保育行動における雌と雄の役割に関しては、生殖形式や配偶システムと関連してその適応的意義が問われており、「親の投資」という概念に含まれる重要な問題として行動生態学的な興味の対象とされている。 哺乳類においては、授乳等によって保育行動の基本的な役割を雌が担うのが常態であることもあって、雄による保育行動は一般的ではない。しかし、一部の齧歯類(および齧歯類以外の哺乳類の一部)では雄も保育行動に関与し、子の発育に影響をおよぼすことが知られている。たとえば、ハツカネズミでは雌と交尾をし、つがいで生活した雄は、その雌が子を産むと(これらすべてを経験した雄をここでは「父親」と呼ぶ)、その子に対し、母親と同じような保育行動(子をなめて排尿を促す行動、巣から跳び出た子を巣に連れ戻す回収行動、巣作り行動、授乳姿勢をとって子を暖めたりするような行動など)を示すようになる。しかし、このような行動はすべての雄が示すわけではない。たとえば、交尾などの性的経験のない雄はこのような保育行動を示さず、逆に子を殺したりする。雄は社会的、性的経験によってこのような行動の違いを示すと考えられている。 しかし、この雄の保育行動の研究は、主たる保育を担う雌による母性行動の研究にくらべて、行動が明確になりにくいこともあって、軽視されてきた。またいままでの研究の多くは子殺し行動に焦点があてられ、保育行動そのものの解析は十分でなく付随的に行われてきたため、保育行動の生理学的、行動学的機構について、統合的な見解は得られていない。生殖システムや親の投資といった概念の正確な理解のためにも、雄による保育行動の生理学的、行動学的機構の正しい理解が必要と思われる。 本研究は、ハツカネズミを用いて、雄の保育行動(ならびに子殺し行動)の発現を左右する行動的、および内分泌的要因を検討した。まず、行動的要因として、雄の交尾経験、およびつがいとなる妊娠雌との同居の影響を調べた。後者については、出産以前の妊娠雌との同居、出産への(直接的接触によらない)立ち会い、出産時の雌および生まれてくる子と接触、出産後の雌および生まれてきた子との同居という諸要因にわけ、それぞれの要因の影響をさらに検討した。次に、内分泌的影響の一端として、性行動と関係の深いアンドロゲンが保育行動の発現に及ぼす影響を調べた。最後に、このアンドロゲンの影響と、行動的要因との関係を調べた。以上について3章に分けて順に記す。 第1章保育行動の発現に関与する行動的要因の影響 雄のハツカネズミにおいて、交尾の経験と妊娠雌との同居が、保育行動の発現に与える影響について調べたところ、以下の結果が得られた。交尾経験と妊娠雌との同居は、それぞれ単独でも、また両方の経験がある場合でも保育行動の発現を促進する。しかし、妊娠雌との同居だけでは子殺し行動の抑制は引き起こされない。それゆえ、保育行動の発現の促進と子殺し行動の抑制は連動したものではなく、この二つの行動は別々の動機付けによって引き起こされている可能性が高い。また、保育行動の促進に関しては、交尾経験の影響は妊娠雌との同居の影響よりも強い効果をもつ。そして、これら二つの効果は加算的であるようだ。ここから、二つの独立した保育行動の発現調節機構の存在も考えられうる。 次に、出産および生まれてきた子の影響を調べた。妊娠雌とその雌の出産まで同居すると保育行動の発現の頻度が上がることから、性的な経験がなくても出産に立ち会うことや、出産直後に新生児とその母親雌に短時間さらされることによって、保育行動が促進されることが考えられる。実験の結果、出産に立ち会うことによって保育行動が促進されることが明らかになった。また、出産直後に新生児とその母親雌と短時間接触しても、雄の保育行動の発現に影響はない事も明らかになった。さらに、この効果には、出産時の雌や子との直接の接触が必要で、揮発性の匂い物質や視覚刺激ではなく、直接刺激(たとえば、子や出産雌や後産に触れる、後産を食べるなどの)が必要な事もわかった。 この結果をまとめると、雄のハツカネズミの保育行動の発現の促進には、雄の交尾経験と、出産時への立ち会いが大きな効果をもち、妊娠雌との同居も影響をおよぼす。結局、それぞれの要因が補完しあって、ひとつの保育行動発現システムを構築しているのだろう。 第2章保育行動の発現に対するアンドロゲンの影響 雄のハツカネズミなどで、アンドロゲンは交尾などの性行動に関与する以外に、攻撃性や、社会的関係にも関係する重要なホルモンであり、去勢によって子殺し行動が抑制され、その後のテストステロン投与によって回復する事も知られている。去勢やその後のさまざまな量のテストステロンプロピオネートの投与によって、保育行動の発現がどのように変わっていくかを調べた。その結果、去勢により、子殺し行動が抑制され、保育行動が促進される事、そして、去勢後のテストステロンプロピオネートの投与により、保育行動は再び抑制され、子殺し行動が回復する事が明らかになった。この去勢後のテストステロンプロピオネートの効果は濃度依存的ではあるが、投与量と保育行動発現の頻度の間には直線的な関係は見られず、一定量以上の投与によって急激に保育行動は再び抑制され、子殺しをするようになる。さらに、この保育行動におけるテストステロンプロピオネートの効果は、巣作り行動や子を暖める行動の発現に影響を及ぼし、子の回収行動にはあまり影響しないことも示された。このことは保育行動の発現およびその抑制に対して、アンドロゲンが全般的に働いているのではなく、アンドロゲンの効果の特異性、またアンドロゲンの関与しない発現機構の存在を示唆する。 次に、保育行動を示す「父親」雄と、交尾などの性的経験をまったくもたず(こうした雄をここでは「ナイーブ」雄と呼ぶ)子との出会わせテストでも保育行動を示さない雄の血中テストステロン濃度をRIA法により比較した。その結果、保育行動を示す「父親」雄と、保育行動を示さない「ナイーブ」雄との間で、血中テストステロン濃度に違いは認められなかった。少なくとも、保育行動が発現している時点での血中テストステロン濃度は保育行動に決定的な影響を与えることはないと考えられる。 これらの結果から、アンドロゲンが保育行動や子殺し行動の発現や抑制に関与している事、しかし、行動的要因と密接に時間的に連動した形で行動を支配しているのではないことが示唆された。 第3章保育行動の発現を調節する行動的要因とアンドロゲンの関係 第1章から、交尾経験と出産時の立ち会いが保育行動の発現の促進に大きな効果をもっこと、また第2章から保育行動の発現にアンドロゲンが影響を及ぼすことが明らかになった。この行動的、および内分泌的な要因が互いに関係した機構によって作用しているか否かを調べた。去勢後一定量のテストステロンプロピオネートを投与し、保育行動の発現を抑えたハツカネズミでも、交尾させることによって、保育行動が発現するようになり、交尾経験による効果にアンドロゲンの変化が関与しないことが示唆された。また、去勢後にテストステロンプロピオネートを投与したマウスを妊娠雌の出産時に立ち会わせると、やはり保育行動を示すようになる。出産時の立ち会いによる効果もアンドロゲンの変動には依存しないことが示唆された。ただし、保育行動を示さなかった個体はすべて子殺し行動を示した事から、子殺し行動の抑制には影響している可能性も考えられる。 以上3章にわたる実験結果より、雄マウスの保育行動の発現調節機構の一端が明らかになった。雄マウスは交尾経験や、出産時に立ち会う時の直接的な刺激によって、子殺しを抑制し、保育行動を示すようになる。この作用の機構にはアンドロゲンは関与していないようである。一方、恐らくこれとは独立にアンドロゲンによる保育行動の発現の調節も存在する。このように、保育行動の発現の調節には複数の機構の関与が考えられ、それらが補完的に働いていることが示唆される。本研究によってその機構の一部が解明された。 |