学位論文要旨



No 111029
著者(漢字) 田邊,麻央
著者(英字)
著者(カナ) タナベ,マオ
標題(和) マウスにおける初期感覚入力の行動発達への影響
標題(洋) The influence of sensory input in early stages on the development of behavior in mice(Mus musculus)
報告番号 111029
報告番号 甲11029
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2942号
研究科 理学系研究科
専攻 動物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,武二
 東京大学 教授 川島,誠一郎
 東京大学 教授 守,隆夫
 東京大学 教授 松本,忠夫
 鹿児島大学 教授 林,進
内容要旨

 動物の行動は、遺伝子と環境の相互作用によって発達していくものであり、微妙な環境の変化が、行動にどのような結果をもたらすかということは、興味深いことである。一般的に、成育環境中に多様な刺激が存在する場合(Enriched Condition=EC)の方が、刺激の少ない場合(Impoverished Condition=IC)に比べ、中枢神経系や、行動の発達を促進することが知られている(EC効果)。本研究では、このような効果の要因となる刺激の種類を調べることから出発し、これまで相関があるとされてきた雄マウスの探索行動と攻撃行動について、発達に影響を持つ刺激を、特に触覚に注目して詳しく調べた。

第1章行動発達における初期環境の豊富化の影響

 ECは、新奇環境における探索行動を増大させる効果を持つことが知られている。本実験では従来の研究で用いられてきたECを簡略化し、純粋に「物体、あるいは他個体が環境中に存在すること」が、これまでECによる効果として一括して報告されてきた現象の中で、どのように探索行動の発達を促進する効果を持つのかを検証し、さらにその効果が、探索行動と正の相関を持つと考えられている攻撃行動などの発達にまで及ぶかどうかについても調べた。まず、物的環境の効果と、社会的環境の効果を分離するため、環境中の物体を均一にした上で量的な差をもたせた3種類の物的ECとICとで、雄マウスを2匹ずつ飼育し、そのうち最も複雑なECとICでは単独飼育する群も設けた。これらの環境で30日間飼育した後、オープンフィールドを改良した形のランウェイ装置と、立体的な装置とを用いて探索行動についてより厳密にしらべた。その結果、2匹ずつ飼育した群については、物的に「複雑」な環境で育ったマウスは、他のグループに比べ、ランウェイ装置で、出発箱から走路に出るまでの潜時が有意に短いこと、また、これらのマウスは、立体的な装置を用いた探索行動でも、早い時期に活動性が高まり、また、3次元的に広範な探索を行うこと、しかし総活動量にはグループ間で差がないことがわかった。これらの結果から、従来のオープンフィールドテストでは抽出できなかったような、体力とは区別される「積極的な探索」ともいうべきなんらかの動機づけが、EC飼育により高められたと言える。また、このような物的環境の効果は、単独飼育の場合に比べ、同居個体のいる場合の方がより顕著に見られた。このことは、社会的相互作用が物的EC効果の発現の前提条件であることを示唆している。また、積極的な探索行動と攻撃行動とが正の相関を持つというこれまでのいくつかの報告にもかかわらず、本研究ではEC飼育による攻撃性の増大は見られず、探索行動と攻撃行動とは、共通の遺伝的基盤を持つことはあっても、その発達は必ずしも同時進行的ではなく、別の動機づけによるものであることが示唆された。

第2章雄マウスの攻撃行動の発現に対する他個体雄からの感覚刺激の影響

 雄マウスを単独飼育すると攻撃性が増大することが知られており、第1章の実験でもその傾向が見られた。しかしその一方で、他個体雄からの嗅覚刺激により攻撃性が高められるという報告もある。そこで、飼育環境中で他個体雄から受ける種々の感覚刺激、および、その雄との物理的相互作用の中で、攻撃性を抑制、あるいは促進する要因となるものを詳しく調べた。5週齢の雄を三群に分け、単独飼育、金網を隔てて他個体と同居、2匹一緒の同居のいずれかの条件で42日間飼育し、その後、1匹ずつ新しいケージに24時間住まわせたあと、ここに嗅覚を遮断した見知らぬ雄(自らは攻撃しない)を侵入させ、これに対する攻撃行動を観察した。その結果、ヒゲの有無に関わらず、最初に攻撃をしかけるまでの潜時、攻撃を仕掛けていた総時間など、ほとんどの指標で、金網を隔てて他個体と同居させた群が、最も高い攻撃性を示し、次いで、単独飼育、2匹ずつ同居、の順であった。また、金網を隔てて他個体と同居させた個体では、攻撃性と正の相関を持つとされる包皮腺の重量も、最も高くなっていた。2匹ずつ同居の群の中の、優位雄と劣位雄の間には、攻撃性、包皮腺重量共、差は見られなかった。また、ヒゲからの触覚入力の影響についても調べるため、上記3群のそれぞれについてこの期間中ヒゲを除去し続けたもの、正常なままのもの、初めの30日間ヒゲを除去するがテスト時にははえているようにしたものの3群を設けた。その結果,飼育期間中長期に渡りヒゲを除去されると、攻撃性のテスト時にヒゲがあってもなくても、最初に攻撃をしかけるまでの潜時が、正常のままであったものに比べ長くなること、しかし、いったん攻撃を開始すれば、その後の攻撃行動のパターンには差がないことがわかった。これらの結果は、雄の他個体からの嗅覚刺激が攻撃性を増大させるという説を支持するものであり、アンドロゲン依存の他個体雄のにおいが、脳下垂体-生殖器系を活性化し、その結果テストステロンレベルが上がり、攻撃性と包皮腺の発達とを促進したものと推論される。2匹ずつ同居させた群では、いったん優劣の地位が確定したあともなお長期に渡って同居を続けたことにより、相手に対する慣れが生じ、これが、内分泌系の活性化を抑えたものと見られる。また、マウスやラットでは、ヒゲからの触覚入力が、嗅覚刺激に比べ程度は低いが攻撃行動を誘発する要因であることが知られているが、ヒゲからの入力を長期に渡り遮断することにより、このような経路の発達が阻害されるらしいことが示された。

第3章EC効果におけるヒゲからの触覚入力の影響

 マウスなどの特に夜行性のげっ歯類では、歩行運動や環境の探査などにおいて、ヒゲが重要な役割を果たしていることが知られている。第1章では、EC効果として、新奇環境における探索行動の質的な増大が示されたが、こうした効果を生じる際に、ヒゲからの触覚入力が関与している可能性を検討した。実験では、第1章で用いたECのうち、最も「複雑な」ものと、ICのそれぞれについて単独飼育する群と2匹ずつ飼育する群を設けた。さらに、これら4群のそれぞれについて、この期間中、正常のままのもの、最初の15日間ヒゲを除去し続けるが、テスト時には生えているようにするもの、30日間ヒゲを除去し続けるもの、の3群を設けた。これらについてランウェイ装置と立体的装置における探索行動を観察したところ、テスト時にヒゲがあれば、それ以前の飼育期間中のヒゲの有無は関係ないことがわかった。しかし、テスト時にヒゲのない個体では、活動量の低下が見られた。このことから、ヒゲは、これまで報告されてきたように環境の探査行動や歩行運動の調節といった機能を持つらしいこと、しかし、幼若時から長期に渡りヒゲを除去することはこうした機能の獲得を不可逆的に損なうものではないことが示された。その一方で、第2章では、長期間ヒゲを除去されていた個体は攻撃をしかけるまでの潜時が、テスト時のヒゲの有無には無関係に、長くなることが観察されている。従ってこれらの結果を総合すれば、攻撃行動に関しては、長期に渡るヒゲの除去により、触覚器系自体ではなく、攻撃の動機づけと関連した系が永続的な変化を受けたと考えるのが妥当であろう。また、本研究では、各群の個体について、箱の中に入れられた未知雄に対する自発的な、嗅覚、あるいはそれに加えて触覚も用いた探索も観察したが、ヒゲの除去による影響は見られなかった。従って第2章で、長期に渡るヒゲ除去により、攻撃開始に遅れが出たのは、相手に対する自発的な調査が低下したためとはいえず、やはり、探索とは別の機能が損なわれたことが示唆された。

第4章走路歩行におけるヒゲ触覚と視覚の関係

 1〜3章ではすべて、視覚的に劣ると考えられているアルビノのICR系統のマウスを用いたが、この実験では、野生に近いMUG系統のモロシヌスマウスを用い、まず走路歩行における触覚と視覚の使い分けを調べた。その結果、走路幅がどんな時でも走行には視覚を用いているが、ヒゲ触覚は、走路の幅が顔の幅より狭いときには使わず、幅がヒゲの覆う範囲から広がるにつれ、徐々に用いるようになることが分かった。マウスでは視覚的断崖において、視覚よりも触覚情報を優先することが知られているが、比較的速い運動では、むしろ視覚のほうを用いていることが示された。次に、幼若時におけるヒゲ触覚の剥奪が、このような走路の歩行に必要な、触覚以外の感覚、運動能力に与える影響を調べた。その結果2日齢からヒゲを除去された個体は、10日齢より除去された個体よりも歩行が速く、成長後除去された個体と同様の速さを示した。このことより運動能力の発達においてヒゲの有無が効果をもたらす特定の時期があることが示唆された。

 本研究では、これまで正の相関を持つとされてきた、新奇環境における探索行動と、攻撃行動について、その発達に関与する要因を、特にヒゲからの触覚入力に着目して、詳しく調べた。その結果から、これらの行動の中で、少なくとも運動性とは切り離して抽出される要素の発達については、その要因となる刺激の種類は必ずしも一致せず、別個の動機づけが存在することを推察した。また、ヒゲからの触覚入力の有無が運動の制御に関わるのみならず、行動の発達にも影響をもたらすことが明確となった。

審査要旨

 本論文は4章からなり、第1章は行動発達における初期環境の豊富化の影響、第2章は雄マウスの攻撃行動の発現に対する他個体雄からの感覚刺激の影響、第3章はEC効果におけるヒゲからの触覚入力の影響、第4章は走路歩行におけるヒゲ触覚と視覚の関係について述べている。成育期の物的、社会的環境を豊富化すると、中枢神経系や行動の発達が促進されるというEC(Enriched Condition)効果については、比較的多くの知見があるが、これらの現象を引き起こす要因の特定を試みているものはまれである。本論文において、論文提出者は、特に探索行動と攻撃行動について、発達に影響を持つ刺激を、特に触覚に注目して詳しく調べることを目的としている。

第1章行動発達における初期環境の豊富化の影響

 ECは、探索行動を増大させる効果を持つことが確認され、また、社会的相互作用が物的EC効果の発現の前提条件であることが示された。さらに、探索行動と相関を持つことが報告されている攻撃行動についても調べられたが、EC飼育による攻撃性の増大は見られず、探索行動と攻撃行動の発達は必ずしも同時進行的ではなく、動機づけは別であることが示唆された。

第2章雄マウスの攻撃行動の発現に対する他個体雄からの感覚刺激の影響

 第2章では、飼育環境中で他個体雄から受ける種々の感覚刺激や、その雄との物理的相互作用の中で、攻撃性を抑制、あるいは促進する要因が調べられた。その結果、金網を隔てて他個体と同居させた雄は、単独飼育や、同居個体のいるものに比べ、高い攻撃性を示すようになり、包皮腺の重量も増大することがわかった。また,飼育期間中長期に渡りヒゲを除去されると、攻撃開始が、正常のままであったものに比べ遅くなることがわかった。これらの結果と従来の知見とから、他個体雄のにおいが、脳下垂体-生殖器系を活性化し、その結果テストステロンレベルが上がり、攻撃性と包皮腺の発達とを促進したものと推論された。また、相手に対する慣れは、このような内分泌系の活性化を抑えるものと推察された。また、マウスでは、ヒゲからの触覚入力が、攻撃行動を誘発する要因であることが知られているが、ヒゲからの入力を長期に渡り遮断することにより、このような経路の発達が阻害されるらしいことが示された。

第3章EC効果におけるヒゲからの触覚入力の影響

 第1章でみられたようなEC効果に、ヒゲからの触覚入力が関与している可能性を検討したが、ヒゲ触覚入力の遮断による変化は特に見られなかった。従って、この章では、ヒゲは、探査行動や歩行運動の調節といった機能を持ことが確認されたものの、幼若時から長期に渡りヒゲを除去することはこうした機能の獲得を不可逆的に損なうものではないことが示された。この結果から、第2章で、長期に渡りヒゲを除去された個体で攻撃開始が遅くなるのは、幼若時にヒゲ触覚入力を遮断されたことにより、触覚器系自体ではなく、攻撃の動機づけと関連した系が永続的な変化を受けたものと推論された。また、未知雄に対する自発的な探索には、ヒゲの除去による影響は見られなかった。従って、長期間のヒゲ除去による、攻撃開始の遅れは、自発的な探索の低下のためとはいえず、やはり、探索とは別の機能が損なわれたことが示唆された。

第4章走路歩行におけるヒゲ触覚と視覚の関係

 第4章では、MUG系統のモロシヌスマウスを用い、まず走路歩行における触覚と視覚の使い分けを調べた。その結果、走行には常に視覚を用いているが、ヒゲ触覚は、走路の幅が広がるにつれ、徐々に用いるようになることが分かった。次に、幼若時におけるヒゲ触覚の剥奪が、このような走路の歩行に必要な、触覚以外の感覚、運動能力に与える影響が調べられた。その結果、運動能力の発達においてヒゲの有無が効果をもたらす特定の時期があることを示唆する結果が得られた。

 以上のように、本研究は、探索行動や攻撃行動の発達に関して、従来"EC効果""Isolation効果"として一括して述べられてきた概念をいくつかの要素に分離し、これら個々の要素の寄与、およびこれら相互の関係を明らかにした。また、特にヒゲ触覚入力に注目することにより、探索行動と攻撃行動の発達や動機づけの相違点が示唆された。これらの成果は、行動が、外部環境との相互作用により発達していく機構を解明していく上での重要な知見であり、生物科学の進歩に貢献するものと評価される。

 なお、各章とも、木村武二との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、本論文提出者は、博士(理学)の学位を授与できると審査委員全員一致して認めるものである。

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