学位論文要旨



No 111245
著者(漢字) 金澤,健二
著者(英字)
著者(カナ) カナザワ,ケンジ
標題(和) ニコチアナミンアミノ基転移酵素の研究
標題(洋) Studies on nicotianamine aminotrasferase
報告番号 111245
報告番号 甲11245
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1536号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 教授 松本,聡
 東京大学 教授 高橋,秀夫
 東京大学 教授 松沢,洋
 東京大学 助教授 吉村,悦朗
内容要旨

 イネ科を除く多くの高等植物は、根の細胞膜表層に存在するレダクターゼによってFe3+をFe2+に還元してからFe3+を吸収する。一方、主要な穀草全てを含んでいるイネ科植物は、それ以外の植物とは異なり、3価カチオンのキレーターであるムギネ酸類を分泌し、Fe3+をキレートしたムギネ酸類を錯体のまま吸収している。オオムギでは、ムギネ酸類が根の先端部付近で生合成され、鉄欠乏処理によって大幅にその生合成活性が誘導されることがわかっている。ムギネ酸類の分泌はイネ科植物全般に認められ、いずれの植物種でも鉄欠乏処理で分泌が誘導される。しかし、ムギネ酸類の総分泌量には種間差があり、総分泌量は鉄欠乏耐性と相関がある。ムギネ酸類の分泌量が、ムギネ酸類の生合成量によって決定されているとすれば、ムギネ酸類の生合成活性がイネ科植物の鉄欠乏耐性を支配している可能性がある。ムギネ酸類の生合成の研究は、当研究室を含む日本のグループによって精力的になされ、図1に示す生合成経路の存在が明かにされた。そして、この経路に含まれる反応を触媒する酵素群のうち、S-アデノシルメチオニン→ニコチアナミンを触媒するニコチアナミン合成酵素、及び、ニコチアナミン→3"-oxo体を触媒するニコチアナミンアミノ基転移酵素(NAAT)については、それぞれ単独のin vitro反応系が当研究室の生嶋、大畑らによって新たに確立された。これらの酵素は、S-アデノシルメチオニン以降のムギネ酸類生合成経路の初期段階を触媒するので、その活性量がムギネ酸類の生合成量に及ぼす影響は大きい。従って、これらの酵素をコードする遺伝子は、ムギネ酸類生合成系の根における発現や鉄欠乏ストレスによる誘導機構を分子生物学的に解析するための分子プローブとして有用と考えられるだけでなく、鉄欠乏耐性遺伝子として分子育種へ応用できるかもしれない。特に鉄欠乏誘導性の問題は、栄養ストレスに対する植物の応答の分子生物学的研究が乏しい現状に鑑みて、興味がもたれる。当研究室ではディファレンシャルスクリーニングによって、鉄欠乏により誘導される遺伝子やペプチドを単離しており、その遺伝子の発現機構の研究を進めている。しかし、これらの遺伝子産物やペプチドの機能は未だ明らかでないため、これらがムギネ酸類生合成などの鉄欠乏ストレスに対する応答に如何に関与しているのか定かでない。従って、ニコチアナミン合成酵素やNAATをコードする遺伝子が単離されれば、遺伝子産物の機能が明らかであるために、より信頼性の高い分子生物学的研究が可能となるだろう。そこで、当研究室ではこれらの遺伝子を単離することを目的とし、酵素精製を開始した。後者のNAATについては、大畑によって既に部分精製されたが、単離には至らなかったので、本研究ではNAATの新たな精製方法の開発を行った。一方、NAATが本当に鉄欠乏耐性因子なのか、また最も多くのNAAT活性を含む材料が何かなどの知見は全く得られていなかった。そこで、これらの知見を蓄積すべくNAATの所在や性質についても研究することにした。

図1 ムギネ酸類の生合成経路

 NAATの精製や性質の研究にはオオムギを用いた。NAATの所在の調査にはオオムギの他にイネ、ソルガム、トウモロコシ、コムギ、カラスムギ、ダイズ、タバコ、トマトを用いた。水耕栽培した発芽後2-3週間の植物に1-3週間の鉄欠乏処理を行い、根を採取して大畑の方法によってNAAT活性を測定した。その結果、以下に述べる事実が明かとなった。

 所在 調べた全てのイネ科植物の根に活性が認められたが、双子葉植物では活性が検出されなかった。これは、ムギネ酸類の前駆体で、NAATの基質であるニコチアナミンは植物界に広く分布するのに対しムギネ酸類はイネ科のみに認められるという事実と合致している。ムギネ酸類はイネ科の根以外に地上部にも存在するが、NAAT活性はオオムギの鉄欠乏性黄化葉には活性が検出されなかった。これは、地上部に存在するムギネ酸類は根から移行してきたものだとする従来の予想と合致し、NAAT遺伝子の発現が根に特異的であることを示唆している。

 性質 イネ科植物ではムギネ酸類の分泌量と同様にNAAT活性に種間差があり、ムギネ酸類の放出量と相関があった。これは、NAAT活性の増強がムギネ酸類の生合成量の増強の必要条件であることを示している。また、調べた全てのイネ科植物で鉄欠乏処理でNAAT活性が誘導され、オオムギでは1日以上、3日以内に活性が誘導された。このNAAT活性の誘導期間は、ムギネ酸類の分泌の誘導に要した期間と一致した。これはNAATがイネ科植物の鉄欠乏に対する応答を解析するための手段として妥当なことを示している。水耕液にエビヒドロキシムギネ酸-Fe3+を再添加し鉄欠乏処理を解除するとオオムギでは1日以上、2日以内にNAAT活性が減少した。ムギネ酸類の分泌には日周変動が認められるが、オオムギではNAAT活性に日周変動は認められなかった。NAAT活性の誘導には植物個体の生育段階は関係がなく、発芽直後の幼若個体に対して1週間の鉄欠乏処理を行った場合においても酵素活性が誘導された。in vitroのNAAT活性の最適pHは、8.5-9.0、最適温度は、25-35℃だった。K+イオンがNAAT活性の維持に必要だったが、2価カチオンは必須ではなかった。Fe2+イオンやFe3+イオンは活性を阻害しなかった。オオムギにおいてはムギネ酸類生合成系の最終生成物であるエビヒドロキシムギネ酸によるNAATのフィードバック阻害は認められなかった。オオムギには複数のNAATのアイソザイムが存在し、いずれも鉄欠乏で活性が誘導された。これらのアイソザイムのうち、NAAT IIと命名したものは鉄欠乏処理を行わなかった対照区でも活性が検出されたが、NAAT Iと命名したものは鉄欠乏植物にのみ活性が認められた。NAAT IとNAAT IIの分子量とニコチアナミンに対するKm値を測定したところ、それぞれ(80kDa,0.4mM)、(90kDa,0.9mM)だった。

 精製 鉄欠乏処理による活性の誘導が顕著なNAAT Iを、プチルトヨパール650M、ハイドロキシルアパタイト、DEAEセファセル、セファクリルS300-HRおよびエコノパックカートリッジHTPにより、鉄欠乏処理したオオムギの根1kgから精製した。この方法で得られた最終精製標品の粗抽出液に対する見かけの精製度は40倍程度だったが、全NAAT活性に占めるこのアイソザイムの活性の割合と、精製途中の透析による失活を考慮すると、実質的な精製度は約700倍と見積られた。この方法で得られた最終精製標品にはなお多くのペプチドが含まれていたが、鉄欠乏処理をしなかった対照区から同様の方法で精製した標品と比較を行い、NAAT Iと考えられるペプチドを同定した。しかし、N末端のアミノ酸配列を分析できる量を得るには至らなかった。

 本研究で、NAAT活性が根に局在し鉄欠乏誘導性であること、イネ科植物のムギネ酸類の生合成量と相関を持つことを示した。このことは、NAAT遺伝子が当初の目論み通りムギネ酸類生合成系の根における発現や鉄欠乏ストレスによる誘導機構を分子生物学的に解析するための分子プローブとして、また鉄欠乏耐性遺伝子として利用できる可能性を示している。また、NAATの生化学的性質を明らかにするとともに、これが複数のアイソザイムを含むことを示した。そして、新たなNAATの精製法を開発してNAAT I活性と消長を共にするペプチドを同定し、今後より高度な精製を目指す場合の基礎を与えた。

審査要旨

 本論文は,新規酵素,ニコチアナミンアミノ基転移酵素について,精製と性質に関する研究を行ったものである。

 第1章では,研究の背景と目的を明らかにしている。すなわち,イネ科植物は,それ以外の植物とは異なり,3価カチオンのキレーターであるムギネ酸類を分泌し,Fe3+をキレートしたムギネ酸類を錯体のまま吸収しており,ムギネ酸類の生合成と分泌は鉄欠乏処理で誘導される。ムギネ酸類の総分泌量には種間差があり,鉄欠乏耐性と相関があり,ムギネ酸類の生合成活性がイネ科植物の鉄欠乏耐性を支配していると考えられている。

 当研究では,ムギネ酸類の生合成経路のうち初期段階を触媒するニコチアナミンアミノ基転移酵素に着目し,研究対象とした。それは,本酵素がイネ科のみが進化的に獲得した酵素と考えられ,ムギネ酸類の生合成量に及ぼす影響が大きく,この酵素をコードする遺伝子は,ムギネ酸類生合成系の根における発現や鉄欠乏ストレスによる誘導機構を分子生物学的に解析するための分子プローブとして,鉄欠乏耐性遺伝子の候補として重要であると考えたためである。

 第2章では,水耕栽培したオオムギの根を主に実験材料として用い,大畑の方法によって酵素活性を測定し,以下の新事実を明らかにし,考察を加えている。

 所在 6種類のイネ科植物の根に活性が認められ,双子葉植物では活性が検出されなかった。この結果は,本酵素の基質であるニコチアナミンは植物界に広く分布するのに対しムギネ酸類はイネ科のみに認められるという事実と合致している。本酵素活性はオオムギの鉄欠乏性黄化葉には活性が検出されなかったが,このことは地上部に存在するムギネ酸類は根から移行してきたものだとする従来の予想と合致している。この遺伝子の発現は根に特異的であると推定した。

 性質 イネ科植物ではムギネ酸類の分泌量と同様に本酵素活性に種間差があり,ムギネ酸類の放出量と相関があった。このことは,この酵素活性の増強がムギネ酸類の生合成量の増強の必要条件であることを示している。また,調べた全てのイネ科植物で鉄欠乏処理で本酵素活性が誘導され,オオムギでは1日以上,3日以内に活性が誘導されたこと,ならびに鉄欠乏処理を解除するとオオムギでは1日以上,2日以内に当酵素活性が減少したことを示し,本酵素の遺伝子がイネ科植物の鉄欠乏に対する応答を解析するための手段として適格なことを推察した。本酵素活性に日間変動は認められず,個体のどの生育段階でも鉄欠乏による酵素活性の誘導が可能であった。酵素活性の最適pHは,8.5-9.0,最適温度は,25-35℃,K+イオンが必要,2価カチオンは阻害的,Fe2+イオンやFe3+イオンは活性を阻害せず,酵素のフィードバック阻害も認められなかった。オオムギには複数の本酵素のアインザイムが存在し,いずれも鉄欠乏で活性が誘導された。これらのアイソザイムのうち,NAAT IIと命名したものは鉄欠乏処理を行わなかった対照区でも活性が検出されたが,NAAT Iと命名したものは鉄欠乏植物にのみ活性が認められた。NAAT IとNAAT IIの分子量とニコチアナミンに対するKm値がそれぞれ(80kDa,0.4mM),(90kDa,0.9mM)であった。

 精製 鉄欠乏処理による活性の誘導が顕著なNAAT Iを,ブチルトヨバール650M,ハイドロキシルアバタイト,DEAEセファセル,セファクリルS300-HRおよびエコノパックカートリッジHTPにより,鉄欠乏処理したオオムギの根1kgから精製し,鉄欠乏処理をしなかった対照区から同様の方法で精製した標品との比較から本酵素と考えられるペプチドを同定したが,極微量のためアミノ酸配列の決定には到らなかった。

 第3章では,研究結果の総括な行い,当研究で,本酵素の遺伝子が当初の目論み通り鉄欠乏ストレスによる誘導機構を分子生物学的に解析するための分子プローブとして,また鉄欠乏耐性遺伝子として利用できる可能性を示した。

 以上,本研究は,イネ科植物の鉄欠乏耐性機構の一端を明らかにし,将来の農業上,環境保全上に有用な基礎的知見をもたらしたもので,審査の結果,審査員一同,博士(農学)に相当するものと認定した。

UTokyo Repositoryリンク