学位論文要旨



No 111247
著者(漢字) 木村,幸太郎
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,コウタロウ
標題(和) ラットPC12細胞の分化におけるPhosphatidylinositol-3 kinaseの役割に関する研究
標題(洋) Phosphatidylinositol-3 kinase in involved in the neurite outgrowth of PC12 ce11s
報告番号 111247
報告番号 甲11247
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1538号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 福井,泰久
 東京大学 教授 山崎,眞狩
 東京大学 教授 大石,道夫
 東京大学 教授 鈴木,紘一
 東京大学 教授 小野寺,清
内容要旨 序章

 チロシンキナーゼ活性を持った増殖因子受容体は、特異的な増殖因子の結合によって受容体自身の特定のチロシン残基を自己リン酸化する。細胞質内に存在するさまざまな情報伝達分子が、SH2と呼ばれる領域を介してこのリン酸化チロシン残基に結合し、受容体によって活性化されて刺激を細胞内に伝えることが明らかになっている。

 Phosphatidylinositol-3 kinase(PI3K)は試験管内においてphosphatidylinositol(PI)、PI-4-phosphate(PI-4-P)、PI-4,5-bisphosphate(PI-4,5-P2)のイノシトール環のD3位をリン酸化する。この酵素はSH2領域を介して活性化された細胞増殖因子受容体、癌遺伝子産物などと結合することが知られており、増殖因子刺激における細胞内情報伝達に重要な役割を果たすと考えられているが、詳細は不明な点が多い。

 ラットPC12細胞は、神経成長因子(Nerve growth factor;NGF)刺激により分化して神経突起を伸張する。このNGF刺激によりPI3Kが細胞内において一過的にリン酸化されることが知られているが、このPI3Kの活性化が細胞分化の過程においてどのような役割を果たすのかは明らかになっていない。カビ由来の化合物wortmanninはミオシン軽鎖リン酸化酵素(Myosin Light Chain Kinase;MLCK)の阻害剤として知られていたが、実際はMLCKを含むほかのリン酸化酵素活性を阻害しない低濃度においてPI3Kを阻害する、すなわちwortmanninはPI3Kの強力かつ選択的な阻害剤であることを我々は見い出した(Yano et al.,1993)。本研究ではこのwortmanninを用いて、PI3K活性の阻害がPC12細胞の分化に与える影響を調べた。

第一章:wortmanninがPI3Kまたは他のリン酸化酵素に及ぼす阻害効果の検討

 PC12細胞を32p正リン酸で標識し、NGFで刺激した後にリン脂質を抽出し薄層クロマトグラフィー(TLC)で分離すると、PI3Kの細胞内における主な生成物と考えられるPhosphatidylinositol-3,4,5-trisphosphate(PIP3)のスポットがNGFの刺激に応じて検出された。NGF刺激後のPIP3量の経時的変化を測定したところ、刺激後3分で極大(全リン脂質の0.2%程度)に達し、10分以内に急速に減少することが明らかになった。

 次に、PI3Kの阻害剤であるwortmanninで細胞を30分処理した後に同様にNGF刺激を行い、生成されるPIP3の量からPI3Kの活性化を調べた。10-10M以下の濃度ではPI3Kの活性化に変化は認められなかったが、10-9M、10-8Mの濃度では部分的な活性の阻害が認められ、10-7M以上ではPI3Kの活性化が完全に阻害された。細胞から免疫沈降によって精製したPI3Kに対するwortmanninの効果を調べたところ、同様の濃度依存的な阻害効果が見られた。この結果は我々が好塩基球細胞で調べた結果と一致しており(Yano et al.,1993)、PI3Kに対するwortmanninの高い選択性を示していた。

 また、wortmanninの効果が持続する時間を調べたところ、wortmanninによって細胞内のPI3Kの活性化が完全に阻害されるのは3-4時間程度で、それ以降はPI3Kの活性化能が徐々に回復してくることがわかった。

 次にこのwortmanninによるPI3Kの活性化の阻害が、NGFレセプターや他のシグナル伝達分子の活性化阻害の結果であるか否かを調べた。PC12細胞をNGFで刺激すると、NGF受容体が持つチロシンキナーゼ活性によって様々なタンパク質のチロシン残基のリン酸化が起こるが、PI3Kの活性を完全に阻害する10-7Mの濃度のwortmanninで処理した細胞において、wortmannin未処理の細胞と比較したタンパク質チロシンリン酸化の様子に変化は見られなかった。また、wortmanninは細胞内の他の脂質リン酸化酵素の活性も阻害しなかった。さらに抗wortmannin抗体を用いてwestern blotを行った結果、wortmanninは細胞内においてPI3Kのp85 subunitと結合している分子量110kdのタンパク質に結合することが明らかになった。以上の結果から、wortmanninは細胞内のPI3Kのp110 catalytic subunitに直接結合してPI3Kの活性を選択的に阻害していることが示唆された。

 更にNGF刺激による神経突起伸張時にはp21ras原癌遺伝子産物が活性化されることが知られているが、wortmanninで処理した細胞におけるp21rasの活性化には影響が見られず、PI3Kの活性化はp21rasの活性化には必要でないことが明らかになった。

第二章:wortmanninが神経突起伸張に及ぼす阻害効果の検討

 PC12細胞はNGF刺激後約10時間以降に神経突起の伸張を開始するが、PI3Kの活性化の阻害がこの過程に与える影響を調べた。PC12細胞をNGFで刺激すると細胞内のPIP3の量が一過的に上昇する。NGF刺激の30分前から細胞をwortmanninで処理してNGF刺激から数時間後までのPI3K活性を抑えた場合、wortmannin未処理の細胞と同様の神経突起の形成が見られた。この際wortmannin処理に依る伸張開始の遅延はみられず、NGF刺激直後のPIP3の一過的な増加は神経突起の形成に必須でないと考えられた。

 次にwortmanninは培地中では添加後数時間で失活するために、数時間毎に10-7Mのwortmanninを添加したところ、神経突起の伸張が阻害された。この時の細胞の形はNGF未刺激の細胞とは異なり、NGF刺激2-3時間後に培地からNGFを除いた細胞の形と類似していて神経突起形成直前の段階で分化が止まっているように考えられた。PI3Kの活性を部分的に阻害する10-8Mのwortmanninで細胞を処理した場合、神経突起の形成も部分的に阻害された。神経突起の伸張はNGF刺激後15時間以降に観察されるため、神経突起伸張時のみに細胞をwortmanninで処理しても神経突起の伸張が阻害された。

 またwortmanninによって神経突起伸張が抑制された細胞に対してwortmanninの添加を中断すると数時間後に突起の伸張が回復することがわかった。すなわち、wortmanninによる神経突起伸張の阻害とPI3Kの活性の阻害の濃度および経時変化が一致していることが認められた

 次に神経突起の形成時において実際にPI3Kが活性化されているか否かを調べるために、PI3Kの生成物であるPIP3の量を測定したところ、NGF刺激後16時間経ってもPIP3の量は未刺激の細胞に比べて有意に上昇していた。この際30分間wortmanninで細胞を処理することによってこのPIP3の上昇は抑えられた。

 またPC12はv-ras、dibutyryl-cAMPの刺激により神経突起を伸張することが知られているが、PC12細胞にこれらの刺激を与えた後にwortmanninで処理したところ、NGF刺激のときと同様に神経突起の伸張が抑えられた。

まとめ

 以上の結果から、wortmanninはPC12細胞においてPI3Kの活性を選択的かつ強力に阻害することが明らかになった。またこのwortmanninを用いた結果、PC12細胞の神経突起の伸張においてNGF刺激直後のPI3Kの一過的な活性化は必要でなく、むしろ突起が伸張する際のPI3Kの活性化の持続が必要であることが明らかになった。PI3Kの細胞内における働きとしては、増殖因子刺激の核内への伝達/アクチンの再構成/細胞内タンパク質輸送などが考えられているが、本研究でPI3Kの新たな役割としてその活性が神経突起の伸張に必要であることが示された。

参考文献Yano,H.,Nakanishi,S.,Kimura,K.,Hanai,N.,Saitoh,Y.,Fukui.,Y.,Nonomura,Y.and Matsuda,Y.(1993).Inhibition of histamine secretion by wortmannin through the blockade of phosphatidylinositol 3-kinase in RBL-2H3 cells.J.Biol.Chem.268,25846-25856.Kimura,K.,Hattori,S.,Kabuyama,Y.,Shizawa,Y.,Takayanagi,J.,Nakamura,S.,Toki,S.,Matsuda,Y.,Onodera,K.and Fukui,Y.(1994).Neurite outgrowth of PC12 cells is suppressed by wortmannin,a specific inhibitor of phosphatidy1inosito1-3 kinase.J.Biol.Chem.269,18961-18967.
審査要旨

 本論文はホスファチジルイノシトール三キナーゼ(PI3K)が神経細胞の分化に果たす役割を調べたもので4章からなる。PI3Kは動物細胞内の活性化された増殖因子受容体や原癌遺伝子などと結合することから,細胞増殖のシグナル伝達に対し重要な役割を果たすと考えられている。ラット副腎皮質由来の培養細胞PC12細胞は神経成長因子(Nerve growth factor,NGF)刺激により,神経細胞様に分化し,この時PI3Kが活性化されることが知られている。著者は最近明らかになったPI3Kの強力な阻害剤ワートマンニンを用いて,PI3KがPC12細胞の分化に及ぼす影響を明らかにした。

 第1章において研究の背景と意義について概説した後,第2章において細胞内でのワートマンニンによるPI3K活性の阻害について述べている。PC12細胞内ではPI3Kの反応産物であるホスファチジルイノシトール(3,4,5)三リン酸(PIP3)の量がNGF刺激直後に一過的に上昇するが,このPI3Kの活性化は10-7Mのワートマンニンによって完全に阻害された。これはワートマンニンによる試験管内でのPI3Kの活性化の阻害濃度と一致していた。この時,NGF受容体を含む細胞内のチロシンリン酸化酵素活性やほかの脂質リン酸化酵素の活性は阻害されずワートマンニンはPI3Kに特異的に作用することが明らかになった。また,試験管内,および細胞内においてワートマンニンとPI3Kは直接結合していることが明らかになり,ワートマンニンはPI3Kの活性を直接阻害していることが確かめられた。

 そこで,第3章においてこのワートマンニンがPC12細胞の分化(神経突起の形成)に及ぼす影響を調べた。細胞をNGF刺激前にワートマンニンで処理することによりPI3Kの一過的な活性化が阻害されるが,刺激後15時間以降から観察される神経突起形成に変化は見られなかった。神経突起伸長以前に培地中のワートマンニンが分解している可能性が考えられたのでこれを調べた結果,添加されたワートマンニンは数時間後以降徐々にPI3K阻害活性を失うことが明らかになった。そこで,分化の過程を通してPI3Kの活性を抑制し続けるために5時間ごとにワートマンニンを培地に添加したところ,神経突起の形成が阻害された。またPI3Kの活性を部分的に阻害する10-8Mのワートマンニンで細胞を処理し続けたところ,神経突起形成に部分的な阻害が観察された。そこで,実際に神経突起の伸長が始まるNGF刺激15時間後以降から細胞をワートマンニンで処理し続けた場合,ワートマンニンの添加が始まった時点から神経突起の伸長が停止することが明らかになった。また,神経突起の伸長が停止した細胞に対してワートマンニンの添加を中止した場合,数時間後以降神経突起の伸長が再開し,これは細胞内におけるPI3Kの活性の回復と対応していると考えられた。この神経突起伸長時に細胞内のPIP3の量は有意に上昇しており,PI3Kが持続的に活性化されていることが確かめられた。このPI3Kの活性はワートマンニンで完全に阻害され,細胞の神経突起伸長の阻害と対応していた。さらにNGFの刺激とは異なった経路を介する,活性化されたラス遺伝子(v-Ras)を含むウイルスの感染やジブチリルcAMP(dbcAMP)の刺激による神経突起伸長に対するワートマンニンの効果を調べたところ,ワートマンニンはいずれの場合の神経突起伸長も阻害した。

 以上の結果から,PI3Kの特異的な阻害剤であるワートマンニンを用いたところ,NGF刺激直後のPI3Kの活性化は神経突起形成に必要なく,むしろ実際に神経突起が形成される際にPI3Kが活性化されていることが必須であること,またこのPI3Kの活性化はさまざまな刺激に共通する神経突起の伸長機構に必須であると考えられることが明らかになり,学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判定した。

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