学位論文要旨



No 111223
著者(漢字) 大倉,典子
著者(英字)
著者(カナ) オオクラ,ミチコ
標題(和) 人間の聴覚的空間知覚特性の研究
標題(洋)
報告番号 111223
報告番号 甲11223
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3467号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 舘,すすむ
 東京大学 教授 大須賀,節雄
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 吉澤,修治
 東京大学 助教授 石川,正俊
内容要旨 1緒論

 近年,科学技術の進展によるシステムの高度化・複雑化に伴い,その使いやすさに対する要請が急速に高まり,インタフェースの研究が重要な課題となってきた.その中で,人間の持つ優れた空間知覚能力を生かした使いやすいインタフェースを創出する技術として,人工現実感が実用化されてきている.人工現実感における人間への空間情報入力手段としては,視覚の利用が最も一般的であるが,触覚や聴覚の利用も次第に検討されるようになってきた.聴覚は,情報源が3次元空間全体のどこにあってもかまわず,視覚のように物体が視野外や障害物の背後に存在してはならない等の制限のない点,また時間的変化に対する検知感度が高い点などの優れた特質をもつモダリティである.そこで,視覚の代替あるいは相補的にセンサフュージョンの対象となる情報チャネルとして,その利用が考えられる.

 人間と機械とのインタフェースとして,情報を人間にとって真に自然で使いやすい形で提示するためには,人間のその情報に対する認知特性を把握しておくことが必要である.したがって聴覚の利用に際しても聴覚的空間知覚特性に関する知見が必要となるが,これまでの研究により解明された結果は十分なものではなかった.そこで私は,人間の聴空間の構造や聴覚的空間知覚の手がかりなどの特性を明らかにするために,以下のような研究を行なった.

2距離に関する音源定位と聴空間におけるホロプタ

 視覚において視空間上の主観的額面平行線の概念を表わすものとして知られているヘルムホルツのホロプタと同様の現象が,聴空間においても存在するかどうかを確認する目的で,距離に関する音源定位の基礎実験を行なった.Fig.1に示すような実験システムを用い,恒常法により両端のスピーカに対する中央スピーカの主観的相対位置を調べた.結果をプロビット法により解析し,中央スピーカの主観的な相対位置を推定した.

Fig.1 音源定位実験システム

 得られた結果を以下にまとめる.

 1.聴空間における主観的額面平行線の物理的空間における形状が音源までの距離に依存すること,すなわち聴覚ホロプタ現象の存在を確認した.

 2.さらにその形状は,Fig.2に示すように音源までの距離が近い場合には被験者に対して手前に凹型,逆に距離が遠い場合には被験者に対して手前に凸型の曲線になることを統計的に検証した.この形状の傾向は,視空間におけるホロプタの形状と同様の傾向であり,触空間におけるホロプタの形状(常に被験者に対して手前に凹型となる)とは傾向が異なっている.

Fig.2 聴覚ホロプタの形状(推定された中央スピーカの位置を両端のスピーカの位置と共に図示した結果.1.5,2.0,2.5(m)は被験者とスピーカ群との距離を示している.)

 3.スピーカ上部にLEDを取り付け,同一被験者に対する視覚ホロプタの測定実験を恒常法を用いて行なった.実験結果から推定された中央LEDの主観的位置を,聴覚表示の場合の中央スピーカの主観的位置と共にまとめた表を,Table.1に示す.両者の比較から,同一被験者の視空間と聴空間は構造が類似しているものの,聴空間の変曲点のほうが遠方にあり座標系は同一でないことなどがわかった.

Table 1 聴覚ホロプタの形状と視覚ホロプタの形状の比較
3聴空間の特性解明を目的とした仮想環境提示システムの構成

 これまでに得られている聴覚的空間知覚特性のうち,特に音源距離定位に関しては,研究事例も比較的少なく,結果も不明確な点がある.その原因として,距離定位実験に関する実際上の実験空間の構成のしにくさや被験者の応答手段の構成のしにくさなどが考えられる.そこで音源距離定位についての明確な知見を得る目的で,Fig.3に示すような視覚および聴覚に関する仮想環境提示システムを構成した.

Fig.3 仮想環境提示システムの構成

 仮想環境構成用計算機(IRIS Indigo)は,仮想環境モデルに基づき,被験者の装着するHMD(Head Mounted Display)に提示する左眼および右眼用のコンピュータグラフィクス画像を生成し,被験者に対する視覚入力とした.また同時に任意に合成または再生したオーディオデータをDSPを用いて出力し,被験者の両耳にヘッドフォンを通して音を提示した.

 さらに主観的な距離の定量的把握に必要な,HMD(Head-Mounted Display)の仮想空間と実空間における座標系の整合性を図るために,特に距離に関する誤差に対して有効な,視点位置ずれに対する新たな視覚パラメータ較正法を考案した.考案した較正法は,実環境に設置した指標と,それに対応する仮想環境におけるカーソルとを一致させることにより,視点位置(瞳孔間距離の半分の値)および仮想面(HMDで仮想環境を提示する際の仮想的なスクリーン)までの距離の両パラメータを較正する方法である.この方法の有効性を視覚パラメータの感度解析により評価した結果,これまでの方法のような測定誤差の拡大伝播が起きないことがわかった.また個人ごとのHMDの較正実験により,新らしい視覚パラメータ較正法を用いれば,距離に関する誤差を十分小さくできることも検証した.

4音源距離定位の知覚特性の解明

 前章において構成した仮想環境提示システムを用い,距離に関する音源定位における音の強さの役割の定量的把握を目的として,仮想環境下の音の強さと知覚される音源距離との対応関係について基礎実験を行なった.

 実験方法は,M.B.Gardnerの音の強さとみかけの音源距離に関する実環境における実験に基づいて設定した.HMDを装着した被験者には,両耳の外耳道を通る水平面と正中面との交線上に複数個のスピーカ画像を提示した.また両耳にヘッドフォンを通して提示する音刺激としては,音声または疑似ランダムノイズを用いた.実験の開始時にはHMDの視覚パラメータの較正をおこなった.

 その結果は,以下の通りである.

 1.M.B.Gardnerの音の強さと主観的音源距離との対応関係についての実環境における実験を仮想環境に置き換えて追試し,Table2に示すように同等の結果を得た.この結果から,仮想環境が実環境と同等の結果を与えることが保証され,また「音の強さが音源距離定位において極めて重要な手がかりである.」という結論が,他の手がかりのまったくない,より厳密な条件の下で検証された.

 2.音の強さとみかけの音源距離との関係が,指数関数の関係にある,すなわち両対数のグラフでは両者の関係が直線で表せることを確認した(Fig.4).

 3.音の強さとみかけの音源距離の両対数グラフにおける回帰直線の比例係数は,実験における音源距離の範囲と音の強さの範囲により,制約を受ける.制約のない条件での比例係数は,制約のあるM.B.Gardnerの実験結果(Table2)よりも大きいが,物理的な音の減衰比から得られる値より小さい.

Table 2 回帰直線の比例係数(1)

 4.仮想環境の利用により,調整法による実験の構成が可能となった.調整法により音源位置を被験者自身に指示させる定位実験において,表示された音源から選択する上記の実験と同じ比例係数を得た(Table3).すなわち得られた比例係数は,実験条件によらない結果である.

図表Fig.4 M.B.Gardnerと同等の実験の実験結果(音刺激が音声の場合) / Table 3 回帰直線の比例係数(2)
5聴空間における平行アレイと等距離アレイ

 前章と同様に第3章で構成した仮想環境提示システムを用いることにより構成が可能となった,聴空間における平行アレイと等距離アレイの測定実験を行なった.平行アレイと等距離アレイは,主観的正中面平行線の概念を表わすものとしてヘルムホルツのホロプタ同様に両眼視空間においてよく知られている現象であり,同様の現象が聴空間においても存在するかどうかを確認するのがここでの実験の目的である.

 構成した平行アレイと等距離アレイの測定実験システムの概念図を,Fig.5に示す.音刺激は疑似ランダムノイズを用い,実験方法は下記のようにした.

Fig.5 平行および等距離アレイの実験システムの構成

 1.まず基準となる仮想音源対を,左右対称な物理的正中面平行線上で両耳から一定の距離にある位置に想定し,基準音源対を音源と想定した音刺激を提示する.被験者にはそれが知覚される位置に視覚的音源指標対を移動させ,基準音源対の主観的位置を決定させた.

 2.つぎに,基準音源対と比較すべき音源対の計4個の仮想音源からの両耳への音刺激を提示した.平行アレイ実験の場合には,音刺激の想定音源の順序は右基準音源,右比較音源,左基準音源,左比較音源の順とし,前半の2音源を結ぶ線分と後半の2音源を結ぶ線分との位置関係を被験者に判断させた.一方等距離アレイ実験の場合には,音刺激の想定音源の順序は右基準音源,左基準音源,右比較音源,左比較音源の順とし,後半の2音源(比較される音源対)の音源間間隔が前半の2音源(基準音源対)の音源間間隔がよりも広いか狭いかを判断させた.

 以上の測定実験からつぎの結果を得た.

 1.聴空間における主観的正中面平行線(平行アレイ)や主観的正中面等距離線(等距離アレイ)の形状が,Fig.6に示すように物理的正中面平行線とは必ずしも一致せず,被験者からの距離に依存することを確認した.

Fig.6 恒常法による実験結果から得られた平行アレイおよび等距離アレイの形状

 2.さらに,聴空間において平行アレイが等距離アレイよりも正中面よりに存在することを確認した.これは,視空間や触空間における平行アレイと等距離アレイの関係と同様の傾向である.

6結論

 以上のように本論文では,聴空間のホロプタやアレイの距離依存性をはじめて明らかにし,また聴覚的距離定位の手がかりとしての音の強さの役割を,仮想環境を利用して解明した.

 このような研究は,人間の聴覚的空間知覚特性を解明するための方法としてこれまでにない新しいアプローチからの研究であり,また得られた結果は人間の聴覚的空間知覚特性の一端を示す知見として価値がある.これらはいずれも,人工現実感のような人間の空間知覚能力を利用したインタフェースにおいて,聴覚的に空間内の位置情報を提示する際の設計・評価指針の構成に重要な役割を果たすものと考える.

審査要旨

 本論文は「人間の聴覚的空間知覚特性の研究」と題し,7章からなる。本研究は人間の聴覚空間知覚能力を利用する人間機械インタフェースにおける提示装置の設計法や評価法の確立にとって必要な人間の聴覚的空間知覚特性に関する知見を得ることを目的とした研究である。従来は視空間と触空間においてのみ確認されていたホロプタとアレイの現象が聴空間においても存在することを実験的に検証するとともに,聴空間の特性解明を目的とした仮想環境提示システムを構成してその有効性を示すとともに,これを利用して音源距離定位の知覚特性を明らかにして,新しいインタフェース設計評価のための聴空間研究と応用への方向を示したものである。

 第1章は緒論で,研究の背景を述べ,新しいインタフェースとしての人工現実感ないしはテレイグジスタンスにおける聴覚空間の役割を論じるとともに,本研究の目的と立場を明らかにしている。

 第2章は「距離に関する音源定位と聴空間におけるホロプタ」と題し,視覚において視空間内の主観的額面平行線の概念を表すものとして知られているヘルムホルツのホロプタと同様の現象が聴空間においても存在するか否かを実験的に調べ,統計的に有意に存在することを明らかにしている。また,そのホロプタの形状が,音源までの距離が近い場合には被験者からみて手前に凹型,逆に距離が遠い場合には被験者からみて手前に凸型の曲線になることを統計的に検証している。この形状の傾向は,視空間におけるホロプタの形状の性質と同様の傾向を示しており,触空間におけるホロプタとは傾向が異なっている。さらに同一の被験者に対して視覚ホロプタの実験を同一の条件下のもとに行って比較し,聴覚ホロプタは視覚ホロプタと空間の構造は類似しているが,聴空間の変曲点のほうが視空間のそれよりも遠方にあり,スケールは同一でないこと等を示している。

 第3章は「聴空間の特性解明を目的とした仮想環境提示システムの構成」と題し,音源距離定位の手がかりなどの聴覚的空間知覚特性の解明に関する現状及び研究の必要性を概観し,空間知覚特性解明のための視聴覚仮想環境提示システムの構成法を示している。さらにSTHMD(See-Through 型 Head Mounted Display)における仮想空間と実空間の整合性を図るために,仮想空間の視覚パラメータの較正法を考案し,それを用いて仮想視空間が実際の空間と同一の距離スケールを有するように較正し第4章の実験の準備をしている。

 第4章は「音源距離定位の知覚特性の解明」と題し,前章において校正した仮想環境を用い,仮想環境下の音の強さと知覚される音源距離との対応関係を調べて以下に示す結果を得ている。すなわち,

 (1)M.B.Gardnerが実環境で行った音の強さと知覚される音源距離との対応関係を調べる実験を3章で構成した仮想環境内で追試し,同一の結果が得られることから,この仮想環境を用いる方法の有効性を示している。

 (2)さらにGardnerの場合には実環境という制約から行えなかったより広い範囲での実験をこの仮想環境を用いて行い,音の強さと知覚される音源距離の両対数グラフにおける回帰直線の比例係数は0.20〜0.24であり,物理的な音の減衰比から想定される0.3よりも統計的に有意に小さいことを見いだしている。

 (3)なお,この値はGardnerによる値0.06よりも有意に大きく,また,調整法により音源位置を被験者自身に指示させる定位実験をも行っても同一の0.20〜0.24を得て,これが実験条件によらない値であることを示している。

 第5章は「聴空間における平行アレイと等距離アレイ」と題し,第3章で構成した仮想環境提示システムを用いることにより,聴空間における平行アレイと等距離アレイを測定している。平行アレイと等距離アレイは主観的正中面平行線の概念を表すものであり視空間においては物理的な正中面平行線とは一致せず,しかも平行アレイが等距離アレイよりも正中面よりに存在している。仮想空間を用いた実験の結果,聴空間においても全く同一の関係が存在することを明らかにしている。

 第6章は「考察」と題し,得られた知見を視空間における心理空間モデルとの対比で考察するとともに,空間知覚を利用するインタフェースへの応用を論じている。

 第7章は「結論」で本研究をまとめている。

 以上これを要するに,従来は実空間を利用するという制約から論ぜられることが多くなかった聴覚的空間知覚特性を仮想空間を導入して,より多岐にわたる実験を可能とすることにより研究し,視空間において古くから知られていたホロプタやアレイの現象が聴空間においても存在することを明らかにするとともに,仮想空間を用いる本アプローチが汎用的な手法として広く利用可能であることを示したものであって,計測工学及び先端学際工学に貢献するところが大きい。

 よって本論文は,博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54463