内容要旨 | | 多細胞生物の発生を司る分子機構の解明は、現代生物学における重要なテーマの一つである。本研究では、高等植物の発生を司る分子遺伝学的機構の解明をめざし、外来遺伝子を導入したトランスジェニック植物を材料として、その発生遺伝学的な研究を行なった。本論文は、三章よりなる。 第一章においては、土壌細菌の一種、Agrobacterium rhizogenesのT-DNA領域に含まれるrolC遺伝子に着目し、その解析を行なった。rolC遺伝子は、その遺伝子産物が、植物ホルモンの一種であるサイトカイニンの代謝に関与しており、サイトカイニンの配糖体から糖を外す酵素活性を持つことが知られている。また、rolC-GUS融合遺伝子を導入した各種トランスジェニック植物において、その発現が篩部特異性を有することも、すでに報告されている。ここでは、rolC-GUS融合遺伝子を導入したトランスジェニック・タバコを材料に、その生殖器官における導入遺伝子の発現様式を解析した。GUS遺伝子は、-グルクロニダーゼをコードする大腸菌由来の遺伝子であり、融合遺伝子とした場合、酵素活性を指標に、上流に組み込んだDNA領域の遺伝子発現調節機能を容易にモニターすることができる。 トランスジェニック・タバコに対する組織化学的解析の結果、rolC-GUS融合遺伝子は胎座、がく、花弁、珠柄において発現が認められた。rolC-GUS融合遺伝子の発現は、雄性生殖器官の中で花糸およびやくと花糸との合着部において強く認められた。接合子の胚発生におけるrolC-GUS融合遺伝子の発現様式を、受粉後の日数を追って-グルクロニダーゼ(GUS)酵素活性を指標に解析した結果、受粉後20日目が最大活性を示し、その後は種子の休眠誘導による乾燥に伴って活性が減少した。組織化学的な解析の結果からは、その発現は主に子葉および胚軸・根の維管束部分に認められることが判明した。したがって、この時期の胚には篩部の明瞭な分化が起きていることが示唆される。播種後のGUS活性は12日目をピークとし、その後は減少した。これらの経過は、胚発生過程における篩部分化と、rolC-GUS融合遺伝子の発現とが強い相関を持っていることを、示唆するものである。 さらに、トランスジェニック・タバコにおいて、rolC-GUS融合遺伝子の発現が篩部に特異的であることが確認されたので、木部が分化するとその部分が他の細胞から光学的に識別できることを利用して、胚における維管束の分化を観察した。その結果、木部の分化に先だって、篩部の分化とそれに伴うrolC-GUS融合遺伝子が発現することが、判明した。rolC-GUS融合遺伝子は、このように篩部分化をモニターする上で、特に優れた指標と考えられる。 第二章においては、アラビドプシス(Arabidopsis thaliana)を用いた発生遺伝学的解析を報告する。アラビドプシスは生活環が短い、ゲノムサイズが小さいなど、実験植物として優れており、近年双子葉植物を用いた分子遺伝学的研究のためのモデル植物として広く用いられるようになった材料である。ここでは、rolC-GUS融合遺伝子を導入したトランスジェニック・アラビドプシスの解析中、葉の形態が著しく変化した変異体を見いだしたので、これを材料とした葉形態形成に関する基礎的解析を行なった。 この変異体は葉柄が著しく短く、遺伝学的解析の結果、この変異は単一遺伝子の劣性変異であることが判明したので、spbl#52(short petiole broad leaf)と仮に命名し、さらに解析を行なった。spbl#52変異遺伝子は、導入遺伝子のマーカーであるGUS酵素活性、およびカナマイシン抵抗性を用いてのいずれとも連鎖を示さなかったため、少なくとも、これらマーカーを含む領域によって遺伝子破壊を生じたものではない。より短い断片によってタグされたものか、あるいは体細胞変異によるものかは、今後の課題である。 spbl#52変異体はロゼット葉の枚数の増加を伴い、普通葉のすべてにおいて葉柄の著しい短縮、葉身の長さの短縮と葉身の幅の増加が認められ、葉の発生過程において、その長さ方向への発達を制御する遺伝子に変異が生じたものと推察された。マッピング・ストレインを用いた染色体上へのSPBL#52遺伝子のマッピングの結果、SPBL#52遺伝子は4番染色体86.3マップユニットの位置にあることが判明した。葉の形態を制御する遺伝子の変異であることが、すでに判明している他の2つの変異、angustifolia変異およびrotundifolial変異との二重変異体を作成し、その形態を観察した結果、spbl#52変異はangustifolia変異およびrotundifolial変異の、いずれとも異なる新しい変異であり、SPBL#52遺伝子は、葉の形態を制御する上でANGUSTIFOLIA遺伝子およびROTUNDIFOLIA1遺伝子と独立に機能していることが判明した。 今後この変異体を用いた解析を進めることで、葉身と葉柄の発達を制御する遺伝因子の理解の進むことが、期待される。 第三章においては、アラビドプシス由来ara遺伝子を構成的に強制発現させたトランスジェニック・タバコを材料に、ara遺伝子が植物の発生過程に与える影響を解析した。ara遺伝子はアラビドプシスから単離された低分子量GTP結合蛋白質遺伝子のホモログで、これまでに5種類が知られている。しかしそのいずれも、生体内での機能についてはまだ不明のままである。 ここではそのうちara-2,ara-4に関し、トランスジェニック・タバコを用いた解析を行なった。導入遺伝子としてはカリフラワーモザイクウイルス・35Sプロモーターの下流に構造遺伝子を融合させたキメラ遺伝子を用いた。 その結果、ara-2,ara-4いずれの場合も、カリフラワーモザイクウイルス・35Sプロモーターで強制発現させたトランスジェニック・タバコにおいて、形態異常を引き起こすことが判明した。葉においては海綿状組織と柵状組織の分化不全、花においては各器官の融合、発達不全などの異常が認められた。また走査型電子顕微鏡を用いた観察から、葉の表皮細胞の分化にも異常が認められた。トランスジェニック植物の後代について、さらに詳細にその表現型を検討した結果、ara-2,ara-4各導入遺伝子を有する株のうち10%ほどしか形態異常を引き起さないこと、一つの株の中でも表現型は不安定であることがわかった。またトランスジェニック・タバコから蛋白質を抽出し、イムノブロット法により、たしかにARA蛋白質が細胞内で発現していることを確認した。したがって、トランスジェニック・タバコにおける表現型の不安定さは、植物の細胞内でのara-2,ara-4の過剰発現が表現型をもたらす一方で、細胞内で何らかの調節機構が働き、表現型を抑制しているためと推察された。低分子量GTP結合蛋白質遺伝子のホモログであるara-2,ara-4遺伝子の、植物の発生における役割を知る上で、本トランスジェニック・タバコの解析は、有効な手がかりを与えたものと考えられる。 以上、(a)rolCプロモーターを用いることによって、篩部の分化を組織化学的にモニターすることが可能となった。(b)rolC-GUS融合遺伝子を導入したトランスジェニック・アラビドプシスを遺伝学的に解析した結果、葉の分化に関与する新たな遺伝子座を明らかとすることができた。(c)GTP結合タンパク質をコードする遺伝子が、葉の形態変化の一因となることを明らかにした。これらの新知見は、植物の形態形成を分子生物学的に明らかにしてゆく上で、有用と考えられる。 |
審査要旨 | | 多細胞生物の発生を司る分子機構の解明は,現代生物学における重要な課題の一つである。本研究では,高等植物の発生な司る分子遺伝学的機構の解明をめざし,外来遺伝子を導入したトランスジェニック植物を材料として,その発育遺伝学的研究を行った。得られた知見の概要は以下の通りである。 1.土壌細菌Agrobacterium rhizogenesのT-DNA領域に含まれるrol C遺伝子に着目し,発現特異性の解析を行った。rolC遺伝子はサイトカイニンの配糖体から糖を外す酵素活性を持つ一方で,各種トランスジェニック植物において,その発現が篩部特異性を示すことも,すでに報告されている。本研究では, rolC-GUS融合遺伝子を導入したトランスジェニック・タバコを材料に,生殖器官における導入遺伝子の発現様式を解析した。GUS遺伝子は-グルコニダーゼをコードする大腸菌由来の遺伝子であり,融合遺伝子とした場合,酵素活性を指標に,上流に組み込んだDNA領域の遺伝子発現機能をモニターすることができる。 組織化学的解析の結果,rolC-GUS融合遺伝子は胎座,がく,花弁,珠柄のほか,とくに花糸および花糸と葯との合着部において強く発現が認められた。接合子の胚発生における融合遺伝子の発現様式をGUS酵素活性を指標に解析した結果,受粉後20日目が最大値を示し,その後は種子の乾燥に伴って活性が減少した。組織化学的な解析の結果からは,おもに子葉,胚軸,根の維管束部分に発現が認められ,この時期の胚には篩部の明瞭な分化が起きていることが示唆された。播種後のGUS活性は12日目をピークとし,その後は減少した。さらに,木部の分化に先立って,篩部の分化とそれに伴うrolC-GUS融合遺伝子が発現することが判明した。以上のことから,この融合遺伝子は,篩部分化をモニターする上でとくに優れた指標になると考えられた。 2.つぎに,アラビドプシス(Arabidopsis thaliana)を用いた発生遺伝学的解析を行った。アラビドプシスは生活環が短く,ゲノムサイズが小さいなど,実験植物として優れている。本研究中に,rolC-GUS融合遺伝子を導入したトランスジェニック・アラビドプシスの中から,葉の形態が著しく変化した変異体を見いだしたので,これを材料として葉形態形成に関する基礎的解析を行った。 この変異は単一遺伝子の劣性変異であることが判明したので,spb#52(short petiole broad leaf)と仮に命名した。spb#52変異体は葉の発生過程において,長さ方向への発達を制御する遺伝子に変異が生じたものと推察された。マッピング・ストレインを用いた染色体上へのマッピングの結果,spb#52遺伝子は第4染色体86.3マッブユニットの位置にあることが判明した。さらに,angustifolia変異およびrotundifolial変異との2重変異体を作成し,解析した。その結果,spb#52変異遺伝子はいずれとも異なる新しい遺伝子であり,葉の形態を制御する上で独立に機能していることが判明した。今後この変異体を用いた解析を進めることで,葉身と葉柄の発達な制御する遺伝因子の理解の進むこよが期待される。 3.つぎに,アラビドプシス由来ara遺伝子を構成的に強制発現させたトランスジェニック・タバコを材料に,ara遺伝子が植物の発生過程に与える影響を解析した。ara遺伝子は低分子量のGTP結合タンパク質遺伝子のホモログで,これまで5種類知られている。しかしそのいずれも,生体内での機能についてはまだ不明のままである。本研究では導入遺伝子として,35Sプロモータに構造遺伝子ara-2やra-4を融合させたキメラ遺伝子を用いた。 その結果,いずれの場合もトランスジェニック・タバコにおいて,形態異常を引き起こすことが判明した。葉においては海綿状組織と柵状組織の分化不全,花においては各器官の融合,発達不全などの異常が認められた。トランスジェニック植物の後代について検討した結果,各導入遺伝子を有する株はいずれもARAタンパク質を発現しているが,そのうち約10%しか形態異常を引き起こさないこと,一つの株の中でも表現型は不安定であることがわかった。したがって,トランスジェニック・タバコにおいては,細胞内でのara-2,ara-4の過剰発現が表現型をもたらす一方で,細胞内で何らかの調節機構が働き,表現型を抑制しているものと推察された。 以上を要約すると,トランスジェニック植物な利用した本研究により,植物の形態形成に関与する遺伝子発現について,いくつかの新知見を得ることができた。これらの成果は学術上,応用上寄与することが大きい。よって審査委員一同は申請者に博士(農学)の学位を与える価値があることを認めた。 |