本論文は、型結晶構造を持つキチンを基質感応膜として持つバイオセンサーの開発に関するものであり、5章より構成される。 キチンはN-アセチル-D-グルコサミンのポリマーであり、その脱アセチル化物であるキトサンと並び、エビ、カニ、昆虫などの外骨格中に存在するアミノ多糖類として古くから知られている。キチンは分子内、分子間に多くの水素結合があるため、きわめて強固な結晶構造を有している。キチン・キトサンは、廃水処理の高分子凝集剤、変異原性物質などの吸着剤、食品用防腐剤、抗菌性衣料品などに利用されている。また、生体適合性を示すことから、創傷被覆用の人工皮膚や手術用縫合糸などへの応用も検討されている。 これらの研究に用いられているキチンは、エビやカニの殻より抽出されたもので、型の結晶構造を持つものである。一方、イカの軟甲より得られるキチンは型の結晶構造を持ち、配向性が異なっている。分子間の水素結合の状態が違い、エネルギー的には構造の方が安定である。構造では分子間に水分子が配位しやすく水中で比較的容易に膨潤する。-キチンは抽出原料が限られるため、応用研究はこれまでほとんどなされていなかった。しかし、-キチンより成形性がよいと考えられ、しかも生体適合性などキチンの優れた特徴は保持している。本研究は、-キチンを酵素や微生物の固定化材料として用い、その特性を生かしたバイオセンサーを開発することを目的としている。 第1章は、緒論であり、本研究の行われた背景と本研究の目的および意義を述べた。 第2章では、-キチンへ生体触媒を固定化し、その固定化生体触媒の性質について検討した。 -キチンは、一部の珪藻類にも存在していると報告されているが、実質的な原料としてはイカのみである。そこでスルメイカ軟甲より常法により得た-キチンを100メッシュ以下に粉砕し、これに蒸留水を加え30分間ホモジナイザーで激しく撹拌することにより膨潤させ、キチンゲル分散液を調製した。この分散液に酵素や微生物を混入させ、濾紙上で減圧濾過し乾燥させて製膜した。 バイオセンサー材料としての特性を調べるために、酸素や基質の透過性を調べた。まず酸素透過性を酸素電極で測定したところ、バイオセンサーでしばしば用いられるミリポア膜(ポアサイズ0.45m)と比較し、ほぼ同等の酸素透過性が認められた。次に、H型セルを用いた実験により基質透過性を調べた。牛血清アルブミン(BSA)はミリポア膜では時間と共に透過するが、キチン膜では全く透過性を示さなかった。一方、グルコースの場合にはどちらの膜もほぼ同等の透過性を示すことがわかった。このようにキチン膜はタンパク質であるBSAには阻止性を示し、低分子であるグルコースは透過させ、一種の限外濾過膜のような性質を示すことがわかった。バイオセンサーの測定対象物はほとんどが低分子であり、タンパク質などの高分子は妨害物質となることが多いため、キチン膜のこのような性質はセンサーの材料として好ましいものと考えられる。 次に、キチン膜が生体触媒をどの程度保持できるかを調べるために、大腸菌をキチンゲル分散液に加えて製膜し、緩衝液中で洗浄したときの微生物の脱落について調べた。洗浄開始後約2分間で脱落する微生物はあるが、それ以降は増加せず安定に保持されていた。これは不完全に固定化されていたものは簡単に脱落するものの、内部に保持されたものは安定に固定化されていることを示していると考えられる。キチン膜に対する微生物の最大固定化菌数は、キチンの乾燥重量1mgあたり2.0〜4.5×107と算出された。 pH、温度に対する特性について検討したところ、最適pHは6.0、80%以上の相対活性維持範囲はpH4.0〜8.2であった。また、温度に対しては40〜50℃で最大活性を持ち、50℃以上で急激に活性が低下する曲線が得られた。これらのことから、微生物はネイティブなまま固定化されていると考えられ、-キチンを用いる固定化法はきわめて温和な方法であることがわかった。 第3章では、-キチンを用いてグルコースオキシダーゼ(GOD)の固定化膜を調製し、この膜を用いてグルコースセンサーを開発し、その特性について検討した。 生体成分の測定で最も重要なものに、グルコースの測定がある。そこで、GODを固定化した-キチン膜を調製し、電極と組み合わせ、グルコースセンサーを作製し、この特性を検討した。まず、調製した膜の洗浄によってどの程度GODが脱離するかを調べた。十分乾燥させたGOD含有キチン膜を緩衝液中で撹拌し、これを酸素電極に装着して応答を調べたところ、キチン膜からは数分間のうちにかなりの量の酵素の脱落が認められたが、それ以降は大きな変化は見られなかった。つまり、微生物固定化の場合と同様に、膜に不完全に固定化された酵素はきわめて短時間の内に脱落するが、いったん固定化された酵素は安定に保持されていることがわかった。 この膜を用いてグルコースセンサーを作製し、その応答を調べた。測定範囲内のどの濃度でも試料投入直後からセンサーの出力が変化し始め、30〜50秒で定常値が得られた。このデータを元に検量線を作製したところ、グルコース濃度2.0mMまでの濃度と出力値の間に直線性が認められ、3.0mM以上で定常となった。検出限界は0.125mM、バッチでの繰り返し測定にかかる時間は、洗浄時間を含め1試料4分間であった。また温度に対する安定性を調べたところ、ミリポア膜にグルコースオキシダーゼを吸着させただけの膜の場合には最大活性が40℃で認められ、55℃では50%に低下した。一方、キチン膜の場合は最大活性が45℃で認められ、55℃でも87%の活性を保持していた。このように、キチン膜にGODを固定化すると温度に対する安定性を増加させることがわかった。pHに対する特性についてはミリポア膜に吸着させた場合と特に差が認められなかった。 第4章では、-キチンを用いて生体内装着型センサーを開発するために、薄膜型センサーを作製し、これの生体適合性について評価した。 キチンの特徴の1つは生体適合性であり、この特徴を最も生かした生体内装着型のセンサーについて検討した。生体内に装着するには、-キチン膜に対して電極を付着させなければならないため、GOD固定化膜に直接金を蒸着し、薄膜型のセンサーを作製した。これを用いてバッチシステムで応答性を調べたところ、過酸化水素に対してもグルコースに対しても試料投入直後より応答が得られ45秒で定常になることが確認された。また検量線は、グルコース濃度1.5mMまで直線性が得られた。 酵素含有-キチン膜を薄膜に成型できることから、これを皮下装着型として利用するための基礎条件を検討することとした。皮下測定での問題点の一つは、皮下での酸素濃度が一定でないことであり、酸素濃度に依存せずに測定できるセンサーを開発する必要がある。そこで各種メディエーターの-キチンへの固定化を試みた。 数種のメディエーターを調べたところ、水溶性のメディエーターである2,6-dichloro phenolindophenol(DCIP)が-キチン膜に固定化できることが明らかとなった。DCIPとグルコースオキシダーゼを固定化した膜とDCIPを含まないグルコースオキシダーゼ固定化膜の応答値を比較すると、前者の応答値は高く、また測定範囲も広がった。 生体内装着を想定した場合の特性として、生体に対する毒性の評価、およびセンサー自身の滅菌方法も重要な課題である。生体に対する毒性のin vitroのアッセイ法として、培養したマウスの繊維芽細胞の表面にセンサーを直接のせ、一定時間経過後の細胞の形状変化から毒性を評価する方法を試みた。その結果、GODを含むキチン膜は全く毒性を示さず、極めて高い生体適合性を示した。またメディエーターとしてDCIPを含む場合でも、毒性はきわめて弱いことがわかった。この方法では細胞に直接センサーを接触させるために、非常に感度の高い方法と考えられ、酵素含有キチン膜センサーの生体適合性が良好である事が裏付けられた。 酵素を含む膜はオートクレーブでの加熱滅菌処理が出来ないため、センサーの滅菌はエチレンオキサイド(EO)処理で行った。その結果、固定化された酵素のKm値が上昇し、活性が低下していることが認められたが、検量線の傾きの変化はわずかで実用上は問題ないことがわかった。 さらに、このセンサーを実際に生体内に装着したときの生体消化性を見るために、モルモット腹部皮下に留置した。6日後に再び皮下を観察したところ、一部消化が始まっていたが、生体に対する悪影響は認められなかった。このように、一定期間使用後は生体内で安全に分解される、生体吸収性バイオセンサーとして利用できる可能性が示された。 以上のように、-キチン膜を用いるバイオセンサーは生体内、特に皮下に装着することができるセンサーとして良好な特性を有していることがわかった。 第5章は総括であり、本研究を要約し得られた研究結果をまとめた。 -キチンを用いて、きわめて穏和な条件下で酵素や微生物を固定化することができ、またこれはバイオセンサーへ応用できることがわかった。さらに、生体適合性のある生体内装着用のバイオセンサーとして、優れた特性を示すことがわかった。本研究によって、初めて生体適合性バイオセンサー、さらに生体消化型バイオセンサーという新しいバイオセンサーの概念を提案することができた。 |