学位論文要旨



No 111152
著者(漢字) 曽根原,剛志
著者(英字)
著者(カナ) ソネハラ,ツヨシ
標題(和) 周波数可変レーザを用いた新しいブリュアン散乱法
標題(洋)
報告番号 111152
報告番号 甲11152
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3396号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 田中,肇
 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 教授 高木,堅志郎
 東京大学 教授 黒田,和男
内容要旨 1.はじめに

 ブリュアン散乱法は、ゆらぎの音波伝搬成分、すなわち熱音響フォノンによって散乱された光を分光することによって、フォノンの周波数と寿命を知る方法であり、機械的に励振することが困難な、ギガヘルツ帯超音波におけるほとんど唯一の超音波スペクトロスコピーの手段となっている。

 ブリュアン散乱は、ゆらぎの非伝搬成分による散乱であるレーリー散乱と同様に、流体力学的モードによる散乱である。流体力学的モードによる光散乱がラマン散乱と大きく異なるところは、ゆらぎによる光の変調周波数が光の周波数自身に比べてはるかに小さいため、非常に高い分解能の分光が必要になる点である。これまで、レーリー散乱には光子相関法が、ブリュアン散乱にはファブリー・ペロー分光器が、ほとんどの場合使用されてきた。光子相関法は、分解能は高いが、周波数帯域の不足のため、ブリュアン散乱の分光法としては使用することができない。しかし、ファブリー・ペロー分光器の分解能はブリュアン散乱の分光としても十分なものとはいえないのが現状である。

 これらとは異なる分光法として、励起光の一部を局部発振器として散乱光をヘテロダイン検出し、検出器の出力を電気的にスペクトル解析する方法がある。この方法は汎用の分光法としては原理的に最も高い精度と分解能を有しており、レーリー散乱も分光できる。周波数帯域も光子相関法に比べるとはるかに広く、ブリュアン散乱の分光も可能である。しかし、高周波における検出系の感度の低下のために、ブリュアン散乱としてはごく低周波の領域に帯域が制限されていた。

 また、流体力学的モードのもうひとつの大きな特徴として、レーリー、ブリュアンいずれの場合でも散乱角によってスペクトルが変化することが挙げられる。したがって散乱角を変えながら分光を行うことが必要となるが、ヘテロダイン法ではこれが非常に面倒なものとなっている。

 以上に述べた欠点により、高い分解能その他多くの利点を有しながらも、ヘテロダイン法は光散乱の分光法としては広く用いられていない。本研究の目的はこれらの欠点を解決して、ヘテロダイン法をブリュアン散乱の全周波数領域で使用可能なものとし、超高周波領域における高精度かつ広帯域な超音波スペクトロスコピーの手法として確立することである。以下では、まず角度走査の問題を解決する光学系を紹介し、ついで周波数可変レーザの使用した新しい分光法による、ヘテロダイン光散乱法の大幅な広帯域化について述べる。最後に、CWレーザ光による新たな超音波発生技術を利用する、飛躍的なS/N改善について報告する。

2.光散乱における角度走査法の改良

 散乱角を走査するためには検出する方向が、励起光を試料に入射させる方向のいずれかを変えなければならない。光子相関法では前者は検出器を移動させることによって、後者はレーザを試料のまわりに回転させることによって実行できる。ところがヘテロダイン法の場合には常に局発光と散乱光の光路を一致させたうえで、検出器に入射させなければならないから、どちらも片方だけではうまくゆかない。これはヘテロダイン光散乱系の大きな欠点の一つであった。そこで我々は、レーザを動かさずに簡単に入射角の走査が行える光学系を作成した。我々の方法では、回転ステージを回すだけで、入射角をかえられ、角度もステージの回転角として直読できる。我々が開発した光学系を図.1に示す。我々はこの光学系を含むヘテロダイン光散乱装置を作成し、いくつかの液体試料のレーリー線の分光を行い、干渉系の効率を落とさずに角度走査が行えることを確認した。ブリュアン散乱の分光では角度測定の精度が特に重要となるが、我々の方法では角度原点は局発光と励起光との一致で確認できるので、角度決定の精度も非常に高く、その点でも理想的である。

図1 角度走査のための光学系
3.スーパーヘテロダインブリュアン分光法(SUBS)の開発

 ヘテロダイン法をブリュアン分光に用いる際の最大の問題点は周波数帯域が電気系を含む検出系で制限されることである。従来の方法では励起光の一部と散乱光を混合していたため、検出器の帯域がフォノンの周波数だけ必要とされた。ブリュアン散乱に寄与する音響モードフォノンの周波数は1GHz〜10GHzである。これは光の周波数に比べればはるかに小さいが、電気信号としてはかなりの高周波である。ヘテロダイン検出は理想的には、局発光の出力が十分であれば、検出器の感度によらず、量子雑音限界での検出を可能とする。しかし、現実に利用できる局発光の強度の制限と、高周波領域での電気回路系の雑音特性の低下から、100MHz以上でそのような状態を実現するのは極めて難しい。このことがブリュアン散乱光のヘテロダイン検出の広帯域化を妨げてきた。そこでわれわれは励起光をそのまま局発光として用いるのではなく、もう一台別の周波数可変レーザを用意してこちらを局発用とし、その周波数を掃引して散乱光のヘテロダイン受信は、10MHz以下の最も感度の良いある固定の周波数で行うという方法を考案した。その原理を図.2に示す。この方法によれば、ヘテロダイン特有の高い分解能を保ったまま、検出器の帯域によらず大幅な広帯域化が可能となる。我々はこの原理に基づいた分光装置を開発し、液体2硫化炭素のブリュアン散乱のヘテロダイン検出において3GHzまでの広帯域化に成功した。測定結果を図.3に示す。

図2.模式的に表わしたSUBSの原理.図3.SUBSで得た二硫化炭素の音速・吸収の分散.

 現在の3GHzという限界はレーザの差周波をモニターするスペクトラム・アナライザの帯域に起因するものであり、この方法自体には原理的に高周波限界はないから、ブリュアン散乱の全領域へ拡張も容易であろう。

4..強制ブリュアン散乱法(FOBS)--CWレーザ光による音響フォノンの生成

 ブリュアン散乱の根本的な問題は熱フォノンを利用するため散乱強度が弱いということである。なにがしかの効率の良い高周波超音波の発生法が望まれる。

 周波数のわずかに異なるレーザビームを交差させると動く干渉縞ができ、媒質に吸収があれば熱膨張によって干渉縞と一致した疎密が生じる。縞の動く速度が媒質の音速に一致すれば、差周波数の音波が発生する。この原理に基づく音波発生には、これまではすべてパルスレーザが使われ、差周波数を持った二つのビームを作り出すためには、光音響変調器やレーザの縦モード間隔が利用された。そのため、励振できる音波の周波数がほとんど固定されていた。我々は2台の周波数可変CWレーザを用いて、差周波数の超音波を励振することに初めて成功した。我々の方法は差周波数を利用したため、広い周波数帯域にわたって音波を励振できる。その結果として、ブリュアン分光とほぼ等価な情報を与え、なおかつ飛躍的にS/N比が高い、新たな超音波スペクトロスコピーの手段となりうる。図.4はこの方法で得られたフォノンスペクトルと通常のサーマルフォノンによるブリュアン・スペクトルをあわせて示しており、10倍以上の強度の増大が示されている。

図4.FOBSで得られたフォノンスペクトル(しろまる)と通常の熱フォノンによるフォノンスペクトル(くろまる).
審査要旨

 一見透明に見える物質でも強いレーザーのビームを入射させると熱的に励起された誘電率の揺らぎによって光が散乱される。動的光散乱法はこの散乱された光のスペクトルから試料の時間的・空間的構造を知る方法である。一般に散乱光は散乱を生じる原因によってレーリー、ブリュアン、ラマンという3つの成分にわけられる。レーリー成分は波動として伝搬しない、濃度や密度の揺らぎによる散乱であり、そのスペクトルは、中心周波数そのものは光源の周波数と同じであるが、揺らぎの減衰率に等しいひろがりを持っている。ブリュアン成分は音波として伝搬する密度の揺らぎによる散乱で、音波の周波数に等しい周波数シフトと音波の減衰に対応した幅を持つ。ラマン成分は分子振動による散乱であり、一般にブリュアン成分よりも大きな周波数シフトをともなう。

 どの成分の場合でも、散乱光のもつ重要な情報はその絶対周波数ではなく、励起光源の周波数からのわずがな周波数シフトの部分にある。したがって散乱光を分光する方法としては、波長の絶対測定をおこなう回折格子を用いた分光器やファブリー・ペロー分光器は、精度や分解能の点から理想的ではない。それよりも、励起光源の一部を局発光として散乱光をヘテロダイン検出して、検出器の出力信号を電気的にスペクトル解析する方法、いわゆるヘテロダイン光混合分光法が最も適している。しかしながらこの分光法は主としてレーリー散乱の分光にのみ用いられ、それ以外にはブリュアン散乱の低周波領域(1GHz以下)にわずかな成功例があるにすぎない。

 ブリュアン成分の分光を行う主たる目的は、人工的に作ることが困難な超高周波の音波に対する物性を熱的な音響フォノンを利用して測定することであり、主に用いられる領域は1GHz〜10GHz(この領域は現在ファブリー・ペローで分光されている)である。したがって、いかに高分解能とはいえ、ブリュアン成分の分光法として用いるにはヘテロダイン光混合分光法の現状は、甚だ不満足なものである。この最大の原因は、1GHz〜10GHzというブリュアン成分における周波数シフトは光の周波数に比べると極めて小さいが、電気的な信号としてみると相当の高周波であり、検出器の感度や後段の増幅器の雑音特性が非常に悪くなるという点にある。実際、可視領域の光のヘテロダイン受信を行って量子雑音限界に近い感度が得られるのは現在では10MHz程度までである。

 この観点から励起光源の一部をヘテロダイン受信の局発光として用いるのではなく、もう一台別の周波数可変レーザーを用意して局発光とし、その周波数を掃引して散乱光とのビート信号は10MHz以下のある固定の周波数で受けるという方式を考案した。この方式によれば微弱な散乱光と局発光とのビート信号の受信は常にもっとも感度のよい周波数帯域で行うことができる。本来の周波数シフトを知るには励起光と局発光との差周波を知る必要があるが、これは両方とも強力なレーザービーム同士のビートであるから感度は不要であり、いくらでも高速な検出器を使用できる。

 使用したレーザーはNd-YAGの第2高調波(532nm,100mw)である。このレーザーは外部端子に加える電圧によって約10GHzの範囲で完全に連続な周波数掃引ができる。装置の分解能は使用したレーザー自体の線幅、すなわち2台のレーザー同士のビート信号のスペクトル半値幅で決まるが、それは約300kHzでありファブリー・ペロー分光器では達成することが事実上不可能なものである。この装置を用いて液体2硫化炭素におけるブリュアン成分の分光を行って10MHzから3GHzにいたる領域で音速分散を測定した。GHz以上の高域での音速決定の精度は0.1%である。この周波数領域ではファブリー・ペロー分光器による分光がこれまでは唯一の測定法であったが、その場合の音速測定の精度がせいぜい1%であったのにくらべ大幅な高精度化に成功している。なお3GHzという現在の限界は、主としてモニター用のスペクトラム・アナライザの限界によるものであり、考案した方式自体には特に高周波限界はなく、いずれはブリュアン散乱の全帯域を覆うことも可能であろう。したがってこの新しい分光法(スーパーヘテロダインブリュアン分光法)は超高精度の音響モードフォノンスペクトロスコピーの手法として広く使用されることが期待される。

 また、光を吸収する試料中でこの2台のレーザのビームを交錯させて差周波数の超音波を発生させることによって、従来の熱フォノンによるブリュアン散乱とほぼ等価な情報が得られ、飛躍的に信号対雑音比の高い新しいフォノンスペクトロスコピーを構築した。実験の結果は約20dBの信号強度の増大を示した。この方法(強制ブリュアン分光法)によって信号強度の不足のため長い積算時間を要するという熱フォノンによる従来の自発的なブリュアン散乱法の最大の欠点を克服することに成功した。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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