学位論文要旨



No 111064
著者(漢字) 岩谷,洋子
著者(英字)
著者(カナ) イワヤ,ヨウコ
標題(和) バルトロメオ・アンマナーティ論考 : その建築作品および理想的都市像の分析
標題(洋)
報告番号 111064
報告番号 甲11064
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3308号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 香山,寿夫
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 加藤,道夫
内容要旨

 バルトロメオ・アンマナーティ(Bartolomeo Ammannati;1511-1592)は、16世紀のさなかを生きたいわゆるマニエリスムという時代を代表するフィレンツェの建築家の一人である。彼はその美術制作を彫刻家として開始し、イタリアの各地で広く仕事をするうちに、やがて建築家としても法王やメディチ家などをパトロンとして活躍するようになり、重要な位置を占めるにいたった。

 ところが彼については意外に研究が少なく、彼の建築家としてのモノグラフはマッツィーノ・フォッシの著作のみであるが、フォッシの研究はアンマナーティが生涯の後半に制作した現存する具体的な建築作品のみを対象としており、アンマナーティが建築家としての自覚を持ち始めた時期とその仕事の内容についての分析を行っていないという点で不十分なものである。すなわち、建築家アンマナーティの全貌は未だ明らかにされておらず、それを明確に把握することがまず本論文の課題であった。

 したがって、彼の生涯の全過程にわたるあらゆる経歴とその仕事を改めて捉らえ直さなければならず、本論文では原資料と実地調査から、アンマナーティが生涯のどの時期にどこでどのような制作を行ったかを確定することを試みている。現地において彼が関わったと見られる建築作品を自らの目で丹念に調査することはもちろんであるが、彼が残したウフィツィ美術館所蔵の図面集やリッカルディアーナ図書館における彼の3冊のノートといった原資料には直接あたり、さらに彼の手紙や彼についての同時代人の記述などの重要とみられる資料についてはすべて原典にあたって新しく検討し直した。

 こうした研究の結果、建築家としてのアンマナーティの制作活動については、彼が相当早い時期に建築家としての自覚をもって仕事をしていたことが明らかになった。また、彼が大きく影響を受けた建築家としては、最も早い時期では彼が初めてヴェネツィアを訪れたときに知り合ったヤコポ・サンソヴィーノであり、ついでその後フィレンツェで知り合ったジロラモ・ジェンガが挙げられる。アンマナーティはサンソヴィーノからは古典主義的な手法を学び、ジェンガからは透視図法やストゥッコの仕事などを学んでいる。

 また、当時建築家の重要な仕事であった支配者の都市入城や婚礼の際に催される祝祭の飾付けについても、アンマナーティはかなり早い時期に実地に学んでいたことが明らかとなった。

 アンマナーティが建築家として実際に働いた実例は第2次パドヴァ滞在期で、それは主に庭園の仕事であった。彼は、当時パドヴァの著名な法律学者であり美術品の蒐集家でもあったマルコ・マントヴァ・ベナヴィデスのもとで働き、そこではパラッツォの中庭に凱旋門を制作した。この頃から彼は、膜面に設けられた開口部を一直線に繋いで軸線を通すことにより空間を視覚的に連結する効果を意識し、その表現方法を模索していたと言える。

 この後、アンマナーティはローマに赴き、古代建築の研究をするうちに法王庁とのつながりも得て、そこでユリウスIII世の戴冠式に関する幾つかの祝祭のための飾付けの仕事を果し、ヴィッラ・ジュリアやパラッツォ・フィレンツェなどの仕事を果たすことになる。フィレンツェに帰還してからは、彼はそれまで建築家として経験したことを生かしながらコジモI世をはじめとするメディチ家のために働くが、60才頃には宗教的に深く改悛し、アンマナーティ自らが創立者の一員となってヴァザーリらと共に結成したアカデミア・デル・ディゼーニョに対して書簡を送り、過去における奔放な自己の作品を悔い改めた由を伝えた後彫刻の制作を一切拒み、ひたすら建築家としてイエズス会のためのコレッジォや教会堂の計画に専心する。これはアンマナーティの生涯における一大転機であった。

 アンマナーティが生前描いた数々の図面は、『チッタ・イデアーレ』と題する1冊の図面集としてまとめられ、現在ではウフィツィ美術館の素描資料室の所蔵となっている。そこには彼が理想都市を扱った建築書を著そうと意図していたことが明確に示されている。

 建築書としての『チッタ・イデアーレ』は、実用性に重きを置いて実例を列挙している点や図面による表現が中心であること、各ページにおける文章と図面の割付け、平面図と立面図の配置を考えるならば、セルリオの著した建築書に最も近い構成であると言うことができる。その内容としては、アンマナーティはあらゆる種類の都市内の建物を取り上げ、その理想的な表現を求めたと考えられる。しかし、彼の描いた理想都市には、都市を有機的に組織する統一性は欠如し、これは15世紀以来の固定された幾何学的都市像に対して彼はおそらく関心をもたなかったためと考えられるが、このことは彼が描いた唯一の理想都市の全体図にも示されている。

 本論文においてはアンマナーティの理想都市像を把握するために、『チッタ・イデアーレ』に取り扱われているあらゆる種類の都市内の建築を各々の種類に分類した上で、それらとともに実際に彼が設計し実現させた建築についても比較し検討を行うことにした。

 パラッツォにおいては、アンマナーティが実際に制作した建築にその理想像が表されている。彼はそこでは、常に建物の入口から中庭、庭園までを明確な見通し線を突き通すことで結び付けようとしていた。こうした見通しの軸線を通すことで視覚的に空間を連結するという主題を具現したものとして、ミケランジェロが計画したパラッツォ・ファルネーゼが挙げられる。『チッタ・イデアーレ』の中に、その平面が一切変更を加えられずにひき写されているのは、感銘のゆえと考えられる。また、アンマナーティは多くのパラッツォにおいてセルリアーナを適用し、ヴィッラの設計においても、彼が常に関心をもっていた建物と庭園の空間の連結の仕掛けを実現している。さらに教会堂建築においてアンマナーテの関心は、教会堂の入口から奥へと向かう長軸方向に直交する身廊の中央の軸線から両側の礼拝堂に向かう横方向のパースペクティヴによる空間の効果に集中していることが読み取れる。

 ところで、アンマナーティの創造性はこれまであまり論述されず、その作風は常に他の著名な建築家との比較によって位置付けられてきた。たしかにアンマナーティはミケランジェロやサンソヴィーノのような完成した独自の様式を確立することはなかった。アンマナーティはミケランジェロの模倣者・追従者として解釈されてきたが、彼がミケランジェロから多くを学んだとはいえ、つねに彼自身の意識と判断によりある種の選択を行なっていることが窺われる。彼はミケランジェロがブルネッレスキ以来の建築の流れに対して示した斬新性を確認した上でなお、ミケランジェロの作品における有機的な形態を択ぶことはなく、むしろブルネッレスキ以来の枠組みの中にとどまるほうを択び、それをいかに展開し自由に表現するかという穏健な方法へと導こうとしている。アンマナーティは理論的な古典様式からの「自由」(licenza;リチェンツァ)を彼自身の解釈によって作品の中に適用し、「自由」によって全体と各部分の調和のとれた数的な比例体系を崩し、その上で部分に強いアクセントを置くといった方法を取ることで視覚上違和感のない構成を造り出そうとしている。これは彼が理論そのものよりも、視覚的な効果に関心があったことを示している。

 アンマナーティは、新たな時代を展開するような革新性を持つ方法を選択しなかったが、それは様式という面についてのみ着眼するゆえのことであって、それをもってアンマナーティを単にサンソヴィーノやバンディネッリなどの古典主義的な建築家や彫刻家の亜流として位置付けるのも誤りと思われる。

 部分のあるべき姿についての彼の考察、とくに庭園的な外部空間に関わっての彼独特の空間構成法、明確な見通し線の採用、セルリアーナの自由な引用など、彼が残したものを細かく見ていくならば、16世紀の時代における空間のさまざまな局面に積極的に関わり、多くの試みをした一人の建築家の空間に対する実験の過程を読み取れるのである。アンマナーティは様式化や確固とした完成形をつくりあげようとする方向へ向かわなかったゆえに、またその一方でそれらの拘束を受けることなく、空間を創造する可能性について自由に探ることができたのである。

審査要旨

 本論文は、イタリアのマニエリスム期に活躍した建築家、バルトロメオ・アンマナーティの生涯をつぶさに検討してその作品と目すべきものを確定し、その上でそれら建築作品と彼が遺した図面集に見られる理想都市像の分析を行なうことによって、建築史における彼の位置づけを求めたものである。

 アンマナーティについては、これまで個々の彫刻作品や建築作品に関して論文が書かれることはあったが、生涯にわたって作品を論考したモノグラフとしては、彫刻についてキネー、建築についてフォッシのものがあるのみで、後者も彼の生涯の後半についてしか扱わず、アンマナーティの建築家としての全体像は明らかにされていなかった。本論文はあらためて原資料を精査し直し、さらに実地調査を行なうことでこれを求めんとしたものである。本論文でまず評価すべきはこの綿密な基礎作業であって、これによってアンマナーティが従来考えられてきたよりもずっと早期から建築家としての意識をもち、実地の仕事に携わって来たことが明らかにされている。

 本論文はまず、建築家としてのアンマナーティの活動について、細かく年月をおさえながら、その生涯の各時期にどの都市でどのような仕事に従事していたかをひとつひとつ検討している。本論文では、彼が実際に建物そのものに取組んだのは16世紀半ばの第2次パドヴァ滞在期からであるとしているが、ただそれに先立つ時期においても、すでにヤコポ・サンソヴィーノやジロラモ・ジェンガなどの建築家の影響を受け、また当時盛んに行なわれた権力者の都市入城式や結婚式などの祝祭の飾り付けの現場に立会うなど、彫刻家として出発しながらも建築家として自立するための準備を行なっていることを指摘している。

 こうして本論文はアンマナーティの最初の建築作品として、パドヴァのマルコ・マントヴァ・ベナヴィデスの中庭の仕事をあげているが、とくにそこに造られた凱旋門による空間の分断と連結の手法が彼の生涯を貫く主題となっていることに注意を喚起している。この2度目のパドヴァ滞在後は、アンマナーティはローマやフィレンツェなどで建築家としてさかんに活動するが、本論文はこれらの時期についても個々の作品の制作年代や彼の仕事への関わりかたについて細かく考察を行なっている。

 さらに本論文は、ウフィツィ美術館に所蔵されているアンマナーティの図面集『チッタ・イデアーレ』およびリッカルディアーナ図書館に所蔵されている彼のノート3冊を実地に検証し、アンマナーティが建築書の刊行を意図していたことを明らかにしている。本論文はそれをセルリオの建築書に近い構成のものと推定し、アンマナーティが考える理想都市におけるあらゆる建築物について理想のタイプを求めたとしている。またこれに関して彼の理想都市の関心が、そうした個々の建築物に集中したために都市全体の有機的統一体としての観念に欠けることがあったとしているのは興味深い指摘である。

 本論文はこうして『チッタ・イデアーレ』に見るパラッツォ、ヴィッラ、聖堂建築といった建築類型と実際に彼が造った建物とを比較対照して、彼の建築における理想と現実の間の共通点と相違点を検証している。この中では、前述の開口によって見通し線を確保した隔壁の設置による空間の分断と連結の手法やセルリアーナの多用などが彼の作品の特徴として指摘されているが、とくに聖堂建築において、奥行方向に直交する側面の礼拝堂へ向かってのパースペクティヴの効果が強調される点に彼の方法の独自性が見られるという指摘も重要なものである。

 本論文はさらにこうした分析を基盤として、マニエリスムの建築家としての彼の位置づけを試みている。その中ではとくにサンソヴィーノやバンディネッリ、あるいはミケランジェロといった彼に先立つ建築家や彫刻家との関係の中での考察が重要であろう。本論文はアンマナーティの作品が、彫刻においても、また建築においても明確な理論づけという点では難点をもち、統一性ある確固とした完成形を示すことがないという事実を認めながらも、それをもってアンマナーティの作品をサンソヴィーノやバンディネッリのような古典主義の建築家や彫刻家の亜流、あるいはミケランジェロのたんなる追従者としてしまうのは誤りであると指摘している。すなわち、16世紀マニエリスムの時代の、しかもすぐ直前に偉大な先輩たちをいただく世代の人間として、アンマナーティはある種の「選択」によって自らの位置を定めているというのが本論文の解釈である。アンマナーティはミケランジェロの「革新」を最上のものと認めながらも、自らはそれを引き継ぐよりはブルネッレスキ以来の枠組を択び、それをいかに自由に展開するかという穏健な方法を採用したのであって、彼は調和的な比例の体系をあえて崩し、その代わりに各部分に強いアクセントを配することで全体のバランスをとる方法を開発したというのが本論文の見解である。

 以上のように、本論文はこれまで顧みられることの少なかったアンマナーティという建築家を択り上げて、その生涯と作品、遺稿について徹底的に調査・分析を行なって編年と論考を行ない、さらに当時のトップクラスの建築家の蔭にあって、その追従者、模倣者という見解が一般的であった彼の手法を再検討して、これを評価する新しい視点を切り拓いたという点でまことに興味深く、今後のマニエリスム建築一般の研究の展開にとって重要な問題提起を行なっていると考えられる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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