内容要旨 | | 深海底堆積物中には様々な有機化合物が含まれている。有機溶媒抽出可能な化合物(脂質)に関しては、ガスクロマトグラフィー(GC)およびGC-質量分析計を用いれば約千種類の化合物について同定、定量が可能である。これらの有機化合物はそれぞれ特定の生物種や生物群に起源をもっている。いくつかの化合物についてはその起源の生物群がかなり特定され、またその生合成メカニズムに関する理解もすすんでおりバイオマーカーと呼ばれている。これまでの研究では、バイオマーカーが地球の歴史や古環境の復元のために応用されることは非常にまれであった。しかしながら、堆積物中に保存されているバイオマーカーの絶対量から過去のその生物の存在量に関するする情報をえること、また環境因子(例えば温度やpH)によって変化することが知られている。バイオマーカー間の量比から古環境因子を定量化することは原理的に可能である。 本研究では、中央太平洋東経175度線上、北緯48度から南緯15度でえられた深海底表層堆積物23サンプルおよび西赤道太平洋で得られた深海底堆積物柱状試料についてその中に含まれている有機化合物について分析した。本研究の目的は、まず深海底表層における有機化合物の分布を明らかにし、どのような生物相をもった海洋環境もしくは気候条件下にどのような有機化合物が堆積するのか、ということに関する知見をえること。そして本研究および過去の研究により明らかにされた起源の特定された化合物濃度や相対濃度から過去2万年の地球表層の生物相および環境因子の変動を明らかにすることにある。過去2万年は地球が氷河時代から現在(間氷期)という大きな気候変動を経験した時代である。この大きな気候変動を深海底堆積物中に保存されている有機化合物を用いて復元する。この種の研究には従来微古生物学的手法(プランクトン殻化石の群集解析など)および無機化学的手法(炭酸カルシウム中の微量元素分析など)が用いられてきた。 中央太平洋東経175度線上で北緯48度から南緯15度までほぼ等間隔に表層堆積物23サンプルについて、脂質成分について分析した。主に陸上高等植物のワックスとして生合成される炭素数25-36の直鎖アルカンは北半球高緯度に多く、中緯度まで徐々に減少し、赤道付近では低いレベルにある(図1)。この緯度方向の分布パターンは現在の大気中のエアロゾルの分布と非常によい一致を示し、アジア大陸の黄土高原で砂塵嵐によって形成された土壌粒子が北半球高緯度の外洋域まで運ばれていることを示している。したがって炭素数25-36の直鎖アルカンは陸起源粒子の深海底堆積物への寄与を推定する指標として用いることが可能であることが明らかにされた。 図1:深海底堆積物中に含まれている炭素数25-36の直鎖アルカンの緯度方向の分布 深海底堆積物柱状試料KH92-1-5cBXは西赤道太平洋で採取された。放射性炭素年代からこの試料は過去約20,000年間に堆積したものであることが明らかにされた。これらの試料を時系列で15サンプルについて有機化合物を分析した。陸上植物のバイオマーカーである炭素数25-36の直鎖アルカンや炭素数24-28の直鎖アルコールは大陸氷床が融解する時代(16,000-7,000年前)に顕著に低い濃度(沈積流量として表した)を示した(図2)。これはこの時代に大気循環が弱まって、陸上からこれらの有機化合物の運ばれる量が大きく減少したことを反映しているものと考えられる。 図2:西赤道太平洋の深海底堆積物中に含まれる陸上植物起源のバイオマーカーの過去2万年間の変動 また海洋表層の生物生産量の変化を海洋生物起源の化合物を用いて復元した。図3には動植物プランクトン一般によって生産される炭素数17-20の直鎖アルカン、プリスタン、プリムネシオ藻類のよって生合成されるアルケノン、渦鞭毛藻によって生合成されるディノステロールについて示した。これらのいくつかのプランクトンのバイオマーカーも陸上植物起源の化合物と同じく、氷床が融解する時代に有意に低い濃度を示している。したがって海洋表層の生物生産量がこの時代に減少したことを示しているものと考えられる。これら2つの現象は、大気循環の強さの変動-赤道域での湧昇の変動-生物生産量の変動という図式で関連づけられるものと思われる。 図3:西赤道太平洋の深海底堆積物中に含まれるプランクトン起源のバイオマーカーの過去2万年間の変動 海洋表層に生息する植物プランクトン、プリムネシオ藻類は炭素数が37-39、二重結合を2-4個もった直鎖メチルおよびエチルケトン(アルケノン)を細胞膜の一成分として生合成する。このうち特に炭素数37のメチルケトンは、不飽和度がこの生物の成育温度と関係のあることが知られている。すなわち、細胞膜の流動性を一定に保つために低い水温下で成育した個体は、より融点の低い不飽和度の高い化合物を作り出す。本研究では、深海底堆積物中に保存されているこの化合物を分析し、他の研究で求められた水温-アルケノン不飽和度の関係式にあてはめることにより西赤道太平洋では過去2万年間、表層水温はほぼ28度で一定であったことを明らかにした(図4)。 図4:西赤道太平洋の深海底堆積物中に含まれるアルケノンの不飽和度から明らかにされた、過去2万年の表層水温 |
審査要旨 | | 本論文は全4章からなり第1章は研究の背景が簡潔にレヴューされており,第2章では深海堆積物の表層に含まれる脂質の特徴について,第3章では西太平洋赤道海域の約2万年前までの堆積物に含まれる脂質の変動について,そして第4章はアルケノンを用いた海面温度の変動の推定についての研究が論述されている. 従来,海洋環境の変遷を研究する分野,すなわち古海洋学では生物硬組織を用いた研究が主体であった.とくに有孔虫や放散虫などプランクトン殻化石に含まれる情報を読み取ることが行なわれきた.しかし陸上植物や海洋の植物プランクトンの多くは殻を作らない.したがって第1次生産者としての植物の生産量と物質循環そして気候変動との関連を明かにするためには,植物の存在量を指示する有効な指標(バイオマーカー)が求められていた.本論文は堆積物に含まれる脂質についてそのバイオマーカーとして有効性を検討したものである. 太平洋の緯度方向トランセクトサンプルにおいて,脂質は緯度と密接な関連を示し,大きく陸上植物起源(風によって運搬されるので風系と一致)のものと海洋プランクトン起源のもの(湧昇海域と一致)に識別されることがわかった.これは脂質のバイオマーカーとしての有効性を初めて立証してものであり高く評価される.また過去2万年にわたる変動では最終氷期最寒期に,陸上植物起源および海洋プランクトン起源の両方のフラックスが増加していることを明かにした.この結果も脂質が過去の環境変動のマーカーとして極めて有効であることを示している.さらにアルケンノンを用いた海水温度指標も深海堆積物において有効に使えることを立証した. 以上の成果はすべて世界に先駆けたものであり,有機地球化学的手法の古海洋学への適用という分野を新たに開拓したものとして高く評価できるので,博士論文として十分の価値があることを認める. なお本論文第4章は河村公隆,中村俊夫,平朝彦氏との共同研究であるが,論文提出者が主体となって分析と検証を行なったものであり,論文提出者の寄与が十分であると判断する. |