学位論文要旨



No 111143
著者(漢字) 山口,武治
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,タケハル
標題(和) 半導体量子井戸を用いた導波路型偏光無依存光変調器
標題(洋)
報告番号 111143
報告番号 甲11143
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3387号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,邦雄
 東京大学 教授 藤井,陽一
 東京大学 教授 保立,和夫
 東京大学 教授 菊池,和朗
 東京大学 助教授 荒川,泰彦
 東京大学 助教授 中野,義昭
内容要旨

 半導体ヘテロ構造を原子層オーダで制御したいわゆる超格子構造は1970年Esaki及びTsuによって提案、実現された。更に、超格子構造の研究はその後目覚ましい発展を遂げ、一例として、電子の2次元的な閉じこめに着目した量子井戸構造の研究へと引き継がれ、2次元電子ガスを利用した高電子移動度トランジスタ等のデバイスが実用化されるにまで至っている。光物性に関しても半導体量子井戸はバルク半導体では実現不可能な事象を多く提供する。量子閉じ込めシュタルク効果は、量子井戸中にバルク半導体の1〜2桁以上の大きさに相当する光吸収係数及び屈折率の変化を与える。量子閉じこめシュタルク効果に基づいた光変調器は、小型、低駆動電圧、高速といった高性能デバイスを実現出来るため極めて有望視されている。ところが、量子閉じこめシュタルク効果は他の多くの光変調効果と同様に光波の偏光(TEモード・TMモード)に依存した特性を示すため、導波路型の光機能デバイスや光集積回路への応用において深刻な障害となっている。しかしながら、現在に至るまで量子井戸を用いた光変調器の研究は素子の高速化、小型化に重点が置かれており、偏光無依存化に関する研究例は極僅かである。

 本研究の第一の目的は、量子閉じこめシュタルク効果に基づいた導波路型光変調器の本来の高性能性を失わずに、その偏光依存性を解消することである。特に、量子井戸の人工性に着目し、従来の矩形ポテンシャルとは異なる「変形ポテンシャル」を導入することで偏光無依存化を狙う。第二の目的は理論的に変形ポテンシャルを簡便に取り扱う方法、及び作製誤差の影響を受けにくい変形ポテンシャル構造を探求することである。

 第2章「矩形ポテンシャル量子井戸光変調器とその偏光依存性」では、まず理論的内容として、矩形ポテンシャル量子井戸の光吸収係数と量子閉じこめシュタルク効果について論じ、そこから矩形ポテンシャル量子井戸の偏光依存性の根源を明らかにする。また、本研究で利用した変形ポテンシャル量子井戸の光吸収係数スペクトルの計算方法についても触れる。次に、実験的な議論に入り、量子井戸及び量子井戸光変調器のエピタキシャル基板を作製した分子線エピタキシー(MBE)装置の概要について述べる。特に、高エネルギー電子線回折(Rheed)の振動現象を測定すると、分子層レベルで結晶の組成、膜厚の制御が可能であることを示す。このことは、以降の変形ポテンシャルの作製の際、任意ポテンシャルを実現するため重要な役割を果たす。更に、本研究で全般的に利用した評価手段を説明し、AlGaAs/GaAs矩形量子井戸に対する評価結果を考察する。まず、MBE成長の基板温度に対するフォトルミネッセンス発光強度の依存性について論じ、光変調器作製に最適な成長温度を求めた。次に、フォトルミネッセンススペクトルの半値全幅を評価し、従来より報告されている矩形量子井戸と遜色無い品質のものであることを示す。更に、PIN構造を持つ矩形ポテンシャル量子井戸光変調器を作製し、その光吸収電流スペクトルを評価した。そこで、偏光依存性の根源となる重い正孔と軽い正孔のシュタルクシフトの違いを測定した。チタン・サファイアレーザを光源として矩形ポテンシャル量子井戸光変調器の電界-光吸収変調スペクトル測定を行い、矩形ポテンシャル量子井戸光変調器の偏光依存性を測定した。

 第3章「放物線量子井戸を用いた偏光無依存光変調」では、放物線量子井戸のシュタルクシフトが粒子の質量に依存しないことを利用して導波路型光変調器の偏光無依存動作が可能であることを示す。数百Åの井戸幅の放物線量子井戸を作製するのは困難であるため、本研究ではこれまでに提案されている図1の様な超格子列を用いた擬似放物線構造を採用している。放物線量子井戸を用いた電界-光吸収変調において偏光無依存光変調が実験的に得られているため、第二段階として電界-光位相変調の偏光無依存化を試みた。しかし、位相変調の性能を示す電気光学定数が通常の矩形量子井戸の半分から1/4程度しか得られないことが判明した。この原因の究明を行うため、多重化した放物線量子井戸の光吸収電流スペクトルの測定を行ったところ、室温では明瞭な励起子吸収ピークが観測できないことが分かった。また、多重放物線量子井戸の電子-重い正孔遷移に対するフォトルミネッセンススペクトルから、温度77Kにおいて、主ピークの両脇に小さなピークが発現する場合がしばしばある。単純な矩形量子井戸ではこの様な現象は極めて生じにくいことを考慮すると、放物線量子井戸の励起子ピークの異常な振る舞いは超格子列ポテンシャルに起因していると考えられる。擬似放物線構造の中心付近にある1分子層の障壁が2分子層となると励起子ピークは15nmも短波長側にシフトすることが数値計算により明らかになった。以上の結果から、擬似放物線量子井戸の中心よりのポテンシャル障壁付近は基底モードの波動関数が集中するため、障壁の構造の多少の変化がエネルギー固有値に与える影響が極めて大きくなると言える。つまり、擬似放物線量子井戸の多重量子井戸を作製すると、成長方向又は面内方向に対する擬似ポテンシャル構造に若干のばらつきが生じ、正味の励起子吸収ピークが広がることを明らかにした。

 第4章「井戸幅の相違を利用した偏光無依存光変調」では、前章の結果を受け、作製誤差の影響の少ない図2の様な変形ポテンシャル構造を提案し、これを利用して偏光無依存光変調を実現する。本ポテンシャル構造は、通常の矩形量子井戸の中に図中Bで示した2つの薄い障壁が挿入されており、この障壁の間に重い正孔を閉じこめ、軽い正孔は障壁Bをトンネルして外側の障壁まで広げる。つまり重い正孔の等価的な井戸幅に比べ軽い正孔のそれは大きくなる。矩形量子井戸のシュタルクシフトは粒子の質量と井戸幅の4乗に比例するから、適切な障壁の位置において、重い正孔と軽い正孔のシュタルクシフトが等しくなり、放物線量子井戸と同様な粒子の質量に依存しないシュタルクシフトを得ることが出来る。薄い障壁は波動関数の裾野に位置するため、障壁構造に若干のばらつきが生じても励起子ピークは広がらない、また、構造が簡便である等の特徴を持つ。さらに実験的にも、この量子井戸を多重化した試料に対する光吸収電流測定やフォトルミネッセンス測定では励起子ピークの顕著な広がりは観測されなかった。粒子の質量に依存しないシュタルクシフトも室温に於ける光吸収電流法で測定した。本量子井戸構造と擬似放物線量子井戸構造を1枚の基板に成長した試料のRheed振動とフォトルミネッセンス測定から、擬似放物線量子井戸構造の励起子ピークの広がりは試料の面内分布に依るものでなく、成長方向の構造のばらつきに起因していることも確かめた。本量子構造を用いてAlGaAs/GaAsリッジ導波路型光変調器を試作し、素子長514mの素子において、6Vの印加電圧で28nmの広い波長範囲に渡りTEモードTMモードとも-10dB以上(最大-32dB)の偏光無依存消光比を得た。波長886nm以上の波長域においては印加電圧に対するTEモード、TMモードの光出力変化がアナログ的にほぼ一致する偏光無依存光変調特性を得た。

図表図1 超格子列を用いた擬似放物線量子井戸。点線はもとの連続的な放物線量子井戸を表す。 / 図2 質量に依存した井戸幅を持つ量子井戸。

 第5章「実効的井戸幅近似」では、変形ポテンシャル量子井戸構造がこれまであまり研究されてこなかったのは、複雑な構造を簡便に説明する理論的背景が不足していることが原因と考え、それを補うことを目的とした。これまでに調べてきた変形ポテンシャル量子井戸のシュタルクシフトは粒子の質量に依存しない、ということに着目し、個々の変形ポテンシャル量子井戸の個々の粒子に対し実効的な井戸幅を定義することで無限ポテンシャルを有する量子井戸の問題に帰着させることを考えた。具体的には変分法を用いる。ハミルトニアンは変形ポテンシャルの分布関数を含む通常の形式を用いる。試行関数は無限量子井戸の固有関数である三角関数を利用する。その上で、変分パラメータとして無限量子井戸の井戸幅を用い変分計算をし、最適な変分パラメータを実効的な井戸幅と定義する。この方法を用いると、有限ポテンシャル矩形量子井戸に関しては、従来の無限量子井戸近似に比べ、誤差の少ない解析的な近似解が得られることが明らかとなった。また、放物線量子井戸構造に対しても解析的な近似解が得られ、固有値とシュタルクシフトに関し、物理的な振る舞いを良好に表していることを示した。最後に、第4章で提案した質量に依存した井戸幅を持つ量子井戸に本方法を適用すると、そこから得られる実効的井戸幅は本量子井戸を設計する際大変有効であることが示された。

 以上、本研究では変形ポテンシャル量子井戸を作製する上で障害となる点を明らかにし、それを克服して、良好な特性を持つ「変形ポテンシャル量子井戸を用いたAlGaAs/GaAs導波路型偏光無依存光変調器」を作製する技術を確立することが出来た。また、複雑な変形ポテンシャル量子井戸構造の固有エネルギー及びシュタルクシフトを簡便に取り扱う理論をあみ出した。

審査要旨

 本論文は、半導体量子井戸を用いた導波路型光変調器の構造の改良により光変調特性を偏光無依存化する方法について、理論および実験的研究を行なった成果を、6章にわたり記述したものである。

 第1章は序論であって、本研究の背景と目的および論文構成が述べられている。半導体量子井戸において、厚さ方向に電界を印加すると、光学遷移吸収端がエキシトン光吸収ピークを伴って低エネルギー側に大幅にシフトする量子閉じ込めシュタルク効果が生ずる。これにより吸収端付近の光波長域において大きな光吸収係数変化、屈折率変化が得られるので、導波路型の光変調器ならびに光スイッチにも応用され、それらの小型化、低電圧化、高速化に役立っている。しかしながら通常の矩形ポテンシャル分布量子井戸を用いた素子においては、光変調度は、TE(transverse electric)偏光モードに対しては大であるが、TM(transverse magnetic)偏光モードに対しては小であって、偏光依存性が大きい。光交換やある種の光波利用計測などの分野においては、上記の素子を偏光無依存化することが肝要であるが、詳しい研究は従来ほとんどなされていなかった。本研究の目的は、矩形分布以外の変形ポテンシャル分布構造を導入することにより量子井戸を用いた導波路型偏光無依存光変調器を実現すること、並行して、複雑な変形ポテンシャル量子井戸を理論的に簡便に取り扱う手法を提供すること、および作製誤差の影響を受けにくい変形ポテンシャル構造を探求することである。

 第2章は「半導体量子井戸光変調器」と題し、本研究に用いた研究手法その他を記述している。すなわち、量子閉じ込めシュタルク効果とその解析方法、分子線エピタキシー法による量子井戸試料作製方法とそれにおけるRheed振動による成長レート測定結果、矩形ポテンシャル量子井戸光変調器の偏光依存性の実測結果等が要約されている。

 第3章は「放物線量子井戸を用いた偏光無依存光変調」について論じている。矩形ポテンシャル量子井戸においては、シュタルリシフトエネルギーがキャリアの実効質量に比例するので、電子-軽い正孔遷移のシュタルクシフトは電子-重い正孔遷移のそれよりも小さく、これがTE光よりもTM光が光変調を受けにくいことの一大原因となっている。放物線ポテンシャル量子井戸を採用すれば、シュタルクシフトは実効質量に無依存となるので、偏光無依存化に有用である。実際のpin接合導波路型素子では、i型導波層に10組程度以上の量子井戸を積み重ねた多重量子井戸(MQW)を挿入する必要があり、各量子井戸の均一性が強く要求される。このことから、7個のGaAs極薄井戸が6枚のAl0.3Ga0.7Asトンネル障壁により結合された超格子列疑似放物線ポテンシャル構造を各量子井戸とするMQW試料を作製して実験した結果、光吸収変調および屈折率変調の偏光無依存化にある程度成功している。しかしこのような試料においても、フォトルミネッセンス、光吸収係数等の励起子ピークのブロードニングが顕著に生じていることを見出しており、ブロードニングは各量子井戸の中央付近にある2個の超薄膜障壁の厚さの不均一に起因していると推定できることを数値計算等により明らかにしている。

 第4章では「井戸幅の相違を利用した偏光無依存光変調」と題し、重い正孔に対して実効的井戸幅が小、軽い正孔に対して大となるような新しい量子井戸構造を提案し、詳細に研究を行なっている。矩形ポテンシャル量子井戸におけるシュタルクシフトは実効質量と井戸幅の4乗との積に比例することに着目し、軽い正孔に対する実効的井戸幅を重い正孔に対するそれよりも大、例えばGaAs量子井戸では1.4倍程度にすれば、上記2種類の粒子のシュタルクシフトを一致させ得ると考えられる。具体的には、矩形ポテンシャル量子井戸に厚さ数モノレイヤー程度の薄い障壁を2枚挿入し、中央部の量子井戸1個と両側の小さな量子井戸2個とに分割する。重い正孔は中央部の量子井戸にほぼ閉し込められるのでその実効的井戸幅は小さく、軽い正孔は上記障壁をトンネルして外側の小さな量子井戸部分にまで広がるので、実効的井戸幅が大となる。これを障壁挿入の質量依存性井戸幅量子井戸と名付け、詳しい計算により設計指針を明らかにし、実験により確認している。その結果、長さ514mのAl0.3Ga0.7As/GaAsリッジ導波路型光変調器において、6Vの印加電圧で28nmの広い波長範囲にわたりTEモードTMモードとも-10dB以上の偏光無依存消光比を得ることに成功した。この新しい量子井戸構造の特長は、挿入した2枚の薄い障壁が量子井戸の中央部から離れているために、それらの厚さが少々不均一になっても励起子ピークのブロードニングは少なく、良好な偏光無依存光変調を可能にしていることである。換言すれば、前章の放物線ポテンシャル量子井戸に比べて、構造簡単で作製し易いだけでなく、作製誤差の影響が少なく光変調特性が良好となるように改良されている。

 第5章は「実効的井戸幅近似」と題し、量子井戸の固有エネルギーを近似計算するための新しい方法を提案、展開している。この方法は変分法を用いて、任意の変形ポテンシャル量子井戸の固有エネルギー問題を、ある実効的井戸幅を持つ仮想的な無限障壁高さ矩形ポテンシャル量子井戸の問題に帰着させる方法であり、変分計算により固有エネルギーの近似値が、ならびに最適な変分パラメータとして実効的井戸幅が各々比較的簡便に算出される。本方法を有限障壁高さ矩形ポテンシャル量子井戸にまず適用して、固有エネルギーが近似誤差少なく算出でき実効的井戸幅も妥当な値となることを示した。次に放物線ポテンシャル量子井戸に適用して同様の結果を得ており、シュタルクシフトの粒子実効質量への無依存性を説明できる解析表現も導いている。更に質量依存性井戸幅量子井戸の重い正孔、軽い正孔それぞれの実効的井戸幅を計算し、これらに着目すれば偏光無依存光変調器の設計手順が簡略化されることを明らかにした。

 第6章は結論であって、上記の諸結果を総括するものである。

 以上のように本論文は、半導体量子井戸を用いた導波路型光変調器の偏光無依存化について理論的実験的に研究して、放物線ポテンシャル量子井戸の実際上の問題点を克服するのに有効な質量依存性井戸幅量子井戸構造を提案、開発して良好な特性の素子を試作し、さらにこれらの変形ポテンシャル量子井戸の解析、設計に有用な近似計算法を提案するなど、電子工学上貢献するところが多大である。

 よって著者は東京大学大学院工学系研究科電子工学専攻における博士の学位論文審査に合格したものと認める。

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