本論文のテーマは、動物細胞の情報伝達系の一つであるイノシトールリン脂質系において中心的な役割を演ずるとされているホスフォリパーゼの生体内の作用を、出芽酵母の分子遺伝学の手法を用いて解明することを目的として行なわれた。本論文は3章からなり、第1章ではPLC1遺伝子がホスフォリパーゼCをコードすることを示し、第2章では温度感受性plc1変異体を分離し、それを用いてホスフォリパーゼCの生理的役割を検討した。第3章では、PLC1遺伝子と相互作用する遺伝子の検索と性格付けを行なった。 序 イノシトールリン脂質代謝系による情報伝達は、外界からの刺激に対して細胞が応答する際に重要な役割を果たしている。ホスフォリパーゼC(PLC)はこの系の中心となる酵素である。哺乳類のPLCはその構造によって、、、という、3種のアイソザイムに分類される。これらのアミノ酸配列を比較すると、X領域、Y領域という、相同性の高い領域がみられ、ここが酵素活性に必須であることが知られている。PLCの解析は、おもに噛乳類の細胞を用いて生化学的に行われており、PLC-、に関しては、その制御機構がだんだん明らかになりつつある。しかし、in vivoでPLCが情報伝達に働いていることが証明されているのは、ショウジョウバエにおける視覚の情報伝達系で働いているnorpA遺伝子産物のみである。 ところで、出芽酵母Saccharomyces cerevisiaeにもイノシトールリン脂質が存在し、プロテインキナーゼCやPIキナーゼ等、この情報伝達系にかかわると考えられる酵素が同定されていることから、イノシトールリン脂質代謝による情報伝達系が存在することが示唆されている。酵母では遺伝子破壊などを初めとした遺伝学的解析が容易であり、また分子生物学的手法のほとんどが利用可能であることから、出芽酵母でイノシトールリン脂質代謝系を研究することで、新たな知見が得られると考えられる。その出発点として、私は修士課程においてPLC類似遺伝子であるPLC1をPCR法を用いて単離した。PLC1は869アミノ酸からなる分子質量101kDaのタンパク質をコードしており、その一次構造は哺乳類のPLC-に最もよく似ていた。遺伝子破壊実験により、PLC1が増殖に重要であることを今までに明らかにした。本研究では、PLC1遺伝子の生化学的解析、条件致死変異株の解析、関連遺伝子の解析等を行い、細胞増殖におけるPLCの役割を考察した。 1.PLC1遺伝子がホスフォリパーゼCをコードしていることの証明 plc1遺伝子破壊株の増殖低下は細胞内のPLC活性がなくなったためかどうかを知るために、ラット由来のPLC-1のcDNAを酵母TDH3プロモータにつなぎ、plc1遺伝子破壊株に導入した。すると、形質転換体株の増殖はほぼ野生型と同じ速度にまで回復した。PLC-1がPLC1遺伝子産物の機能をin vivoで代替できることは、PLC1がPLCをコードしていることを間接的に示している。PLC活性の存在を直接証明するために、酵母細胞内のPLC1遺伝子産物のイノシトールリン脂質分解活性を測定する系を構築した。TDH3プロモータの下流にPLC1をつなぎ、PLC1を大量発現させた細胞では、野生型と比較してイノシトールリン脂質分解活性が上昇していた。これにより、PLC1遺伝子産物がPLC活性をもつことを証明できた。 2.条件致死plc1変異株の単離とそれを用いたPLCの生理的役割の解析 ある遺伝子の機能を調べるときに、外界の条件を変化させることによってその機能が速やかになくなるような変異株を単離して解析することは、非常に有効な手段である。ここでは、温度を37℃に上げることによってPLC1の機能が失われるような変異株の取得を試みた。 現在では、遺伝的背景が異なるさまざまな野生型株が出芽酵母の研究に用いられている。どの株が温度感受性変異の単離に最も適しているかを調べるために、まず、複数種の野生型株でPLC1の遺伝子破壊実験を行った。RAY-3A-D由来のplc1破壊株は著しい増殖遅延を示したが、37℃でも増殖可能であった。また、この遺伝子破壊株は、糖の濃度を高くした培地上では増殖できないことがわかった。YPH501とW303由来のplc1破壊株は25℃で増殖遅延を示し、37℃では増殖不能であった。これらの表現型は、Payne & Fitzgerald-Hayes(1993.Mol.Cell.Biol.13:4351-4364)や、Flick & Thorner(1993.Mol.Cell.Biol.13:5861-5876)によるPLC1に関する報告とほぼ一致する。いっぽう、KA31由来のplc1破壊株はどの温度でも増殖不能であった。このように、plc1遺伝子破壊株の形質は株の遺伝的背景によって異なることがわかった。 YPH501とW303由来のplc1破壊株は温度感受性であるが、これらの株ではSSD1/MCS1遺伝子が機能を失っていることが知られている。これらのplc1破壊株にSSD1/MCS1遺伝子を単コピーで導入すると、この温度感受性は部分的に回復した。このことより、これらの破壊株の高温での表現型はPLC1単独の機能を直接反映していない可能性があるため、どの温度でも増殖不能となるKA31を温度感受性変異の取得のために用いた。変異原であるヒドロキシルアミンを用いてPLC1をもったプラスミドを処理することにより、五つの温度感受性plc1変異株、TY51〜TY55を取得した。これらの変異部位を決定したところ、これらはすべて、X領域またはY領域に変異を起こしていた。しかも、変異が起こって置換されたアミノ酸は、すべてのPLC間で保存されていた。これより、PLC活性自体が出芽酵母の増殖に重要であることが示唆された。先に述べたPLC活性測定系を用いて、これらの温度感受性plc1遺伝子産物の活性を測定した。plc1-3、plc1-5遺伝子産物のPLC活性は弱い温度感受性を示したが、これらには制限温度下でも活性があることから、37℃ではより多くのPLC活性が細胞の増殖に必要な可能性がある。いっぽう、plc1-2、plc1-4遺伝子産物の活性は、25℃でも検出限界以下であった。これより、これらの変異はすべて、PLC活性そのものを低下させる変異であることが明らかになった。 これらの変異株の増殖の様子を調べた。いずれの変異も、温度を37℃に上げて後、6時間以内に増殖を停止した。このときの細胞は、細胞周期の特定の時期で止まってはおらず、PLC1は細胞周期の特定の時点で働いている遺伝子ではないことが示された。温度感受性変異株の中には、100mM塩化カルシウムを培地中に加えることにより増殖を回復するものがあった。このことは、カルシウムイオンに依存した情報伝達経路とPLC1の関与している情報伝達経路とが、何らかの形で関連していることを示唆する。 3.PLC1ネットワーク関連遺伝子群の単離と解析 哺乳類のPLC-の制御機構はほとんどわかっていない。そこで、出芽酵母のPLC-のホモログであるPLC1遺伝子を用いて、これに関連した新しい因子を取得することを試みた。 まず、温度感受性plc1-5変異株に多コピーで導入すると制限温度での増殖が回復する遺伝子を3個クローン化した。これらはすべてplc1-5に特異的な抑圧を示し、塩基配列を決定したところ、どれもリボソームタンパク質であった。リボソームの構成が異なることにより、正常に働くPLC1遺伝子産物ができたために抑圧が起こったという可能性とともに、PLC1が翻訳に関与している可能性も考えられる。 つぎに、plc1-3株から多コピー抑圧遺伝子を2個クローン化した。これらの遺伝子は、すべての温度感受性plc1変異を抑圧したが、遺伝子破壊株の増殖を回復させることはできなかった。このことより、これらの遺伝子産物はPLC1遺伝子産物の活性、安定性、あるいは量を増加させるような因子であると考えている。一つの抑圧遺伝子の塩基配列を決定したところ、これはII番染色体左腕上の遺伝子YBL0814であった。複数の野生型株を用いて、YBL0814の遺伝子破壊を行った。どの株においても、ybl0814遺伝子破壊株は野生型株と変わらない増殖を示し、この遺伝子は増殖に必須ではないことがわかった。 RAY-3A-D由来のplc1遺伝子破壊株の増殖を回復させ、かつ温度感受性である復帰変異を単離した。復帰変異を起こした遺伝子をクローン化したところ、これはII番染色体右腕上の遺伝子YBR1734であった。複数の野生型株を用いて、YBR1734の遺伝子破壊を行った。ybr1734遺伝子破壊株の表現型は株によって異なり、致死あるいは増殖遅延を示すことがわかった。KA31由来の破壊株は致死、RAY-3A-D由来の破壊株は増殖遅延と、この2種の株に関してはplc1破壊株と同様の表現型を示すことより、PLC1とYBR1734とは一部重複した経路で働いていると考えている。 以上のように出芽酵母を実験材料に用い分子遺伝学的方法によるPLC研究の基礎を築いた。ここで得られたプラスミドおよび酵母菌株は既に多くの他種生物研究者に分与され貴重な実験系を提供している。本論文2篇は共著であるが、実験計画とその遂行は申請者によって行なわれ、他のものはプラスミドの分与者と実験指導者である。以上の評価に基づき、本研究は博士(理学)の学位に十分値するものであることが、審査委員全員の一致により認められた。 |