学位論文要旨



No 111153
著者(漢字) 向井,哲哉
著者(英字)
著者(カナ) ムカイ,テツヤ
標題(和) 準安定状態アルゴン原子干渉の研究
標題(洋)
報告番号 111153
報告番号 甲11153
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3397号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,富士夫
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 教授 菊田,惺志
 東京大学 助教授 石川,哲也
 東京大学 助教授 五神,真
内容要旨

 1920年代の量子力学の発展は、古典的には粒子として認識されてきた巨視的物体も、波動方程式の解を持つ波の性質を示すという新たな自然認識をもたらした。これまで粒子としてしか認識されていなかった粒子が、光のような波動の性質を持つということは様々な物理的興味をもたらすとともに、アトムオプティクスといった新しい研究分野を開拓する可能性を持つ。原子は金属中を自由に動き回ったり、結晶を通過したりしない点から考えて、日常我々が目にする巨視的物体に近い性質を持つので、その波動現象を研究することは興味深いことである。例えば原子は1つ1つの個数を数えることができるので、巨視的物体の位相粒子数不確定性関係についての有用な情報を提供できるであろう。また、干渉計を作る場合、原子のように静止質量を持った物体は、光と異なり速度変化が可能なので、超高感度の計測デバイスとなる可能性を持つ。角加速度を例に取ると、原子干渉計の位相感度は同じ大きさの光干渉計のmc2/h倍なので、アルゴン原子干渉計は、波長500nmの光干渉計のおよそ1.5×1010倍の位相感度を持つことになる。

 しかし原子の干渉を確認するには、いくつかの点で困難を極めている。第1の問題は原子の軌道をコヒーレントに分割するビームスプリッターや軌道を曲げる反射鏡といった基本素子の優れたものが、まだ開発されていないことがある。第2の問題は原子線の強度の問題である。光と異なり原子線の強度は、原子同士の衝突で制限される領域に容易に到達してしまう。また干渉計の原子源はレーザー光のような時間的、空間的可干渉性を持つわけではないので、実際に干渉に寄与することの出来る原子数はさらに小さくなる。

 近年の微細加工技術の発達や、レーザー冷却技術の発展は、このような問題を克服するいくつかの手段を提供した。特にレーザー冷却は、速度が毎秒数十センチメートル以下の原子を瞬時に提供することで、格子定数数マイクロメーターの透過型回折格子が、コヒーレントビームスプリッターとして、また数キロボルトの静電場による2次のシュタルク効果が、原子の反射鏡として有効に働く条件をもたらした。本研究は、そのような冷却原子を用いたマッハツェンダー型原子干渉計を実現することで、個々のアトムオプティクス基本素子を理論的、実験的に検証し、原子の干渉観測可能性についての知見を得るものである。

 この研究に用いられる原子は、希ガスのアルゴン原子である。この原子のエネルギー準位及び双極子許容遷移は図のようであり、準安定状態1s5と2p9,状態間が、近赤外波長の光学遷移で結合する孤立2準位系を形成している。従って、この光学遷移に共鳴する812nmの光による散乱力で原子を冷却するため、基底状態にあるアルゴン原子は、放電により励起されると同時に1次元的に射出される。このとき原子は室温以上の速度にあるので、これを磁気光学トラップに捕捉される程度の低速にまで減速するために、ゼーマン同調冷却・ドップラー冷却の方法を採る。この1次元的な冷却により数ケルビン程度にまで冷却された原子は、4ビーム磁気光学トラップにより空間の1点にポテンシャルの極小点を持つ、直径約2mmの空間に捕捉される。このトラップにより原子は更に約100Kにまで冷却される。またこのトラップ領域で原子は単位体積(1mm3)当たり、数十万個の高密度になっている。

図表

 トラップ内の原子は冷却2準位間をその遷移寿命程度で遷移し続けている。ここに冷却下準位1s5と2p4の準位に共鳴する715mnの光を、トラップ中心に焦点を持つように集光して入射する事で、トラップ原子を2p4準位に励起する。この状態は4つの1s2,1s3,1s4,1s5状態への双極子遷移を持つが、このうち1s2,1s4状態は基底状態と強い遷移を持つので、70ns程度の間に基底状態に遷移し、原子干渉の測定に影響を与えない。また1s5状態に緩和した原子は再びトラップサイクルに戻るので、1s3準安定状態の原子のみが原子干渉の観測に寄与する事となる。

 1s3準安定状態原子は、初速度毎秒数十センチメートル以下で自由落下を始め、320mm下方に置かれた透過型回折格子に至る。この時原子は、重力による加速で秒速2.5mまで加速しているので、そのドブロイ波長は4nmである。原子はこの透過型回折格子で回折し、±1次の回折は互いに4mrad分離する。この回折格子でコヒーレントに軌道分離された原子は、更に242mm下方の電極に与えられた静電場によるポテンシャルを感じ、2次のシュタルク効果で軌道を曲げられ互いの軌道が再び近づく向きの速度を持つようになる。原子は更に落下し、678mm下方の観測領域で再び同一点に軌道が重なり干渉計を構成する。

 以上のようなマッハツェンダー型の干渉計は、最初のビームスプリッターの1点を出た2つの原子線が、観測領域の同一点に到達するようにすれば、ビームスプリッターの全面で原子線がコヒーレントである必要はなくなる。従って原子干渉計の欠点である原子線強度の問題を、干渉に必要とする可干渉領域の減少により実効的に増大させることとなる。

 またこのような干渉計では、2つに分けた原子軌道を合成する面上の各点で、2つの軌道の相対位相が一定になる保証はないので、全原子線を1つのディテクターで受けたのでは干渉を観測することは出来ない。従って観測は、2次元的に数十マイクロメーターの分解能を持ったマイクロチャネルプレート(MCP)を用いた2次元観測を行う。ただしMCPの分解能よりも干渉縞のフリンジ間隔の方が小さいので、直接に干渉縞を観測することは不可能である。そこで干渉縞とほぼ同じ空間周波数を持った透過型回折格子と干渉縞とのモアレパターンを観測することで、一旦分離された原子軌道間の位相差を検出する。

 以上のような方法により、本研究はアトムオプティクスの基本素子となる極低温原子源、回折格子ビームスプリッター、静電反射鏡、2次元モアレパターン位相検出法を開発し、角速度については従来の100〜1000倍の位相感度を持った原子干渉計を完成させ、原子の干渉を観測するための条件についての多くの新たな知見を得た。

審査要旨

 この論文は、90年代になって実現した中性原子の干渉計を実用性のある超高感度計測器とするための試みに関する研究である。室温原子線のドブロイ波長は原子のサイズ程度しかなく、原子を透過する透明物体も存在しないため、原子干渉計を作るにはサブミクロンの微細構造を持った透過型の干渉部品がどうしても必要とされていた。しかるに、過去数年の間にみられた中性原子のレーザー冷却技術の飛躍的な進歩により、中性原子を数マイクロケルビンの極低温をまで冷却することが可能になり、光の波長に近いドブロイ波長を持った極低温原子線を生成できるようになった。この極低温原子線を用いた原子干渉計は、その低速性のゆえに、加速度変化や種々のポテンシャル変化に対して他の計測機器では到底得られない極めて高い測定精度を有している。しかし、原子線強度は(光線に比べて)極めて弱いこと、また、光学機器に相当する精緻な原子光学部品が存在しないことにより、超高精度計測手段として実用性ある原子干渉計はいまだ開発されていない。本研究は、レーザー冷却された準安定状態アルゴン原子の干渉計を開発しようとしたもので、世界で初めて静電的な原子反射鏡を用いることによって実効的な原子線強度を高め、S/N比の高い干渉計を作ることを試みている。収差のない静電反射鏡は原理的に作れないが、収差のために干渉パターンが歪んでも、回折格子との間でモアレ縞を形成し、位置分解能のある原子検出器で計測することで干渉計として動作させうることを示している。

 論文は10章からなり、第1章は序論である。第2章は中性原子のレーザー冷却理論の概説に当てられている。第3章は、この研究に用いた準安定状態アルゴン原子トラップの構成、干渉計として重要なパラメーターである、トラップ原子の温度、原子密度の測定法とその結果について述べている。第4章は原子干渉計の一般的な原理の記述である。この章では、原子干渉計の各種の摂動、角速度、加速度などに対する位相感度について議論されている。また、原子干渉計の最大の難点である線源の輝度について識論がなされている。第5章は本研究で用いた干渉装置の構成について述べている。この干渉計は基本的にはマッハツェンダー型の干渉計である。ビームスプリッターにはすでに他でも用いられている透過型回折格子を用いているが、原子線を曲げる反射鏡としては静電型デフレクター、原子線の合成面ではマッチング回折格子とのモアレ縞の観測という全く新しい手法を採用している。また、原子線の速度分布による収差を解消するための測定タイミングの方法についても記述されている。第6章は原子線源の記述である。希ガス原子の最低励起状態には4つの微細構造準位があり、そのうちの2つが準安定状態であって数十秒の寿命を持っている。このうちの一つは角運動量が2の準位で、この原子の冷却、トラッピングに使われる準位であるが、もう一つは角運動量が零の準位であるため、環境の影響を受けにくく重力のみに引かれて自由落下する。この研究で用いた原子線は極低温に冷却した前者の準位にいる原子を光ポンピングによって、加熱することなく後者の準位に移し、原子を自由落下させるタイプのもので、地上で得られる最も低速の原子線である。また、原子トラップは原子間衝突で規制された密度まで原子密度を高めることが出来ることから、原理的に最も輝度の高い原子線源でもある。第7章は、ビームスプリッターとして用いた透過型回折格子の特性について理論的な検討と実際に原子を回折、分離させたときの実験結果について記述されている。第8章は、実験に用いた電場勾配を利用した静電偏向型原子反射鏡のポテンシャル、わよびその結果として起こる原子の偏向の計算と、実験結果について述べている。第9章は、ビームスプリッターで分けられ、反射鏡で折り曲げられた2つの原子線が再び合成される面で形成する干渉パターンについて詳述している。この干渉計の性能はすべてモアレ縞の様子に集約されるから、種々のバラメーターの誤差、分布による影響を詳細に検討することは重要である。ここでは、反射鏡が不完全であるために起こる影響、原子線源の初速度分布の影響、機械的振動の影響、温度変化による影響などが検討されている。第10章はまとめと今後の展望である。

 原子干渉計は原理的には極めて精度の高い計測手段となる可能性を持っているが、実用化が可能かどうかは今後の研究、開発に待たなければならない。このように物理的原理以外未知の工学分野に果敢にいどんだ研究は多くなく、中性原子干渉計の研究も申請者のものが本邦におけるただ一つのものに近い。したがって、研究の中身と共に、その研究精神は高く評価されてしかるべきものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54452