学位論文要旨



No 111226
著者(漢字) 下吹越,光秀
著者(英字)
著者(カナ) シモヒゴシ,ミツヒデ
標題(和) 尿中化学成分計測用のバイオサーモチップの開発
標題(洋)
報告番号 111226
報告番号 甲11226
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第3470号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 輕部,征夫
 東京大学 教授 柳田,博明
 東京大学 教授 藤正,巌
 東京大学 助教授 宮山,勝
 東京大学 助教授 熊谷,泉
内容要旨

 本論文は、疾病のスクリーニングに使われる尿中の健康指標成分の計測を目的とした、新規な熱検知型バイオセンサー(バイオサーモチップ)の開発と、その応用に関するものであり、7章より構成される。

 近年、日本人の食生活の変化、高齢化により糖尿病、癌などの成人病が増加しており、その予防・診断のために、尿中のグルコースなどの健康指標成分を手軽に計測する方法が求められている。一方、従来の物理センサーや化学的な分析法では測定が困難であった物質を測定するために、生体分子と物理化学デバイスを組み合わせたバイオセンサーが開発されている。トランスデューサーとしては酸素電極、過酸化水素電極などの電気化学デバイスのほかに、熱検知素子、水晶振動子などが用いられている。尿中の健康指標成分として、臨床検査においては数十種類の物質がその対象となる。これらの化学物質を計測するために、種々の酵素が用いられる。全ての酵素反応はエンタルピーの変化をともなうので、熱検知素子を用いれば全ての化学成分を計測できるバイオセンサーを構築できる。しかし、酵素反応による発熱は微小なため、その温度変化を検知するのは容易なことではなく、従来のバイオサーミスタでは周囲の温度変化による熱ノイズを除くために、センサーを精密恒温槽内に設置している。そのため、測定システムは非常に大きく、しかも高価なものになり、応用例は限られていた。

 そこで、本研究では、サーミスタの微小化および酵素固定化枠の作製により、精密恒温槽を用いずに手軽に、尿中の複数の健康指標成分を計測できるバイオサーミスタシステム(バイオサーモチップ)を開発し、このシステムを用いてグルコース、尿酸、シュウ酸、タンパクの計測を行なった。

 第1章は緒論であり、本研究の行なわれた背景と、本研究の目的及び意義を述べた。

 第2章では、微小な熱検知部を持つチップサーミスタを用い、グルコースオキシダーゼ(GOD)を固定化し、精密恒温槽を使わずにグルコースの計測が可能なセンサーを作製し、その特性について検討した。

 精密恒温槽を使わずにバイオサーミスタシステムを構築するためには、周囲の熱ノイズより大きな温度変化を得る必要がある。そのためには、酵素反応による発熱量を増加させることと、同じ発熱量での温度変化を大きくするためにシステム自体の熱容量を少なくする必要がある。これらの点を考慮して、微小な熱検知部を持つチップサーミスタを使用してバイオサーミスタシステムを作製した。熱検知部の上に酵素溶液と光架橋性ポリビニルアルコール樹脂(PVA-SbQ)を混合したものを塗布し、光重合させて酵素を固定化した。GODはグルコースを酸化して80kJ/molのエンタルピー変化を起こす。発泡スチロールで断熱した測定セル中に、GODを固定化したサーミスタと、牛血清アルブミン(BSA)を固定化した参照サーミスタを挿入し、両者の温度差をとることにより室温の変化や基質の吸着による非特異的な温度変化を補正した。

 このようにして作製したバイオサーミスタシステムでグルコースの計測を行なった。その結果、グルコース濃度1-5mMの範囲で定量が可能であり、熱容量の小さい1.5mlの測定セルで最大80mKの温度差が得られ、精密恒温槽が不要なバイオサーミスタシステムを構築できた。臨床検査ではグルコース濃度2mM以上が異常値となるので、このシステムは糖尿病のスクリーニング用のセンサーとして利用できる。

 第3章では、固定化酵素量を増加させ、酵素膜厚を制御し、酵素膜を物理的に保護するために、ビード型サーミスタの回りに酵素固定化枠を形成した素子(バイオサーモチップ)を作製し、その特性について検討した。

 チップサーミスタを使ったバイオサーミスタでは、酵素を塗布して固定化しているので、酵素膜厚を制御することが困難である。また酵素膜は水により膨潤し、サーミスタからはく離するので、酵素膜を厚くして酵素固定化量を増やすのにも限界がある。これらの問題点を解決するために、ビード型サーミスタの回りに酵素固定化用の支持枠を形成した素子(バイオサーモチップ)を作製した。この固定化枠は、熱収縮性シリコーンチューブで作製し、基質溶液と固定化酵素の接触を妨げないように、チューブの壁には多数の穴を開けた。この枠とサーミスタの間に酵素溶液とPVA-SbQの混合液を注入し、光重合させることにより酵素を固定化した。この枠により大量の酵素を固定化することが可能となり、更に膨潤などによる酵素膜のはく落を防ぐことができた。このバイオサーモチップは、後の章で述べるように、固定化する酵素を変えて複数の成分を測定したので、以後混乱を避けるために固定化した酵素の略称を頭に付けて示す。酵素反応を組み合わせてエンタルピー変化を増幅するために、GODとカタラーゼ(CAT)を固定化したGOD-CATバイオサーモチップと、酵素固定化枠を持たないサーミスタに同じ酵素液を塗布して固定化したものとの特性を比較したところ、両センサーともグルコース濃度1-4mMの範囲で定量が可能であり、GOD-CATバイオサーモチップは固定化枠を持たないサーミスタに比べて、約2倍の出力を示した。これは、固定化枠をつけることにより酵素固定化量が増大したためと、固定化枠により周囲の溶液への反応熱の放散が抑制された結果であると考えられた。

 次に、バイオサーモチップに対する尿中の測定妨害成分の有無を確かめるために、健常人の実尿を用いてグルコース応答に及ぼす影響を検討した。その結果、実尿溶液はバイオサーモチップの出力にほとんど影響を与えず、尿中にはバイオサーモチップに対する妨害成分が存在しないと考えられた。グルコース以外の尿中成分がGOD-CATバイオサーモチップシステムに影響を及ぼさないのは、トランスデューサーとしてサーミスタを用いているためであると考えられる。サーミスタの表面はガラスで覆われているので化学的に不活性であり、しかも電気化学デバイスのように測定時にサーミスタと試料溶液の間に電圧を印加することはない。そのため、サーミスタ近傍では酵素反応のみが起こり、バイオサーモチップの基質に対する選択応答性は酵素の基質特異性のみに依存し、他成分の影響を受けないと考えられる。これらのことから、GOD-CATバイオサーモチップは尿中グルコース計測用のセンサーとして非常に適していると考えられる。

 第4章では、サーモチップにウリカーゼを固定化した尿酸センサーを作製し、その特性について検討した。

 トランスデューサーにサーミスタを用いる利点の一つは、熱変化を伴う反応ならば、固定化する酵素を変えることにより、同じシステムで違う基質の測定を行なえることである。そこで、次に尿酸の計測について検討した。高尿酸血症は痛風の原因となり、悪性腫瘍などで細胞崩壊が亢進して多量の核酸が遊離したときにも尿中尿酸排泄量が増加する。また、尿中の尿酸濃度が高い場合、腎・尿路結石が作られる可能性が高い。よって、尿中の尿酸量を測定することにより、これらの疾病のスクリーニングが行なえる。

 ウリカーゼ(UO)は尿酸を酸化して50kJ/molのエンタルピー変化を起こす。したがって、UOとCATを組み合せて固定化したバイオサーモチップを作製した。その結果、尿酸濃度1-6mMの範囲で定量が可能であった。健常人の尿中の尿酸濃度(3mM)を考慮すると、このシステムは通風や腎・尿路結石症のスクリーニング用のセンサーとして利用できる。

 第5章では、サーモチップにシュウ酸オキシダーゼを固定化したシュウ酸センサー、また尿酸センサーとシュウ酸センサーを集積化したマルチバイオサーモチップを作製し、その特性について検討した。

 腎・尿路結石の7割以上はシュウ酸カルシウムを主成分とし、残りのほとんどは尿酸由来のものである。健常人の尿中のシュウ酸濃度は約0.3mMであり、尿中シュウ酸濃度が0.5mMを越えると尿中シュウ酸カルシウムの結晶量が急激に増加するので、腎・尿路結石のスクリーニングのために、これらの濃度を測定できるセンサーが求められている。

 シュウ酸オキシダーゼ(OxO)はシュウ酸を酸化して143kJ/molのエンタルピー変化を起こす。したがって、OxOとCATを組み合せて固定化したバイオサーモチップを作製した。その結果、シュウ酸濃度0.1-0.8mMの範囲で定量が可能であった。健常人の尿中シュウ酸濃度を考慮すると、このセンサーはシュウ酸由来の腎・尿路結石症のスクリーニング用のセンサーとして利用できる。また、シュウ酸と尿酸由来の成分で腎・尿路結石のほとんどを占めることから、両成分を同時に計測できるマルチバイオサーモチップを作製し、その特性について検討した。その結果、UO-CATバイオサーモチップとOxO-CATバイオサーモチップは同じ条件下で十分な出力が得られ、また尿酸とシュウ酸はお互いのセンサーの応答を妨害しなかった。これらのことから、UO-CATサーミスタ、OxO-CATサーミスタ、参照サーミスタの3本を同一セル内に設置して、尿酸とシュウ酸の濃度を同時に計測できるマルチバイオサーモチップの構築が可能であり、より正確な腎・尿路結石のスクリーニング用のセンサーとして利用できることがわかった。

 第6章では、サーモチップにプロテアーゼを固定化したタンパクセンサーを作製し、その特性について検討した。

 血液中にはアルブミン、グロブリンなどのタンパクが含まれており、通常は全て腎臓での再吸収により尿から血液に戻る。腎臓や尿管に障害があるとタンパクが尿中にもれてタンパク尿となる。健常人の尿中にはタンパクは検出されないが、臨床検査では30mg/dl以上を異常値としている。プロテアーゼはタンパクを加水分解し、発熱方向のエンタルピー変化を起こす。タンパクは高分子量の化合物であり、またプロテアーゼの基質特異性も低いので、これまでに検討したグルコースなどの低分子量化合物のように1mol当たりのエンタルピー変化は算出できない。しかし、プロテアーゼをバイオサーモチップに固定化することで、タンパクを検出できるセンサーを作製できると考えられる。そこで、プロテアーゼのトリプシン(Try)とパパイン(Pap)を組み合わせて固定化したTry-Papバイオサーモチップを作製した。BSAを溶解した試料を用いて測定を行なったところ、BSA濃度20-100mg/dlの範囲で定量が可能であった。タンパクの種類をBSAからヒト血清アルブミン、ヒト血清-グロブリンに変えても出力の差はほとんどなかった。また、pH6、7、8の緩衝液を用いたヒト血清アルブミンの測定でも出力の差はほとんどなかった。このことから、Try-Papバイオサーモチップは、尿中の総タンパク計測用のセンサーとして利用できると思われた。

 第7章は本論文の結論であり、本研究で得られた結果を総括した。

 尿中の健康指標成分を計測するために、精密恒温槽が不要な新しいバイオサーミスタシステム(バイオサーモチップ)を開発した。このシステムは、従来の尿試験紙法や電極型バイオセンサー法で問題となっている測定妨害物質の影響を受けないので、尿中の化学成分計測用のセンサーとして適している。また、固定化する酵素を変えることにより複数の尿中成分の計測を容易に行うことができる。今後、このバイオサーモチップシステムは、在宅医療や予防医学のための、尿中化学成分の計測に大きな役割を果たすものと期待される。

審査要旨

 本論文は、疾病のスクリーニングに使われる尿中の健康指標成分を計測をするための新規な熱検知型バイオセンサー(バイオサーモチップ)の開発に関するものであり、7章より構成されている。

 第1章は緒論であり、本研究の行なわれた背景と、本研究の目的及び意義について述べている。

 第2章では、微小な熱検知部を持つチップサーミスタを用い、精密恒温槽を使わずにバイオサーミスタシステムを作製し、その特性について検討している。酵素は、チップサーミスタの熱検知部の上に酵素溶液と光架橋性ポリビニルアルコール樹脂(PVA-SbQ)を混合したものを塗布し、光重合させることにより固定化している。グルコースオキシダーゼ(GOD)はグルコースを酸化して80kJ/molのエンタルピー変化を起こすことから、GODを固定化したセンサーを作製してグルコースを定量している。その結果、グルコース濃度1-5mMの範囲で定量が可能であり、熱容量の小さい1.5mlの測定セルで最大80mKの温度差が得られ、精密恒温槽が不要なバイオサーミスタシステムの構築が可能であることを示している。

 第3章では、固定化酵素量を増加させ、酵素膜厚を制御し、酵素膜を物理的に保護するために、ビード型サーミスタの回りに酵素固定化枠を形成した素子(バイオサーモチップ)を作製し、その特性について検討している。この固定化枠は、熱収縮性シリコーンチューブで作製され、基質溶液と固定化酵素の接触を妨げないように、チューブの壁には多数の穴を開けている。この枠とサーミスタの間に酵素溶液とPVA-SbQの混合液を注入し、光重合させることにより酵素を固定化している。ここでは、酵素反応を組み合わせてエンタルピー変化を増幅するために、GODとカタラーゼ(CAT)を同時に固定化してGOD-CATバイオサーモチップを作製している。そして、GOD-CATバイオサーモチップと、酵素固定化枠を持たないサーミスタに同じ酵素液を塗布して固定化したものとの特性を比較している。その結果、両センサーともグルコース濃度1-4mMの範囲で定量が可能であり、GOD-CATバイオサーモチップは固定化枠を持たないサーミスタに比べて、約2倍の出力を示すと述べている。

 更に、バイオサーモチップに対する尿中の測定妨害成分の有無を確かめるために、健常人の実尿を用いてグルコース応答に及ぼす、これらの成分の影響について検討している。その結果、実尿溶液はバイオサーモチップの出力にほとんど影響を与えず、尿中にはバイオサーモチップに対する妨害成分が存在しないと報告している。これらのことから、GOD-CATバイオサーモチップは尿中のグルコース計測用のセンサーとして非常に優れていることを明らかにしている。

 このバイオサーモチップは酵素反応による温度変化を検知しているので、固定化する酵素を変えることにより、同じシステムで違う基質の測定が可能であると考えられる。そこで、第4章以降ではバイオサーモチップを用いて、グルコース以外の尿酸、シュウ酸、タンパク等の尿中健康指標成分の測定について検討している。

 第4章では、ウリカーゼによる尿酸の酸化反応に着目して、バイオサーモチップにウリカーゼとカタラーゼを固定化し、尿酸センサーを作製している。その結果、尿酸濃度1-6mMの範囲で定量が可能であり、このセンサーが通風や腎・尿路結石症のスクリーニング用のセンサーとして利用できることを示している。

 第5章では、シュウ酸オキシダーゼによるシュウ酸の酸化反応に着目して、バイオサーモチップにシュウ酸オキシダーゼとカタラーゼを固定化し、シュウ酸センサーを作製している。その結果、シュウ酸濃度0.1-0.8mMの範囲で定量が可能であり、このセンサーがシュウ酸由来の腎・尿路結石症のスクリーニング用のセンサーとして利用できることを示している。

 また、シュウ酸と尿酸由来の成分で腎・尿路結石のほとんどを占めることから、両成分を同時に計測できるマルチバイオサーモチップを作製し、その特性について検討している。その結果、尿酸センサーとシュウ酸センサーは同じpH8の条件下で十分な出力が得られ、また尿酸とシュウ酸はお互いのセンサーの応答を妨害しないことから、尿酸とシュウ酸の濃度を同時に計測できるマルチバイオサーモチップの作製が可能であり、これらが正確な腎・尿路結石のスクリーニング用のセンサーとして利用できることを示している。

 第6章では、プロテアーゼによるタンパクの加水分解反応を利用して、バイオサーモチップにプロテアーゼのトリプシンとパパインを固定化し、タンパクセンサーを作製している。その結果、ウシ血清アルブミン濃度20-100mg/dlの範囲で定量が可能であることを示しており、タンパクの種類をウシ血清アルブミンからヒト血清アルブミン、ヒト血清-グロブリンに変えても出力の差はほとんどなく、このタンパクセンサーが尿中の総タンパク計測用のセンサーとして利用できることを示している。

 第7章は本論文の結論であり、本研究で得られた結果を総括している。

 このように本論文では、汎用性のトランスデューサーであるサーミスタを用いて、精密恒温槽が不要な、新規なバイオサーミスタシステム(バイオサーモチップ)を開発している。このバイオサーモチップは、従来の尿試験紙法や電極型バイオセンサー法で問題となっている測定妨害物質の影響を受けないという点で画期的であり、尿中の化学成分計測用のセンサーとして適している。また、固定化する酵素を変えることにより複数の尿中成分の計測を容易に行うことができるので、汎用性が高く、極めて独創的かつ先駆的といえる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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