学位論文要旨



No 111031
著者(漢字) 吉田,学
著者(英字)
著者(カナ) ヨシダ,マナブ
標題(和) ユウレイボヤ受精時における卵の精子活性化・誘引機構の解明
標題(洋) The studies on the Activation of Sperm Motility and Speror Chemataxis in Ascidians
報告番号 111031
報告番号 甲11031
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第2944号
研究科 理学系研究科
専攻 動物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森沢,正昭
 東京大学 教授 塩川,光一郎
 東京大学 教授 神谷,律
 東京大学 教授 長沢,寛道
 東京大学 助教授 奥野,誠
内容要旨

 受精の際、精子が卵に遭遇する確率を高めることは種の存続上重要なことである。このような仕組みのひとつとして、卵由来の物質が精子を活性化し誘引するといった、精子活性化・走化性現象がある。この卵への精子走化性は、腔腸動物、原索動物など、数多くの動物でその現象が知られているが、精子誘引物質は何か、またそれがどのように精子鞭毛運動を制御しているかについては、いくつか示唆的な報告があるが、分子レベルでの解明はまだほとんどなされていない。そこで、私は精子の活性化・走化性機構の解明のため、原索動物であるユウレイボヤを用いて、受精前後における精子の活性化・走化性現象の解析、精子活性化・走化性物質の分析及び単離精製、精子活性化・走化性物質の鞭毛運動制御機構の研究を行なった。

第1部:受精過程における精子走化性について

 ユウレイボヤ精子は海水に懸濁してもほとんど運動性を示さない。しかし周囲に卵が存在すると、精子は着しく活性化され卵へと誘引される。これは、精子活性化物質及び精子誘引物質が卵から周囲の海水中に放出されるためであると考えられる。そこでまずこれらの由来について検討した。ホヤの卵は卵細胞、及び付属器官であるテスト細胞、卵黄膜、濾胞細胞からなっているが、これまでは精子誘引物質の放出部位は濾胞細胞であると考えられてきた。そこで、ユウレイボヤの卵を付属器官とそれらを除いた卵細胞に分離し、各々の成分の精子誘引活性を精子運動解析装置CellSoftを用いて調べた。すると精子活性化および精子誘引活性を示したのは卵細胞のみで、精子誘引源と考えられていた濾胞細胞や、卵黄膜、テスト細胞はこの活性を示さなかった。この結果は、精子誘引物質の放出部位は卵細胞自身であることを示している。また、多くの精子は卵細胞の植物極側に誘引された。これは卵細胞における精子誘引物質の放出部位は植物極側であることを示唆している。

 これまでの精子走化性の定量法は、誘引源近くの精子密度、精子鞭毛打の角度、精子の描く軌跡の半径などの変化を測定し行なわれてきたが、いずれも走化性を直接的に定量化するものではないため決め手にかけていた。そこで私はこの精子走化性を定量化する方法として新たな方法を開発した。卵を中心とした極座標上においては、精子の位置は卵の中心からの距離、及びある任意の基準線からの角度の二成分で表わすことができる。そこで、精子のある一定時間内の軌跡の、精子と卵の中心からの距離の変化量を測定して、進化性の指標とした。

 この定量法を用いて、次に受精前後における卵の精子活性化・誘引能の変化を解析した。Ca2+欠如海水処理で卵から濾胞細胞を除去し、受精前後の精子誘引活性の変化を経時的に観察し、走化性指標を算出して統計処理を行なった。その結果、受精直後に起こる卵形変化を境に有意に精子走化性がなくなることが示された(図1)。

図1.受精前後における走化性指標の時間変化○:精子走化性指標。説明本文参照。

 以上の結果は精子活性化物質が未受精卵から海水中に放出されることを示している。実際卵を約12時間入れておいた海水(卵海水)は、卵を取り除いても精子を著しく活性化する。また卵海水を加えた寒天を微小ガラス管の先端に充填して精子懸濁液中に浸すと、精子はまず活性化され、次にその先端に向かい走化性を示した。これらの結果は卵海水中には精子活性化物質ばかりでなく精子誘引物質が含まれていることを示している。一方、cAMP分解酵素であるphosphodiestraseの阻害剤であるtheophyllineを充填したガラス管は精子を活性化するが、精子誘引性は示さなかった。しかし卵海水を充填した先端はtheophyllineであらかじめ活性化した精子を誘引する。従って精子活性化機構にはcAMPが関与するが、走化性機構には関与しない、すなわち精子活性化機構と走化性機構は全く別の機構であることが考えられる。

第2部:精子活性化・誘引物質の単離・精製

 第1部で述べたように、ユウレイボヤ卵海水には強力な精子活性化及び精子誘引活性がある。そこで、この卵海水を出発点として精子活性化・誘引物質の精製を行なった。ユウレイボヤ1500匹より得た1.21の卵海水を凍結乾燥し、エタノール抽出及びクロロホルム-水系二層分配を行ない、それぞれエタノール可溶画分、水画分から活性成分を回収し、粗精製標品を得た。これをSepPak C18逆相分配カラム、及びShim-pak PRC-ODS、TSKgel ODS 120Tの3種のHPLCカラムで順次精製し、205nmの紫外吸収に単一ピークを持つ活性標品を得た(図2)。この活性標品は依然として精子活性化能と精子誘引能両方を備えていることから、2種の活性は同一物質によるものと思われる。そこで私はこの物質を精子活性化・誘引物質(Sperm-Activating and -Attracting Factor;SAAF)と命名した。このSAAFの活性は非常に強く、ガラス微小管の先端にこれを充填して精子懸濁液中に入れたところ、ガラス管のまわりの精子は即座に活性化され、卵海水ではあまり観察することができなかった"chemotactic turn"と呼ばれるカーブを描きながらガラス管の先端に集まる様子が観察された。

図2.TSKgel ODS-120Tの溶出パターン●:精子活性化活性;実線:205nmの吸光度。(+)精子誘引活性強、(±)弱、(-)なし。説明本文参照。

 SAAFの化学的性質を調べるため、まずこの標品を煮沸30分行なったがその活性は損なわれなかった。また3種のタンパク質分解酵素、グリコエンドペプチダーゼA、7種のレクチンをこの標品に作用させたが、いずれも精子活性化・精子誘引のどちらの活性にも影響を与えなかった。この結果はSAAFがタンパク質ではないこと、SAAF分子の中に糖鎖が含まれないかもしくは活性部位には関係していないことを示している。この活性を持つ物質は酸性の低分子物質であることも示唆されており、現在この物質の構造解析を試みている。

第3部:精子活性化・走化性の細胞内情報伝達機構

 多くの生物の精子走化性現象には外液中のCa2+が不可欠であること、またユウレイボヤやニジマスの界面活性剤による精子除膜モデルは、その再活性化にcAMPが必要であることが知られている。このことは精子の運動にはCa2+及びcAMPが関与していることを示唆している。そこでSAAFによるユウレイボヤ精子活性化及び走化性の分子機構について、Ca2+とcAMPに注目して検討した。まずCa2+欠如海水中に懸濁したユウレイボヤ精子にSAAFを作用させたが、精子活性化現象は見られなかった。しかしこれにCa2+を加えると精子は著しく活性化した(図3)。また、3種のCa2+ channel阻害剤のSAAFによる精子活性化に対する作用を調べたところ、L型channel選択的阻害剤であるnitrendipine,verapamilは全く阻害作用を示さなかったのに対し、T型channel選択的阻害剤であるflunarizineだけが強い阻害作用を示した。以上の結果はSAAFは精子細胞膜のT型Ca2+ channelを開き、細胞外からCa2+を流入させ、それによって精子活性化が起こることを示唆している。

図3.SAAFによる精子活性化に対するCa2+の影響○:精子運動率。SAAFを精子懸濁液に加え(矢頭)、30秒後にCa2+を加えた(矢印)。説明本文参照。

 次にcAMPの作用について検討した。phosphodieateraseの阻害剤、theophyllineは、細胞内のcAMP量を亢進させる働きを持つ。第1部でも述べたようにtheophyllineはユウレイボヤ精子を海水中で活性化するが、この作用はCa2+欠如海水中でも見られた。SAAFはCa2+欠如海水中では精子を活性化しないことから、theophyllineによる細胞内cAMPの上昇がCa2+に関係なく精子を活性化すると考えられる。そこで、SAAFによる精子内のcAMP量の変化を125I-cAMPを用いたradioimmunoassay法で調べた。Ca2+欠如海水中に懸濁した精子にSAAFを作用させたところ、cAMP量は変化しなかったが、これにCa2+を添加し運動を活性化する条件にしたところ、cAMP量が約4倍に増大した(図4)。このことはSAAFにより細胞外から流入したCa2+がadenylyl cyclaseを活性化することなどによってcAMP量を増大させ、このcAMPが精子活性化を引き起こすことを示している。

図4.SAAFによる精子活性化時の細胞内cAMP量の変化SAAFを精子懸濁液に加え(矢頭)、35秒後にCa2+(○)もしくはCa2+欠如人工海水(●)を加えた(矢印)。説明本文参照。

 ところで、このCa2+欠如海水中に懸濁したtheophylline活性化精子中にSAAFを先端に充填したガラス微小管を入れたところ、精子はガラス管先端のSAAFに走化性を示さず、円運動をするのみであった。しかし外液中にCa2+を添加すると急に精子運動の軌跡が変化し、SAAFに対して走化性を示すようになった(図5)。この結果は精子走化性にはCa2+が不可欠であるが、Ca2+によるcAMPの増加といった機構は走化性現象には働いていないことを示す。SAAFは単一の物質であると考えられるので、精子活性化と精子走化性は1つの物質が違った経路を介して別の作用を起こしていると考えられる。

図5.SAAFに対する精子走化性に対するCa2+の影響(A)Ca2+添加前;(B)Ca2+添加後。説明本文参照。

 以上のように、ユウレイボヤにおける精子運動開始及び精子走化性機構についての今回の研究により、ユウレイボヤ卵は精子活性化・誘引物質を卵の付属細胞ではなく卵細胞自身の植物極付近から放出していることを明らかにした。この精子活性化作用及び誘引作用は単一の非タンパク質性の低分子物質SAAFにより引き起こされる。SAAFは精子の細胞外Ca2+の流入を引き起こし、それによって細胞内cAMPが上昇し、精子の運動を活性化する。一方、SAAFに対する精子走化性には細胞外Ca2+が大きく関与し、細胞内cAMPの上昇は直接に関与しない。今後は今回の結果をふまえ、精子活性化・走化性の分子機構についてさらに詳細な研究を行なう予定である。

審査要旨

 卵による精子の活性化及び誘引現象は、受精の確率を高めるシステムとして重要であり、また鞭毛運動の制御機構を研究していくうえでよい系である。本論文は原索動物であるホヤを用い、精子活性化・走化性機構の研究を行い3章からなっている。第1章は受精過程における精子活性化・走化性について、第2章は精子活性化・誘引物質の単離・精製、第3章は精子活性化・走化性の細胞情報伝達機構について述べられている。

 第1章では、まずユウレイボヤ精子は海水中では運動性を持たないが、卵は受精時に精子を著しく活性化し、卵の植物極へ誘引すること、誘引物質は濾胞細胞等の付属細胞でなく卵本体から放出されることが明らかにされた。更に走化性を定量化する方法として極座標を用いた方法を開発し、受精時直後の卵形変化を境に卵の精子活性化・誘引活性能が失われることを明らかにした。又、cAMP分解酵素であるphosphodiestraseの阻害剤、theophyllineが精子活性化能を持つが、精子誘引能を持たないことを示し、この2つの活性は違う機構で制御されていると結論した。

 第1章の結果から、ユウレイボヤ卵海水には強力な精子活性化、精子誘引活性がある。第2章では卵海水から精子活性化・誘引物質を精製した。ユウレイボヤ1500匹より得た1.2lの卵海水を凍結乾燥し、エタノール抽出及びクロロホルム-水系二層分配を行ない、粗精製標品を得、これを3種のHPLCカラム(SepPak C18、Shim-pak PRC-ODS、TSKgel ODS 120T)で順次精製し、205nmの紫外吸収に単一ピークを持つ活性標品を得た。この活性標品は精子活性化能と精子誘引能両方を備えていることから、2種の活性は同一物質によるものと結論され、この物質を精子活性化・誘引物質(Sperm-Activating and-Attracting Factor;SAAF)と命名した。このSAAFをガラス微小管の先端に充填し、精子懸濁液中に入れると、その周囲の精子は即座に活性化され、"chemotactic turn"と呼ばれるカーブを描きガラス管先端に集まる。

 この標品の活性は煮沸30分、タンパク質分解酵素、グリコエンドペプチダーゼA、7種のレクチンの処理により影響を受けなかった。この結果はSAAFがタンパク質ではないこと、SAAF分子の中に糖鎖が含まれないかもしくは活性部位には関係していないことを示唆している。現在この物質の構造解析を試みている。

 第3章では、精子活性化及び走化性の分子機構をSAAFを用い検討している。まずCa2+欠如海水中では精子はSAAFによって活性化、走化性を示さないが、Ca2+を加えると両方の活性が起こった。また、3種のCa2+チャネル阻害剤では、flunarizineが強い阻害作用を示した。このことはSAAFは細胞膜のT型Ca2+チャネルを開き、細胞外からCa2+が流入し、精子活性化・走化性を起こすことを示唆している。

 一方、精子活性化能を持つtheophyllineはCa2+欠如海水中でも精子を活性化する。しかしこのtheophylline活性化精子でもCa2+欠如海水中ではSAAFに走化性を示さない。従ってcAMPは精子活性化には必要であるが精子走化性には必要ではない。また、精子内のcAMP量の変化をradioimmunoassay法で調べたところ、SAAFを加えただけではcAMP量は増大せず、Ca2+添加による運動活性化時にcAMP量が増大した。このことは流入したCa2+がアデニル酸シクラーゼを活性化し、cAMP量が増大してcAMPが精子活性化を起こすことを示している。

 以上、ユウレイボヤ未受精卵では受精に至るまでの間に精子活性化と誘引の2つの現象を引き起こす物質、精子活性化・誘引物質(SAAF)が放出され精子に作用し、Ca2+とcAMPを必要とする精子活性化の経路と、Ca2+のみを必要とする精子走化性の経路を開くことが明かとなった。この研究は精子活性化・走化性の双方の細胞情報伝達機構を明らかにした最初の研究であり、今後SAAFの最終精製と構造決定、精子活性化におけるCa2+依存性アデニル酸シクラーゼやAキナーゼの関与、走化性におけるCa2+の作用機構の解明を通してさらなる研究の飛躍が期待される。

 本論文の第1章は森沢正昭、稲葉一男博士、第2章は森沢正昭、稲葉一男、村田道雄博士、第3章は森沢正昭、石田克美、稲葉一男博士との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行なったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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