学位論文要旨



No 111102
著者(漢字) 橋本,博文
著者(英字)
著者(カナ) ハシモト,ヒロフミ
標題(和) 凝縮相近傍におけるクラスター過程の分光学的研究
標題(洋)
報告番号 111102
報告番号 甲11102
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3346号
研究科 工学系研究科
専攻 機械情報工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小竹,進
 東京大学 教授 松本,洋一郎
 東京大学 助教授 西尾,茂文
 東京大学 助教授 飛原,英治
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
内容要旨

 「凝縮」という現象は,材料の製造過程やエネルギー伝達において,熱工学上重要な相変化の基礎過程である.しかし,そこで関与するエネルギーレベルは化学反応等と比べて桁違いに弱く実験や測定が困難であることから,その原子・分子の動的な凝縮メカニズムについては未解明のままである.特に,凝縮相が存在するような凝縮過程では,凝縮相近傍の分子(原子を含む)は熱的にエネルギーの低い状態にありクラスター化し易いことと,クラスターでは内部自由度により容易に並進運動エネルギーを失い得ることのために,分子はクラスター過程を経て凝縮すると考えられる.また,気相の分子は温度のより低い凝縮相と熱エネルギーの交換を行い,凝縮相から離れた位置から徐々にクラスター化が起こると考えられるので,凝縮相近傍でのクラスター分布は次のようになることが推測される.凝縮相から離れた位置で,まず小さなクラスター(Sクラスター)が生成し,凝縮相に近づくにつれて大きなクラスター(Lクラスター)に成長して,ついに凝縮相に凝縮するという分布である.しかし,これらが実際に存在し,どのような空間分布をしているのかということは実験的に確かめられていない.

 一般にクラスターを検出する方法としては,四重極質量分析計や飛行時間(TOF)法による質量分析が考えられるが,結合力の弱い分子クラスターの凝縮過程を研究する場合,イオン化による解離の問題や真空度の制約があることから,これらの方法は適当ではない.別のクラスター検出方法として光学的手法が考えられる.これには,主にクラスターを構成する分子が回転,振動,電子遷移により吸収,放射する光を分光測定する方法や,ラマン散乱のような散乱光を分光測定する方法がある.特に赤外分光分析法により分子内の振動エネルギーを測定する方法は,非常にエネルギーの低い赤外線を用いるため,結合力の弱い分子クラスターの研究には最適である.

 本研究は,凝縮において重要な役割を演ずると考えられる凝縮相近傍でのクラスター過程を明らかにすることを目的とするが,そのためにまず,超音速自由噴流を用いた分子クラスター生成実験により,赤外分光分析法による分子クラスターの検出,及びその同定について研究を行った.その結果,この方法によるクラスターの検出が可能であることを示し,さらに,分子動力学法によるスペクトルのシミュレーションを行い,スペクトルとクラスターサイズの関係を明かにした.次に,これらの検出法を用いて凝縮相近傍でのクラスターの存在及びその分布状態の研究を行い,主目的である凝縮相近傍におけるクラスター過程を明らかにした.

 まず,分子がクラスター化することにより,その赤外吸収スペクトルが単分子のものと比べてどのように変化するのかを調べるために,超音速自由噴流を用いてクラスターの赤外吸収スペクトルの測定を行った.試験気体として,亜酸化窒素(N2O)と二酸化炭素(CO2),希釈気体として,ヘリウム(He),アルゴン(Ar),窒素(N2)を用い,適当な濃度で混合し貯気槽に貯え,一定圧力で200mの小円形ノズルからフーリエ変換赤外分光装置(FTIR)の試料室に設置してある測定セル中へ噴出する.噴出した気体はメカニカルブースタポンプと油回転ポンプ(補助ポンプ)によって排気される.ノズルから噴出した気体は自由噴流を形成するが,このとき気体分子は断熱膨張により急速に冷却され,その一部はクラスターを生成する,FTIRの赤外線ビーム光は10mm隔てられたCsIレンズによりノズル先端から1mm下流で約1mmに集光される.気体濃度は1〜50%,ソース圧力は0.1〜3MPa(1〜30atm)の範囲で,それぞれ変化させた.

 実験の結果,測定された赤外吸収スペクトルは,気相では振動回転スペクトルを表すが,クラスター相ではピークを持つ連続分布(クラスターバンド)となり,その振動数(波数)は単分子の場合と比べ,高波数側にシフトしている(プルーシフト).一般に超音速自由噴流を用いた実験では,そのソース圧力と希釈濃度がクラスターの生成過程に大きく影響を与えるが,本実験では,特にソース圧力の変化に対し,N2O(1,3),CO2(3)のクラスターバンドに変化が見られた.これらのスペクトルは,ソース圧力が大きくなるにつれ,プルーシフトのシフト量が大きくなり,特にN2O(3)では,クラスターバンドのピークのシフト量が徐々に大きくなり,ソース圧力2MPaでは+23.5cm-1に達する.このシフト量の変化は,ソース圧力1MPaまでは大きく変化するのに対し,ソース圧力1〜2MPaではあまり変化しない.N2O(1),CO2(3)についてもシフト量は異なるものの,ほぼ同様な相似的結果を示す.ソース圧力が大きいほど自由噴流の断熱膨張による冷却効果が大きくなり,大きなサイズのクラスターが生成すると考えられることから,これらのスペクトルシフトはクラスターサイズに依存していることが推定でき,大きなクラスターほどスペクトルシフト量が大きいと言える.そこで,ソース圧力1〜2MPaのときに見られる安定したピークを「Lクラスター」,この波数よりも低波数側に現れる不安定なピークを「Sクラスター」と定義することにする.

 このように自由噴流中に生成する分子クラスターの赤外吸収スペクトル測定から,分子クラスターのスペクトルとそのクラスターサイズの簡単な関係を導くことはできたが,Lクラスター,Sクラスターの実際のクラスターサイズを同定することはできない.また,この実験条件下では高真空を必要とする質量分析等は不可能である.そこで,2次元の簡単な分子動力学(MD)シミュレーションにより,スペクトルとクラスターサイズの定性的な関係を調べることを試みた.その結果,クラスターサイズとスペクトルシフト変化に関する考察から,シフト量の変化が大きい約10個までのクラスターサイズが前述のSクラスター,変化が少なく比較的安定な10〜30個がLクラスター,変化しなくなる30個以上が固相の赤外吸収スペクトルにそれぞれ対応していることがわかった.

 以上から,分子クラスターの赤外吸収スペクトル特性が明らかになったが,これらの結果を用いて,本研究の主題である凝縮相近傍に生成するクラスターの検出及び分布の測定を行った.試験気体としてN2O,CO2,希釈気体としてHe,N2を用い,試験気体濃度25%,38%,50%の混合気体を実験に使用した.測定部は真空容器内に設置され,アルミニウム(Al)のチャンネル(高さ20mm,幅18mm,長さ50mm)が,液体窒素(LN2)で88Kまで冷却された銅(Cu)製の凝縮板に固定された構造になっている.チャンネル下部中央のスリット(12mm×2mm)から試験気体を流し込み凝縮板に凝縮させ,このチャンネル内に生成すると考えられるクラスターの赤外吸収スペクトルを測定する.実験中の真空容器内の圧力は2〜10torrに調整された.また,FTIRのサンプルビームをアパーチャで6mmに絞り,中央と上下にそれぞれ3mmと6mmずつ離れた計5ヶ所の位置で測定を行った.

 実験の結果,これらのスペクトルは,気相の特徴的な振動回転スペクトルとは異なったクラスター相に対応するものを示した.これは凝縮相近傍にクラスターが存在していることを意味する.また,各測定点でのスペクトルには,Sクラスター,Lクラスター,あるいはその両方が見られた.さらに測定結果は,クラスターサイズの分布が凝縮相に近い方から遠い方へ「Lクラスター→Sクラスター→(モノマー)」の順になっていることを示した.Lクラスターの分布にSクラスターの分布が重なる境界に着目し,凝縮相からその境界までの距離がクラスターの生成している領域を相似的に代表していると考え,これを「クラスター生成領域」と呼ぶことにする.

 真空容器内圧力を変化させるとクラスター生成領域も変化し,クラスター生成領域は真空容器内圧力の-3〜-4乗に比例することがわかった.つまり,真空容器内圧力は分子やクラスターの平均自由行程に反比例することから,クラスター生成領域は平均自由行程の3〜4乗に比例することになる.希釈気体の影響としては,Heの場合の方がN2よりもクラスター生成領域は凝縮相からより遠くに広がることがわかった.これは希釈気体がクラスター生成領域を広げる役割をしていると考えれば,He分子の平均自由行程がN2のそれよりも大きいことから説明できる.濃度については,He,N2,の両者の場合とも,試験気体の濃度が低いほどクラスター生成領域が凝縮相からより遠くに広がり,やはり,希釈気体がクラスター生成領域を広げる役割をしていると言える.

 本研究では,自由噴流を用いることによりクラスターの赤外吸収スペクトルを測定し,クラスターサイズによるスペクトルのシフト特性を明らかにした.この結果を用いることにより,凝縮相近傍に生成するクラスターの存在を証明し,クラスターサイズの分布,及びクラスター生成領域の性質を明らかにした.

審査要旨

 工学修士(工学)橋本博文提出論文は、「凝縮相近傍におけるクラスター過程の分光学的研究」と題し本文4章および付録よりなっている。凝縮現象は、材料製造やエネルギー伝達の基礎過程であり、熱流体工学上多くの研究がなされてきている。最近の高度な工業技術はこうした材料やエネルギー伝達の高機能化・高性能化を要求し,よりミクロスケールないし分子スケールでの現象の理解とその制御か必須となってきている。一般にこうした相変化過程は化学変化過程に対して関与するエネルギーが1〜2桁小さく精度を要求する実験や測定およびその制御は容易でない。このために凝縮過程の分子レベルでの理解は遅れており,ほとんどがマクロな平衡論に基づいて論じられてきている。すなわち,凝縮過程においては,まず平衡論的な凝縮核の存在を仮定し,それを核として分子が凝集・凝縮するものと解釈されてきている。しかし,アモルファス材料の製造や高速高密度のエネルギー伝達などの場合のような非常に速い凝縮過程では,凝縮核生成そのものが問題になり,こうした平衡論的解釈は成り立たない。そこでは分子動力学的過程,すなわち,分子のクラスター過程が現象を支配し,こうした立場での現象の理解が必要である。

 分子クラスターのエネルギーな熱エネルギーレベルでありその検出は容易でない。一般に,四重極質量分析器や飛行時間型(TOF)質量分析器などの分子の質量分析器が利用されておるが,これらの方法はイオン化によるクラスターの分解が大きな問題であるのと,凝縮過程の局所的なin situ測定が不可能である。他の非接触的な測定方法としては,クラスター化による分子のエネルギー状態の変化に注目した分光学的な方法が考えられる。このためには,まず,クラスター分子のエネルギー状態とそれに対応した分光学的特性の関係を明らかにしなければならない。このようなことから,本研究では,まずクラスター分子の赤外分光特性を研究し,その結果を用いて凝縮相近傍のクラスター分布を調べ,そのクラスター過程を実験的に解明している。

 第1章は序論であり、本研究に関連した今までの研究を概観し、本研究の目的と意義および概要について述べている。

 第2章は赤外分光分析法によるクラスターの同定に関する研究である。試験気体としては,亜酸化窒素(N2O)および二酸化炭素(CO2)を用いて,超音速自由噴流により分子クラスターを生成し,その赤外吸収スペクトル特性をフーリェ変換分光分析法により測定し,分子のクラスター化による振動状態の変化を明らかにしている。クラスターの赤外吸収スペクトルは,気体分子および固相状態ものと明白な差異をしめし,その結果を用いて定量的なクラスターサイズ(n)の同定までは困難であるが,定性的に2つのクラスター分布を特徴づけサイズの比較的小さいSクラスターおよびサイズの大きいLクラスターを定義している。簡単な分子動力学計算を行って,これらのクラスターは,それぞれほとんど表面分子のみでできているクラスター(n=2〜10個分子)と内積分子が多くなるクラスター(n>20)に対応することを明らかにしている。

 第3章は凝縮相近傍に生成するクラスターの存在とその分布に関する実験的研究である。液体窒素で冷却した凝縮板に上述の試験気体の凝縮相を形成し,その凝縮相近傍の赤外吸收スペクトルを測定し,その分析結果と前章の結果を比較することによりクラスターの存在とその分布状態を調べている。凝縮気体の圧力・濃度を変化させた凝縮相近傍の赤外吸収スペクトルの結果から,最も凝縮相に近い領域にはLクラスターが,凝縮相表面から離れるにつれてSクラスターが分布存在することを明らかにした。分子動力学的考察では凝縮相近傍にクラスターの存在が考えられ,このクラスターの存在が凝縮過程に大きな役割を果すことが考えらてきているが,いままで測定の困難さからこうしたクラスターの存在は実証されていなかったが,ここに始めてその実験的な検証がなされたことになる。さらに,圧力および濃度を変化させてLクラスターとSクラスター分布の変化を調べると,Lクラスターの領域は圧力および濃度が増すにしたがって減少する。Lクラスターの存在領域をクラスター領域とみなすとクラスター領域はほぼ分子の運動スケール(自由平均行程)の体積に比例する大きさであることを明らかにしている。

 第4章は結論で本研究で得られた結果をまとめている。

 以上要するに本論文は、分子のクラスターにおける振動スペクトルの変化を赤外分光分析により測定し,赤外吸収スペクトルによるクラスターサイズの同定法を確立し,その結果を利用して凝縮相近傍のクラスター分布を調べて,凝縮相近傍のクラスターの存在を実験的に検証し,そのクラスター過程を解明したものであり,工学上および工業上貢献するところが大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と詔められる。

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