学位論文要旨



No 111098
著者(漢字) 服部,泰久
著者(英字)
著者(カナ) ハットリ,ヤスヒサ
標題(和) 湿式ペーパ摩擦材の摩擦振動安定性に関する研究
標題(洋)
報告番号 111098
報告番号 甲11098
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3342号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 加藤,孝久
 東京大学 教授 木村,好次
 東京大学 教授 酒井,宏
 東京大学 教授 田中,正人
 東京大学 助教授 畔津,昭彦
内容要旨 1.序論

 ペーパ摩擦材は,湿式で使用されることにより安定した摩擦係数-すべり速度の関係(-v特性)が得られるため,優れた摩擦材として自動車の自動変速機クラッチなどに広く用いられている.このクラッチではジャダーと呼ばれる摩擦振動が起こることがあるが,これは装置の耐久性低下や機能低下を招くため大きな問題となっている.初等的な摩擦振動理論では,質量m,ダッシュポットc,ばねk(m,k,c>0)からなる1自由度の力学系に摩擦力N(N:垂直力)が作用するとき,次の不等式からこの摩擦系の安定性が判別できるとしている(1自由度の理論).

 

 自動変速機の専用油ATF(Automatic Tranamission Fluid)は,摩擦振動対策として,この理論に基づいて勾配’=d/dv>0となるように設計が行われているが,ペーパ材の材料特性に関しては明確な設計指針がないのが実状である.ペーパ材の特徴的な性質である柔軟さと多孔性が摩擦振動に影響していることは確実と考えられるが,この関係を系統的に取り扱った研究は今までに見られない.そこで本研究では,ペーパ材の変形と,ペーパ材内部を流れる潤滑油の流動抵抗との相互作用まで考慮して,ペーパ材の材料特性が摩擦振動安定性に及ぼす影響を実験的・理論的に明らかにすることを目的とする.

2.試料および試験機

 柔軟さ・多孔性に関するパラメータとして,厚さ・気孔径(透過性)・熱処理(硬さ)を変化させたペーパ材試料を用意した.各試料の材料力学的な評価については,ロックウェル硬さ試験機を利用してクリープ試験を行った.そして,摩擦振動のような高周波の振動に対してはペーパ材は弾性体とみなせることを確かめ,その弾性率を測定した.潤滑油試料には市販のATFとそのベースオイルを用いた.また,製作した試験機については,動的な測定を行う必要から力学的な特性を評価し,その摩擦トルク検出部が1自由度力学系で表されることを確かめ,m,c,kの値をそれぞれ見積もった.

3.実験と1自由度理論の検証

 まず,基本的データの蓄積のために,ペーパ摩擦材・潤滑油・面圧のすべての組に対して定常速度の摩擦試験を行い,-v曲線を取得した.その結果,ベースオイルを用いた場合の-v曲線はペーパ材試料・面圧によって同一にならない場合があった.

 次に,各ペーパ材試料の材料特性と摩擦振動との関わりを明らかにすべく,実際に摩擦振動を発生させて,その安定限界の状態について調べた.具体的には,まず,ベースオイルを用いた場合の-v曲線が,vの増加に伴って’(<0)が0に近づく特性を利用して,振動発生/非発生の臨界駆動速度vcritを摩擦振動に対する安定性の指標と定めた.ペーパ材試料の種類・面圧・ロードセルの剛性を変化させた場合の臨界駆動速度vcritを実験から求めた結果,vcritは条件により異なる値を示した.ペーパ材試料ごと,あるいは,面圧ごとの-v曲線の違いが臨界駆動速度vcritに及ぼす影響を排除するために,1自由度の安定判別式(1)を用いた評価を行った.すなわち,(1)式左辺は右辺の減衰係数cを打ち消すように働くため負減衰と見ることができるが,定常速度摩擦試験によって測定した各条件の-v曲線および臨界駆動速度vcritから,臨界状態におけるこの負減衰を見積もった.この値は右辺の示す一定値cと等しくならず,熱処理の小さい試料ほど,気孔径が大きい試料ほど,厚さの大きい試料と小さい試料で相対的に大きくなり,ペーパ材の材料特性に依存することを示した.さらにこの値は,すべての条件においてcより小さく,1自由度理論が安定領域を広く見積もり過ぎていることを指摘した.この原因を解明し,ペーパ摩擦材の特性が摩擦振動の安定限界に及ぼす影響を明らかにするべく,次の理論的研究を行った.

4.ペーパ材の変形と多孔性を考慮した摩擦振動理論

 乾式ブレーキの鳴きの現象は,部品の構造やその振動モードに強く依存する面があるものの,摩擦面における複数の自由度の連成振動による動的な不安定として起こることが通説となってきている.このことから,ペーパ材の場合にも垂直方向の自由度が摩擦振動の安定性に及ぼす効果は無視できないと考え,これを摩擦振動理論に取り入れた.そして,ペーパ材/潤滑油のシステムを,粘性液体を含む多孔質弾性体でモデル化し,このモデルとばね-ダッシュポット-質量からなる1自由度の力学モデルが,それぞれ変動する摩擦力と垂直力を相互に伝達する摩擦振動モデルを導出した.実際は,BARDETの手法を用い,粘性液体を含浸した多孔質弾性体の動的な応答を近似的にVOIGT物体(2要素線形粘弾性モデル)で置き換えて理論展開した.この振動モデルに,垂直方向と水平方向の変位振幅が比例し,かつ,すべり速度最大時に垂直力が最小になるような垂直振動が作用していると仮定して,この振動モデルが固有周期で振動するときのエネルギーバランスから,次の摩擦振動に対する安定判別式を導出した.

 

 (ここで,,’は,それぞれ駆動速度vにおける摩擦係数およびその速度勾配,Nは垂直荷重,wは摩擦振動の周波数,cは摩擦トルク検出系の減衰係数,rは垂直振動と水平振動の振幅比を表す未定係数,A,Gは多孔質弾性体の骨格のLAMEの係数(Gはせん断弾性係数),Kf,fはそれぞれ液体の体積弾性係数,粘度,,はそれぞれ多孔質体の気孔率,DARCYの透過係数,p,pfはそれぞれ多孔質体の固体部分の密度,液体の密度を表す.)

 また,(2)式を用いてvcritに関するすべてのデータを整理した結果,共通の定数rによって臨界状態における負減衰((2)式左辺の和)を一定値cに近づけることができた.このことから,垂直変位の変動による負減衰((2)式左辺第2項)を考えることで,1自由度理論では説明できなかった,臨界状態における負減衰に関する不一致を説明できることを示した.さらに,(2)式を用いて,ペーパ材の材料特性(せん断弾性係数G・DARCYの透過係数)が,振動発生/非発生の臨界駆動速度vcritに及ぼす影響を計算した結果は,ペーパ材試料の種類(熱処理・気孔径)を変えた場合の実験値を定性的に説明できた.安定判別式(2)から,湿式クラッチ・湿式ブレーキの摩擦振動に対する安定性を高めるためには,1自由度理論に基づいた設計では不十分であることを示した.そして,材料特性に関してはペーパ材の弾性係数を小さくすればよいことを実験的・理論的に確かめ,さらに,ペーパ材の気孔率を大きく,潤滑油の体積弾性率を小さくすればよいことを理論的に予測した.

5.結論

 (a)柔軟さ・多孔性に関するパラメータ(熱処理の大小・気孔径の大小・厚さ)を変化させたペーパ材各試料について,摩擦振動に対する安定性の指標として振動発生/非発生の臨界駆動速度(安定限界速度)vcritを実験的に取得した.このvcritおよび摩擦係数とすべり速度の関係曲線(-v曲線)から見積もった.臨界状態における負減衰(-critN〓t)は,vcritに関するすべてのデータについて従来の摩擦トルク検出系の減衰係数cと一致せず,1自由度理論が安定限界を正しく与えないことを指摘した.また,この臨界状態における負減衰が,ペーパ材試料に依存することを示した.

 (b)ペーパ材/潤滑油のシステムを,粘性液体を含んだ多孔質弾性体でモデル化し,このモデルを従來の1自由度のモデルに組み合わせることで,垂直方向の自由度を考慮した摩擦振動モデルを導出した.そして,水平振動と同期し,かつ,振幅が比例するような垂直振動が,このモデルに作用していると仮定して,新しい安定判別式を導出した.この安定判別式では,垂直変位の変動による負減衰を考えることで,1自由度理論では説明できなかった,臨界状態における負減衰に関する不一致を説明できることを示した.さらに,この式を用いた理論計算の結果は,ペーパ材試料の種類を変えた場合の実験値を定性的に説明できた.

 (c)湿式クラッチ・湿式ブレーキの摩擦振動に対する安定性を高めるためには,1自由度理論に基づいた設計では不十分であることを示した.そして,材料特性に関してはペーパ材の弾性係数を小さくすればよいことを実験的・理論的に確かめ,さらに,ペーパ材の気孔率を大きく,潤滑油の体積弾性率を小さくすればよいことを理論的に予測した.

審査要旨

 本論文は「湿式ペーパ摩擦材の摩擦振動安定性に関する研究」と題し,5章および付録A,Bからなる.

 自動車などの自動変速機には多孔体のペーパ摩擦材およびATF(Automatic Transmission Fluid)の組合せがトルク伝達のために用いられている.ペーパ摩擦材は,湿式で用いられることにより安定した摩擦係数-すべり速度の関係(-v特性)が得られるため,優れた摩擦材として自動車の自動変速機クラッチなどに広く用いられている.このクラッチにはジャダーと呼ばれる摩擦振動が起こることがあるが,これは自動車の乗り心地を悪化させ,また機器の耐久性低下や機能低下を招くため大きな問題となっている.従来,摩擦振動の発生限界(安定限界)は摩擦係数()とすべり速度(v)との関係からのみ論じられ,(d/dv)×(押し付け力)がある一定値に達すると摩擦振動が発生すると考えられていた.本論文ではこれまでの理論が不十分であることを示し,またペーパ摩擦材の材料特性が安定性に及ぼす影響を理論的・実験的に明らかにすることを目的としたものである.

 第1章「序論」では,ペーパ摩擦材の摩擦振動安定性および安定性に関する従来の1自由度振動理論について概説し,また本研究の目的および本論文の構成を述べている.

 第2章「試料および摩擦試験機」では,本研究で使用した実験試料の機械的性質を述べ,厚さ,気孔径,硬さをパラメータとして試料を選択したことを述べている.また,本研究のために設計・製作した摩擦試験機の特徴・性能について説明している.そして,試験機の力学的特性について触れ,続いて減衰定数を測定した実験についてその方法を説明し,実験結果を述べている.さらに,ロックウェル硬さ試験機を用いてペーパ摩擦材試料のレオロジー特性を測定した実験について触れ,摩擦振動のように高い周波数(本研究の場合には約200Hz)では,作動油を含浸していない摩擦材は弾性体として扱ってよいことを示している.

 第3章「湿式ペーパ摩擦材の摩擦振動試験」では3種類の試験について,試料,試験方法を述べ,続いて試験結果と考察を述べている.まず定常速度摩擦試験では一定すべり速度条件下で実験を行い,ベースオイルおよびATFを作動油として用いた場合のペーパ摩擦材の基本的静特性である摩擦係数-すべり速度の関係を求めている.変動速度摩擦試験ではすべり速度を正弦波状に与えて揺動摩擦実験を行い,その結果得られた摩擦材/作動油の振動学的特性を示し,加速度が自励振動の発生に及ぼす影響について考察している.また,安定限界取得試験ではすべり速度を直線的に増加させていくと,ベースオイルを用いた実験ではある速度で摩擦振動が停止することを利用して安定限界を求めている.そして,面圧,測定用ロードセルの剛性およびペーパ材試料の厚さ,気孔径,弾性率によって安定限界が変化することを示し,このことは従来の理論では説明できないことを指摘している.

 第4章「湿式ペーパ摩擦材の変形と多孔性を考慮した摩擦振動理論」では,前章の試験結果を受け,新しい摩擦振動理論の構築と検証を行っており,本論文の核となる章である.まず振動モデルの導出においては,従来の乾式ブレーキの摩擦振動(鳴き)現象の解析を参考にして,ペーバ摩擦材の横振動(摩擦面と垂直方向)まで考えた動的モデルを基礎としている.そして,ペーパ摩擦材を多孔質弾性体と粘性液体で置き換え,さらにBardetの理論を参考にして,線形ばねとダッシュポットからなるVoigt固体でモデル化している.最終的には,ペーパ摩擦材の材料学的特性,作動流体の流体力学的特性,試験装置の振動特性をパラメータとして含む1次元波動方程式を提案し,この波動方程式を解くことによって求められる垂直応力から摩擦力変動を求め,続いて振動1サイクル中に振動系に供給されるエネルギーと消費されるエネルギーとを比較することにより,摩擦振動安定判別式を導出した.この安定判別式は従来の安定判別式を含むばかりでなく,第3章で得た実験結果,すなわち,面圧・試験装置の固有振動数・ペーパ摩擦材の気孔径・剪断弾性係数などの影響を説明することができることを示している.

 第5章「結論」では,以上の結果を総括している.

 以上を要するに,本研究は理論および実験の両面から,湿式ペーパ摩擦材の摩擦振動安定性は摩擦材の材料特性にも依存することを新たに見出し,その影響を定量的に評価した.本研究で得られた知見は機械工学およびトライボロジーに寄与するところが大きい.

 よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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