経様突起形成能を解析している.その結果,エフェクター領域と呼ばれる領域にも,31番目の残基などが神経様突起形成能に必要であることが示しされた.また,各Ras変異体のMAP kinase活性化能についても解析を行い,MAP kinaseの活性化をひきおこすが,神経様突起の形成をひきおこせない変異体が存在することを明らかにした.

 第3章では,各Ras変異体とp120-GAPおよびNF1との相互作用について解析を行っている.その結果,p120-GAPおよびNF1ともに,エフェクター領域およびリン酸結合領域と,その近接するE31およびL56残基が相互作用に必要であることを示した.

 第4章では,各Ras変異体について,Raf-1との結合能を解析している.その結果,Raf-1との結合に関わる領域は,PC12細胞におけるシグナル伝達活性,および,p120-GAPやNF1との相互作用に必要な領域とほぼ一致することを示している.また,この領域は,GTP結合型でコンホメーションの多形性を示す領域によく重なっていることから,他の因子との相互作用における多形性の重要性を示している.このことから,RasはGTP結合型においてその領域のコンホメーションが多形性をとることで,複数の因子と相互作用でき,そして,多数の因子と相互作用することで,シグナルを伝達できると考察している.

 第5章では,Rasの関わる経路について解析の進んでいる分裂酵母を用いて,ras1破壊株における各変異Ha-Rasの相補活性を調べている.その結果,胞子形成能は相補できるが接合能を相補できない変異体を得ており,PC12細胞における挙動と似ている変異体も存在することから,その変異体はScd1/Ral1と似た哺乳類細胞内の因子との相互作用ができない可能性を示唆している.

 第6章では,RasのG12V/E31K変異体が,PC12細胞において,NGFによる神経様突起形成を抑制することをみいだした.そして,Krev-1タンパク質,および,他の優性抑制Ras変異体であるS17N変異体とあわせて,PC12細胞におけるその抑制機構を解析している.その結果,いずれもNGFによる神経様突起形成は抑制したが,NGFによるMAP kinaseの活性化については,S17N変異体以外の,G12V/E31K変異体およびKrev-1タンパク質による抑制はみられなかった.したがって,第2章の結果とあわせ,PC12細胞における神経様突起形成には,MAP kinaseの活性化以外の経路が必要であることが明らかになった.

 第7章では,ヒトの癌細胞から発見されたA18Dという変異が,GDP/GTPの解離速度の上昇により発ガン性をひきおこすことを明らかにしている.癌細胞より発見された変異では,このような活性化機構によるものは初めてであった.

 以上の研究において,Ras変異体の作成および精製,PC12細胞における解析,GTPase活性の測定などの生化学的解析,分裂酵母における解析など,すべて論文提出者が主体となって行ったものであり,審査委員会は,本論文提出者が博士(理学)の学位を受ける資格あるものと判定した.なお,本論文は,東京大学の横山茂之教授,小塩尚代氏,外山洋一氏,国立がんセンター(現萬有製薬研究所所長)の西村暹博士,DNAX研究所(現東京工業大学)の上代淑人博士,小出寛博士,日本大学の吉垣純子博士,蛋白工学研究所の山崎和彦博士,理化学研究所の伊藤隆氏,Agouron製薬のErnie Villafranca博士,Shella A.Furman博士との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断した.

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