学位論文要旨



No 111185
著者(漢字) 前,一樹
著者(英字)
著者(カナ) マエ,カズキ
標題(和) 金属超薄膜の結晶成長と成長制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 111185
報告番号 甲11185
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3429号
研究科 工学系研究科
専攻 材料学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,良一
 東京大学 教授 井野,博満
 東京大学 教授 林,宏爾
 東京大学 助教授 香川,豊
 東京大学 助教授 光田,好孝
内容要旨

 原子・分子レベルでの構造制御が行われつつある今日、結晶成長は純粋に科学的な興味だけでなく、テクノロジーの一分野としての位置を占めつつある。

 垂直磁気異方性や巨大磁気抵抗効果など金属多層膜に特有の物性は、磁性層や非磁性層の膜厚やそれらの界面構造に大きく影響を受けることが知られている。また金属の二層膜やサンドイッチ膜などにおいても量子井戸準位が存在することを示唆する実験結果が報告されているが、このような電子状態は構造にたいへん敏感であり、原子レベルでの精密な構造制御が要求される。多層膜、単層膜に限らず薄膜の構造はその成長過程に支配されていることから、薄膜の成長過程の分析と制御が重要な研究分野となっている。

 薄膜結晶成長の様式は系や成長条件によって実に多様である。特に近年注目を集めている問題は低温での2次元成長とサーファクタントエピタキシーである。サーファクタントエピタキシーでは、膜面垂直方向の拡散は考えにくい基板温度での成長であるにも拘らず、サーファクタント原子が薄膜の成長中常に表面に存在し、成長表面を平坦化することが知られている。成長表面が平坦化する原因についてはいくつかのモデルが提唱されている。van der Vegtらは、サーファクタントが核生成サイトとして働くためと考えている。アイランドの密度が増大することにより、ステップ密度が増大し、アイランド上に付着した蒸着原子がアイランドに取り込まれやすくなるため、2次元成長が誘発されるという説である。これとは反対にOppoらは、表面の点欠陥上でサーファクタントが非常に安定に存在することができ、そのまわりには蒸着原子が近づきにくくなるためにサーファクタントから遠い位置で核生成が起こりやすくなり、アイランド密度が増大すると考える説を提唱している。また、サーファクタントがステップに存在することによりアイランド上の蒸着原子がステップの原子を押し出してアイランドに取り込まれやすくなるという考え方もある。

 サーファクタントが表面に出る駆動力は表面エネルギーの差であると一般に考えられている。これまでの研究例は、サーファクタントがどのような役割を果たして成長表面を平坦化しているかということに論点が限られており、偏析の動的過程に明確に言及した報告はまだない。またサーファクタントが最も効果をもたらすと考えられている0.1〜0.3ML程度の蒸着量では、サーファクタントはアイランドを形成して存在している可能性が高いと考えられるが、これまでの報告例ではサーファクタントがアイランドを形成している場合の効果について言及したものはない。

 本研究は、低温での成長機構やサーファクタントエピタキシーが実現される条件などの薄膜結晶成長の諸問題を理論計算や計算機シミュレーションによって明きらかにすることを目的としたものである。具体的には次のような目的のもとにシミュレーションを行った。原子層単位での表面偏析の静的なエネルギー計算によって、平衡状態で1MLの蒸着層が表面に存在している場合と、基板最表面原子層と位置を交換し、表面下に存在する場合とどちらが安定かを計算し、どのような系でサーファクタントエピタキシーが実現され得るか、その必要条件を明らかにする。また、分子動力学法によるサーファクタントエピタキシーの計算機シミュレーションを行い、サーファクタント原子が随時表面に現れる機構を明らかにする。分子動力学法では1ステップ当たりの時間が10-15のオーダーであるため、一般的に非常に短い時間スケールの現象しかシミュレートすることができない。サーファクタントエピタキシーは、膜面垂直方向の原子拡散という一般的には緩和時間の長い現象を伴うため、分子動力学法を用いた研究例はなく、全く新しい試みである。

 最後に理論の結果を元に金属多層膜の成長制御を試みた。

サーファクタントエピタキシーの計算機シミュレーション

 本研究のシミュレーションでは修正原子挿入法(MEAM)を使用した。MEAMでは、従来のEAMでは扱えなかったbccやhcp金属も扱えることが長所である。

 表面偏析の静的なエネルギー計算によって、平衡状態で1MLのサーファクタント層が表面に存在した方が安定か、第2層目に存在した方が安定かをMEAMポテンシャルが与えられている金属について系統的に示した。サーファクタントの表面エネルギーの方が小さく、サーファクタントと基板の合金の形成エネルギーが正の系では、サーファクタントが表面に存在した方が安定であるという傾向が認められた。

 Ni基板の表面の1原子をPbで置き換え、この原子の安定位置を求める計算において、Pbのポテンシャルのフィッティングパラメータのうち、最近接原子間距離、凝集エネルギー及び合金の形成エネルギーに相当するパラメータを系統的に変化させて、Pbを表面の方へ押し出す駆動力を明らかにすることを試みた。最近接原子間距離に相当するパラメータを変化させた場合が最もPbの安定位置の変化が顕著であり、原子半径を基板原子のものより大きくした場合に表面に押し出され、小さい場合にはPbの安定位置は基板最表面原子層よりバルクよりになってしまう。これは一般的に考えられているように、表面エネルギーの差がサーファクタント原子を表面に押し出す駆動力になっていると考えるよりは、むしろ基板原子との原子半径の違いによって生じた応力の方が重要であることを意味している。

 MD法によるシミュレーションからサーファクタントエピタキシーは次のようなメカニズムで実現されていると考えられる。

 蒸着原子は、蒸着時の運動エネルギーを利用してサーファクタントのアイランドに割り込み、下地の基板に到達する。これを容易にしているのは、サーファクタントが低融点元素でサーファクタント原子間の結合が弱いことと、基板とサーファクタントの格子のミスマッチである。蒸着量が増えるに従ってアイランドを構成していたサーファクタントは数原子程度ずつに分断される。このときサーファクタント原子が移動する隙間が存在することが重要である。分断されたサーファクタント原子は、蒸着原子が安定なサイトに移動しようとする力を受けて表面に押し出される。蒸着原子はほぼ着地した位置でサーファクタント層に取り込まれ、サーファクタントの存在で長距離の表面拡散が妨げられるため、蒸着原子が表面を露出した大きなアイランドを形成することはなく、その上に次のアイランドの核生成が起こる可能性は少ない。これは低温で2次元成長するような状態がサーファクタントの存在によって実現されていると考えることもできる。

 この考え方を基にすれば、ヘテロエピタキシーにおいてVW成長するような系がサーファクタントエピタキシーによって2次元的な成長に移つる可能性がある。VW成長は表面拡散が十分起こるような場合に、系の表面エネルギーを低下させるために表面エネルギーの大きな蒸着原子が凝集するために起こるが、サーファクタント層に取り込まれた蒸着原子はサーファクタントに妨げられて表面拡散できないため蒸着原子の凝集が起こりにくいと思われる。

 次のような性質を有している元素がサーファクタントとして適していると考えられる。

 1.原子半径が蒸着原子より大きく、ミスマッチが大きいこと、

 2.凝集エネルギー(表面エネルギー)が基板元素より小さいこと、

 3.基板元素とは混合しにくいこと。

 原子半径が蒸着原子より大きいことで、蒸着原子に挟まれたときに表面に押し出される力を受ける。ミスマッチが大きいことで、その力が大きくなるだけでなく、蒸着原子がサーファクタントのアイランドに容易に取り込まれるようになる。凝集エネルギーが基板原子より小さいことによって、表面に押し出されやすくなるが、むしろ別の効果の方が重要であると考えられる。凝集エネルギー(表面エネルギー)が基板より大きな場合には基板上でサーファクタントが3次元的なアイランドになってしまう。また凝集エネルギーが小さいということは、サーファクタント原子間の結合力が小さいということを意味するので、蒸着原子がサーファクタントのアイランドに取り込まれやすくなる。

 これらの観点から具体的にはサーファクタントとして適した元素は、PbまたはLi、Na、Kなどのアルカリ金属、Mgなどのアルカリ土類金属などが挙げられる。これまでの研究例では特定の系についての現象の分析に留まっており、どのような性質を有する元素がサーファクタントに適しているかを具体的に指摘したのは本研究が始めてである。

金属多層膜の作製1.Au,Agエピタキシャル成長中のRHEED振動

 表面再配列構造が結晶成長の初期過程にどのような影響を与え、RHEED振動にどのような変化を与えるかを調べるために、AuとAgのホモエピタキシー、ヘテロエピタキシー中のRHEED振動を観測した。表面エネルギーの関係からはAuはAg上でVW成長すると考えられるが、Ag/Au、Au/AgともにRHEED振動が観測された。RHEED振動は2次元核生成・成長が起きている場合に観測されると考えられている。AuとAgは全率固溶系であり、薄膜と基板の混合が起こったために見かけの表面エネルギー差が小さくなったためであると考えられる。またAu/AgにおいてAuを6原子層蒸着したところで表面再配列構造が出現し、RHEED振動は急激に減衰した。

2.サーファクタントエピタキシーによる成長制御

 サーファクタントとしてAlを選択し、MBE法によりAu/Co多層膜を作製したが、今回の実験の範囲内ではその効果は認められなかった。

審査要旨

 原子・分子的尺度での薄膜の構造制御が行われつつある今日、薄膜の結晶成長の基礎過程は科学的な興味だけでなく、技術の一分野としての確固たる位置を占めつつある。金属多層膜に特有の物性は、膜厚や界面構造に大きく影響されることが知られており、原子的尺度での成長制御が要求されている。

 1原子層以下の適当な異種元素(サーファクタント)をあらかじめ表面に付着させておくと、薄膜の成長中これが常に表面に現れ、成長表面を平坦化するという現象はサーファクタントエピタキシーと呼ばれている。これは3次元結晶成長を抑制する手法として有力視されているが、その成長機構が実現されるための条件は未解明である。

 本研究は、金属多層膜の成長制御という観点から3次元成長を抑制する手法についての基礎的知見を得ることを目的としたものである。具体的には、薄膜-基板界面での拡散が薄膜成長様式に及ぼす効果について検討し、サーファクタントエピタキシーについて、その微視的機構またサーファクタントに適した金属を計算機シミュレーションによって見出している。

 本論文は5章から成っている。第1章では薄膜結晶成長研究の歴史的概要と本論文の位置付けについて述べている。第2章では、計算機シミュレーションの方法、エネルギー的に安定な原子配列を電子論的に求め得る修正原子挿入法について記している。

 第3章では、サーファクタントエピタキシーに関する計算機シミュレーションについて述べている。サーファクタントエピタキシーが起こり得る系を明らかにする目的で、A(1原子層)/B(1原子層)/BとB(1原子層)/A(1原子層)/Bのどちらの構造が安定かを系統的に計算し、蒸着される金属より表面エネルギーが小さく、基板の金属との合金形成エネルギーが正である金属がサーファクタントとなり得る可能性があるという結果を得ている。

 サーファクタントとしてPbを例として取り上げ、サーファクタントエピタキシーの微視的機構についてのシミュレーションを行っている。Pbのポテンシャルパラメータのうち、最近接原子間距離(R0)、凝集エネルギー(Ec)及び合金形成エネルギー()に相当するパラメータを変化させて、Ni(111)表面の1原子を置換したPb原子の平衡位置を比較した結果、サーファクタントを押し出す駆動力としては、一般的に考えられている表面エネルギーの差より、基板原子との原子半径の違いによって生じた応力の方が重要であると結論している。

 また分子動力学法を用いた結晶成長のシミュレーションからサーファクタントエピタキシーは次のような機構で実現されていると考えられる。蒸着原子は、蒸着時の運動エネルギーを利用してサーファクタントのアイランドに割り込み、下地の基板に到達すると考えられるが、そのためにはこの過程でアイランドが拡張するだけの間隔がアイランド間に必要である。これはサーファクタントの蒸着量は0.1〜0.3原子層程度が最適であるという実験報告と整合した結果である。蒸着量の増加に伴ってサーファクタントのアイランドは数原子程度に分断され、サーファクタントは、1原子当り約4個の蒸着原子が配位すると、熱振動及び蒸着原子が安定な位置に移動しようとする力を受けて表面に押し出されると述べている。

 サーファクタントとして(1)原子半径が蒸着原子より大きく、ミスマッチが大きいこと,(2)凝集エネルギーが基板元素より小さいこと,(3)基板元素とは混合しにくいことを満たす元素が適しており、遷移金属・貴金属の多層膜の成長制御に利用するサーファクタントとして、Pb、Li、Na、K、Mgなどを挙げている。

 第4章では、Au/Ag(001)、Ag/Au(001)薄膜成長における反射高速電子線回折(RHEED)強度振動について述べている。表面エネルギーの関係からは3次元成長が予想されるAu/AgにおいてもRHEED振動が観測されたのは、界面での混合の効果によって見かけの表面エネルギー差が減少したためであると説明している。

 第5章は総括である。

 以上要するに本研究は、金属多層膜の成長制御への応用という観点から、3次元成長を抑制する手法についての知見を得ることを主眼とし、計算機シミュレーションによって、サーファクタントエピタキシーの動的過程を明らかにし、サーファクタントとして適した金属を見出したものであり、材料学に大きく貢献している。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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