一見透明に見える物質でも強いレーザーのビームを入射させると熱的に励起された誘電率の揺らぎによって光が散乱される。動的光散乱法はこの散乱された光のスペクトルから試料の時間的・空間的構造を知る方法である。一般に散乱光は散乱を生じる原因によってレーリー、ブリュアン、ラマンという3つの成分にわけられる。レーリー成分は波動として伝搬しない、濃度や密度の揺らぎによる散乱であり、そのスペクトルは、中心周波数そのものは光源の周波数と同じであるが、揺らぎの減衰率に等しいひろがりを持っている。ブリュアン成分は音波として伝搬する密度の揺らぎによる散乱で、音波の周波数に等しい周波数シフトと音波の減衰に対応した幅を持つ。ラマン成分は分子振動による散乱であり、一般にブリュアン成分よりも大きな周波数シフトをともなう。 どの成分の場合でも、散乱光のもつ重要な情報はその絶対周波数ではなく、励起光源の周波数からのわずがな周波数シフトの部分にある。したがって散乱光を分光する方法としては、波長の絶対測定をおこなう回折格子を用いた分光器やファブリー・ペロー分光器は、精度や分解能の点から理想的ではない。それよりも、励起光源の一部を局発光として散乱光をヘテロダイン検出して、検出器の出力信号を電気的にスペクトル解析する方法、いわゆるヘテロダイン光混合分光法が最も適している。しかしながらこの分光法は主としてレーリー散乱の分光にのみ用いられ、それ以外にはブリュアン散乱の低周波領域(1GHz以下)にわずかな成功例があるにすぎない。 ブリュアン成分の分光を行う主たる目的は、人工的に作ることが困難な超高周波の音波に対する物性を熱的な音響フォノンを利用して測定することであり、主に用いられる領域は1GHz〜10GHz(この領域は現在ファブリー・ペローで分光されている)である。したがって、いかに高分解能とはいえ、ブリュアン成分の分光法として用いるにはヘテロダイン光混合分光法の現状は、甚だ不満足なものである。この最大の原因は、1GHz〜10GHzというブリュアン成分における周波数シフトは光の周波数に比べると極めて小さいが、電気的な信号としてみると相当の高周波であり、検出器の感度や後段の増幅器の雑音特性が非常に悪くなるという点にある。実際、可視領域の光のヘテロダイン受信を行って量子雑音限界に近い感度が得られるのは現在では10MHz程度までである。 この観点から励起光源の一部をヘテロダイン受信の局発光として用いるのではなく、もう一台別の周波数可変レーザーを用意して局発光とし、その周波数を掃引して散乱光とのビート信号は10MHz以下のある固定の周波数で受けるという方式を考案した。この方式によれば微弱な散乱光と局発光とのビート信号の受信は常にもっとも感度のよい周波数帯域で行うことができる。本来の周波数シフトを知るには励起光と局発光との差周波を知る必要があるが、これは両方とも強力なレーザービーム同士のビートであるから感度は不要であり、いくらでも高速な検出器を使用できる。 使用したレーザーはNd-YAGの第2高調波(532nm,100mw)である。このレーザーは外部端子に加える電圧によって約10GHzの範囲で完全に連続な周波数掃引ができる。装置の分解能は使用したレーザー自体の線幅、すなわち2台のレーザー同士のビート信号のスペクトル半値幅で決まるが、それは約300kHzでありファブリー・ペロー分光器では達成することが事実上不可能なものである。この装置を用いて液体2硫化炭素におけるブリュアン成分の分光を行って10MHzから3GHzにいたる領域で音速分散を測定した。GHz以上の高域での音速決定の精度は0.1%である。この周波数領域ではファブリー・ペロー分光器による分光がこれまでは唯一の測定法であったが、その場合の音速測定の精度がせいぜい1%であったのにくらべ大幅な高精度化に成功している。なお3GHzという現在の限界は、主としてモニター用のスペクトラム・アナライザの限界によるものであり、考案した方式自体には特に高周波限界はなく、いずれはブリュアン散乱の全帯域を覆うことも可能であろう。したがってこの新しい分光法(スーパーヘテロダインブリュアン分光法)は超高精度の音響モードフォノンスペクトロスコピーの手法として広く使用されることが期待される。 また、光を吸収する試料中でこの2台のレーザのビームを交錯させて差周波数の超音波を発生させることによって、従来の熱フォノンによるブリュアン散乱とほぼ等価な情報が得られ、飛躍的に信号対雑音比の高い新しいフォノンスペクトロスコピーを構築した。実験の結果は約20dBの信号強度の増大を示した。この方法(強制ブリュアン分光法)によって信号強度の不足のため長い積算時間を要するという熱フォノンによる従来の自発的なブリュアン散乱法の最大の欠点を克服することに成功した。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |