学位論文要旨



No 111028
著者(漢字) 高井,裕之
著者(英字)
著者(カナ) タカイ,ヒロユキ
標題(和) 海産魚および淡水魚精子の運動開始制御機構の研究
標題(洋) Studies on the Regulatory Mechanisms for the Initiation of sperm matility in Marine and Freshwater Teleosts
報告番号 111028
報告番号 甲11028
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2941号
研究科 理学系研究科
専攻 動物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森沢,正昭
 東京大学 教授 嶋,昭紘
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 助教授 奥野,誠
 東京大学 助教授 上村,慎治
内容要旨

 多くの種で精子は雄性生殖器内では運動を停止しており、体外あるいは雌性生殖道内に放精されると運動を開始する。海産魚およびコイ科淡水魚において精子は、雄性生殖器内では精漿と等張の浸透圧により運動を停止しており、海産魚では高浸透圧の海水、淡水魚では低浸透圧の淡水に放精されると浸透圧の増加、減少を感知して運動を開始することが知られている。しかし、浸透圧による引き金以後の機構は明らかではない。そこで浸透圧による精子運動開始機構の詳細を明らかにする目的で海産魚、クサフグ、カレイ、淡水魚、ゼブラフィシュについて本研究を行なった。

1)海産魚精子の運動開始機構

 クサフグ、カレイの精子は、精漿と等張の約300mOsm・kg-1の等張溶液中で運動を停止しており、精漿に比べ高張の500mOsm・kg-1以上の溶液中で運動を開始する。運動開始は電解質溶液、非電解質溶液中でも起こることから、溶液中のイオン組成の変化によってではなく浸透圧の上昇が運動開始の引き金であると考えられている。また、精子懸濁液の浸透圧を700mOsm・kg-1と300mOsm・kg-1になる様に交互に変化させることにより精子は運動の開始と停止を繰り返すことが明かとなった。

 細胞膜は半透膜であるので一般に動物細胞では外液の浸透圧変化は細胞の膨潤または収縮とそれに伴なう細胞内イオン濃度の増加、減少を引き起こすと考えられる。また白血球などでは細胞の膨潤または収縮が起こると細胞膜のイオン透過性が変化し細胞体積をもとに戻す、恒常性を維持するための一連の細胞応答機構がある。しかし、精子では運動開始が非電解質溶液中でも生じることから、細胞膜を介したイオンの出入りよりも、むしろ細胞の体積の変化による細胞内イオン濃度の変化や形の変化が運動開始の調節に関与している可能性が高い。そこで細胞内イオン濃度変化に着目し運動開始との関係を検討した。まず細胞内イオン濃度変化の指標として、細胞内のK+濃度をnigericinを用いたnull point法を用いて測定した。その結果、外液の浸透圧が等張(約300mOsm・kg-1)のとき細胞内K+濃度は105mMであり、800mOsm・kg-1のときは300mMであった。この結果は、外液の浸透圧増加にともない細胞内K+濃度が増加することを示唆している。

 さらに、精子運動開始の調節を軸糸のレベルで解析する目的で、NP-40を用いクサフグ精子除膜モデルを新たに作成し、除膜モデルは精子内イオン濃度にほぼ等しい150mMKacetateを含む再活性化液中では運動を停止していたが、K aceteteの濃度が250mM以上のとき運動を開始することを明らかにした。この再活性化はNaCl、KClでも生じたが、マンニトールなどの非電解質では生じなかった。また、再活性化溶液のイオン濃度を600mOsm・kg-1と300mOsm・kg-1になる様に変化させたところ除膜精子モデルは運動の開始と停止を繰り返した。これらの結果は、雄性生殖器から高張の海水に放精された精子内で100mMから300mM以上に変化するイオン濃度が、運動の開始、停止をコントロールしていることを示している。

 これまで様々な種の精子で、その運動調節に細胞内pH(pHi)が関与することが報告されている。クサフグ精子は精漿と等張の浸透圧中では運動を開始しないが、同じ等張の条件下でイオノフォアを用いてpHiを上昇させると運動を開始した。また、細胞内とほぼ等しいイオン濃度を持つ再活性化液中で運動を停止している除膜精子モデルは溶液のpHを大きく高めることにより運動を開始した。一方、等張溶液中で静止している精子のPHiは7.4であり、浸透圧の増加による運動開始に伴なうpHiの上昇は小さなのもであった。そこで鞭毛の運動と細胞内イオン濃度およびpHiの関係をより正確に知ることを目的として、nigericinを用いて細胞膜を除去することなく細胞内のK+とpHを細胞外のK+、pHと平衡化したモデル精子を作成した。このモデル精子では等張溶液中で運動開始に、0.8un it程度の大きなpH上昇が必要であり、また細胞内pHを7.4に固定しても細胞内K+濃度が上昇すると精子は運動を開始した。一方、pHiを低く保持しておいてもK+濃度を増加させると精子は運動を開始したが、より高濃度のK+を必要とした。これらの結果はpHiが細胞内K+とともに精子運動開始を調節する要因のひとつではあることを示している。しかし、実際の運動開始の要因は細胞内イオン濃度の変化が主であることを示唆している。

2)淡水魚におけろ精子運動開始

 ゼブラフィッシュ精子は他の淡水魚と同様等張の浸透圧下で運動を停止しており、浸透圧の減少によって運動を開始した。コイ科淡水魚類精子は放精された後、徐々に膨潤し、1-2分のうちに軸糸および頭部の構造が破壊されることが報告されている。淡水魚精子の細胞内イオン濃度変化は測定していないので明らかではないが、淡水魚においては精子は低張の外液によって吸水し細胞内イオン濃度の低下を生じていると考えられる。一方、除膜精子モデルは精漿と等しいイオン濃度の再活性化液中で運動を停止しており、再活性化溶液のイオン濃度が100mM以下に減少すると運動を開始した。しかし、精漿と等浸透圧またはそれ以上の濃度のマンニトールを含む再活性化溶液中でも運動は抑制されないことから、淡水魚においては鞭毛運動が細胞内イオン濃度の低下によって調節されていると考えられる。

 以上の結果は、海産魚、淡水魚では外部浸透圧増加または減少が、細胞内のイオン強度の増加または減少という細胞内要因に変換され、このイオン濃度が、軸糸に直接作用して精子の運動開始、停止を引き起こすことを示唆している。

3)dyneinATPase、タンパク質リン酸化脱リン酸化の関与

 クサフグ精子鞭毛のトリプシン処理軸糸は、ウニ由来の軸糸と同様にATP依存的に微小管の滑りを起こし崩壊した。しかし、滑りは再活性化溶液の塩濃度が150mM以上のときに起こり、100mM以下では起こらない。このことは、トリプシン処理によって軸糸から失われるネクシン、ラジアルスポークよりもむしろdyneinのATPase活性そのもの、あるいはdyneinと微小管の相互作用が細胞内イオン濃度依存的に鞭毛軸糸運動を調節していることを示している。

 より詳細な検討のため、クサフグ精子鞭毛からdyneinの抽出を行なった。クサフグ精子軸糸のMg2+-ATPase活性は800mMのNaCl溶液で50%が抽出された。600mM NaCl溶液による軸糸抽出物を5-20%sucrose密度勾配遠心法で分離すると11S付近と19S付近に280nmの吸収とMg2+-ATPase活性のピークが得られた。大きい11S付近のピークでウニの外腕dyneinとほぼ同様に100mM KClに比べて350mM KClによりMg2+-ATPase活性が約2.5倍上昇した。また、抽出されたdyneinの性質および軸糸中の位置については今後の検討課値である。

 タンパク質のリン酸化、脱リン酸化は細胞機能の調節に重要な役割を果たしている。ニジマスの、精子運動開始にはcAMP依存性protein kinaseによるタンパク質のリン酸化が関与する。またリン酸化がdynein ATPaseを活性化することも報告されてれている。クサフグでは精子をprotein phosphataseの阻害剤であるBenzylphosphonic acid及びNaFにより浸透圧の増加による精子運動開始が抑制された。またBenzylphosphonic acidは、除膜精子モデルの再活性化も阻害した。Benzylphosphonic acidはtyrosirne phosphataseに特異的な阻害剤であり、protein phosphataseによるtyrosine残基の脱リン酸化が精子運動を調節していると考えられる。

 等張の150mM NaCl溶液中に懸濁したクサフグ精子をcalmodulinおよびprotein kinase Cの阻害剤であるW-7,sphingosin,trifluoperadinで処埋するとpHiの上昇と運動の開始が起こった。W-7のanologuecであゐW-5、protein kinase Cの阻害剤であるH-7ではこれらの変化はみられない。クサフグ精子のpHi調節にはcalmodulinが関与している考えられる。

4)まとめ

 海産魚精子では、外部浸透圧の増加、減少が細胞内イオン濃度の増加減少に変換され運動が開始、停止する。逆に、淡水魚精子は外部浸透圧減少、増加が、細胞内イオン濃度の減少、増加に変換され運動開始、停止が起こることが明かとなった。また、精子の運動開始、停止は繰り返しが可能であるということが見出だされた。細胞内イオン濃度変化に加えてcal mo dulinを介する経路で調節されているpHiの変化が鞭毛の運動の調節に関与していることが示唆された。さらにイオン濃度の増加または減少が軸糸に直接作用し、dynein ATPase活性あるいはdyneinと微小管の相互作用を変化させることによって運動開始を調節していることも示唆された。また精子の運動開始はprotein phosphataseの阻害剤によって抑制されることから、タンパク質脱リン酸化が運動開始に重要であると考えられる。

審査要旨

 本論文は1)海産魚精子の運動開始機構2)淡水魚精子の運動開始機構3)海産魚精子運動開始へのdynein ATPase、タンパク質リン酸化、脱リン酸化の関与について述べられている。海産魚精子の運動開始機構については、クサフグ、カレイの精子は精巣中では精液中と等張の溶液中で運動を停止しており、海水の高張の浸透圧中に放精されると運動を開始することが知られていた。加えて、これらの海産魚精子が等張、高張の条件下で、運動の停止、開始を繰り返すことが出来ることが見出された。すなわち、外部浸透圧の変化によって精子運動が可逆的に調整されていることが初めて示されたことになる。また、界面活性剤で細胞膜を除去したクサフグ精子は、ウニなどの精子と同様、エネルギー源であるATPの存在下では鞭毛運動を行なう。この運動は静止している精子の細胞内のイオン濃度とほぼ同じ濃度と考えられる150mMのKClを含んだ溶液中では停止しており、高濃度のKClを含んだ溶液中で運動を開始することが示された。更に、KCl濃度を300mMから150mMに戻すと再び鞭毛軸糸の運動が停止し、この運動開始、停止はKCl濃度を変化させることによって繰り返されることも明らかになった。以上の結果は、外部浸透圧の変化が精子内部のイオン濃度の変化を引き起こし、精子鞭毛軸糸の運動を調節していることを示唆している。そこで、クサフグ精子の細胞内イオン濃度をnull-point解析法によって測定した。その結果、等張の浸透圧条件下で運動を停止している精子の細胞内イオン濃度は100mMであるのに対し、高浸透圧下で運動を開始した精子の場合は300mMであるとの結果を得た。実際に顕微鏡下で等張、高張の溶液中での精子を観察すると高張条件下では精子は収縮していることが観察された。従って、海産魚においては、海水の高浸透圧条件下に放精される際浸透圧の作用によって精子の体積が減少し、その結果細胞内イオン濃度が増加し、鞭毛の運動装置である軸糸が高イオン濃度条件下で運動を開始すると考えられる。

 淡水魚については、ゼブラフィシュの精子は他のコイ科淡水魚の精子と同様に等張の浸透圧下では停止しており、海産魚とは逆に淡水の低浸透圧下に放精されると運動を開始することを確認した。さらに、この精子は外部浸透圧を低張から等張に戻すと再び運動を停止し、外部浸透圧の変化を繰り返すことによってこの運動の開始、停止も繰り返すことを明らかにした。また界面活性剤で除膜した精子は、海産魚の場合とは逆に、溶液中のKCl濃度を減少させることによって運動を開始することが見出された。また、鞭毛軸糸の運動開始、停止は、KCl濃度の減少、増加を繰り返すことによって引き起こすことが出来た。淡水魚の精子が低張の淡水中では膨潤することが観察されるので、淡水魚においては淡水の低張条件下に放精された精子では、精子細胞の膨潤に伴なう細胞内イオン濃度の低下が起こり、その結果低イオンに感受性を持つ鞭毛軸糸が運動を開始すると考えられる。

 一般に精子運動は鞭毛軸糸の微小管同士の滑りによって起こることが知られている。そこで、クサフグ精子鞭毛軸糸のトリブシン処理を行ない滑りを可能にして調べたところ、滑りは150mM以上の高いイオン濃度条件下で起こり、100mM以下では起こらなかった。一方、クサフグ精子軸糸から抽出したdynein ATPaseの活性は高いイオン濃度の条件下で高いことが明かとなった。すなわち、精子の運動開始にはdynein ATPaseの活性化とそれに伴なう軸糸の滑りが関与していると考えられる。さらに、クサフグ精子をタンパク質脱リン酸化酵素の阻害剤によって処理すると浸透圧増加による精子運動開始が阻害された。一方、カルモデュリン及びタンパク質リン酸化酵素の阻害剤は精子の運動開始を引き起こした。以上の結果は精子鞭毛軸糸にあるタンパク質の脱リン酸化、リン酸化が精子運動開始に重要な役割を果たしていることを示している。

 以上を要約すると、海産魚、淡水魚精子では、外部浸透圧の変化が精子内Kイオン濃度変化に変換され、この変化が精子鞭毛軸糸の滑りを誘起して精子運動開始が起こること、さらに、精子内イオン濃度変化、及びdynein ATPase活性の変化にはタンパク質の脱リン酸化、リン酸化反応が関与している可能性が示された。これらの新しい知見、及び精子及び鞭毛軸糸の運動が可逆的に調節されるという新しい発見は、今後の精子運動及び生体運動の調節機構の解明に大きく貢献するものと思われる。

 なお、本論文は森沢正昭氏との共同研究であるが論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったもので論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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