本論文は4章からなり、第1章は行動発達における初期環境の豊富化の影響、第2章は雄マウスの攻撃行動の発現に対する他個体雄からの感覚刺激の影響、第3章はEC効果におけるヒゲからの触覚入力の影響、第4章は走路歩行におけるヒゲ触覚と視覚の関係について述べている。成育期の物的、社会的環境を豊富化すると、中枢神経系や行動の発達が促進されるというEC(Enriched Condition)効果については、比較的多くの知見があるが、これらの現象を引き起こす要因の特定を試みているものはまれである。本論文において、論文提出者は、特に探索行動と攻撃行動について、発達に影響を持つ刺激を、特に触覚に注目して詳しく調べることを目的としている。 第1章行動発達における初期環境の豊富化の影響 ECは、探索行動を増大させる効果を持つことが確認され、また、社会的相互作用が物的EC効果の発現の前提条件であることが示された。さらに、探索行動と相関を持つことが報告されている攻撃行動についても調べられたが、EC飼育による攻撃性の増大は見られず、探索行動と攻撃行動の発達は必ずしも同時進行的ではなく、動機づけは別であることが示唆された。 第2章雄マウスの攻撃行動の発現に対する他個体雄からの感覚刺激の影響 第2章では、飼育環境中で他個体雄から受ける種々の感覚刺激や、その雄との物理的相互作用の中で、攻撃性を抑制、あるいは促進する要因が調べられた。その結果、金網を隔てて他個体と同居させた雄は、単独飼育や、同居個体のいるものに比べ、高い攻撃性を示すようになり、包皮腺の重量も増大することがわかった。また,飼育期間中長期に渡りヒゲを除去されると、攻撃開始が、正常のままであったものに比べ遅くなることがわかった。これらの結果と従来の知見とから、他個体雄のにおいが、脳下垂体-生殖器系を活性化し、その結果テストステロンレベルが上がり、攻撃性と包皮腺の発達とを促進したものと推論された。また、相手に対する慣れは、このような内分泌系の活性化を抑えるものと推察された。また、マウスでは、ヒゲからの触覚入力が、攻撃行動を誘発する要因であることが知られているが、ヒゲからの入力を長期に渡り遮断することにより、このような経路の発達が阻害されるらしいことが示された。 第3章EC効果におけるヒゲからの触覚入力の影響 第1章でみられたようなEC効果に、ヒゲからの触覚入力が関与している可能性を検討したが、ヒゲ触覚入力の遮断による変化は特に見られなかった。従って、この章では、ヒゲは、探査行動や歩行運動の調節といった機能を持ことが確認されたものの、幼若時から長期に渡りヒゲを除去することはこうした機能の獲得を不可逆的に損なうものではないことが示された。この結果から、第2章で、長期に渡りヒゲを除去された個体で攻撃開始が遅くなるのは、幼若時にヒゲ触覚入力を遮断されたことにより、触覚器系自体ではなく、攻撃の動機づけと関連した系が永続的な変化を受けたものと推論された。また、未知雄に対する自発的な探索には、ヒゲの除去による影響は見られなかった。従って、長期間のヒゲ除去による、攻撃開始の遅れは、自発的な探索の低下のためとはいえず、やはり、探索とは別の機能が損なわれたことが示唆された。 第4章走路歩行におけるヒゲ触覚と視覚の関係 第4章では、MUG系統のモロシヌスマウスを用い、まず走路歩行における触覚と視覚の使い分けを調べた。その結果、走行には常に視覚を用いているが、ヒゲ触覚は、走路の幅が広がるにつれ、徐々に用いるようになることが分かった。次に、幼若時におけるヒゲ触覚の剥奪が、このような走路の歩行に必要な、触覚以外の感覚、運動能力に与える影響が調べられた。その結果、運動能力の発達においてヒゲの有無が効果をもたらす特定の時期があることを示唆する結果が得られた。 以上のように、本研究は、探索行動や攻撃行動の発達に関して、従来"EC効果""Isolation効果"として一括して述べられてきた概念をいくつかの要素に分離し、これら個々の要素の寄与、およびこれら相互の関係を明らかにした。また、特にヒゲ触覚入力に注目することにより、探索行動と攻撃行動の発達や動機づけの相違点が示唆された。これらの成果は、行動が、外部環境との相互作用により発達していく機構を解明していく上での重要な知見であり、生物科学の進歩に貢献するものと評価される。 なお、各章とも、木村武二との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、本論文提出者は、博士(理学)の学位を授与できると審査委員全員一致して認めるものである。 |