学位論文要旨



No 111258
著者(漢字) ワラポン,ピンヤラット
著者(英字)
著者(カナ) ワラポン,ピンヤラット
標題(和) 昆虫フェロモンに関する研究
標題(洋) Studies on Insect Pheromones
報告番号 111258
報告番号 甲11258
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1549号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,謙治
 東京大学 教授 鈴木,昭憲
 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 助教授 片岡,宏誌
内容要旨

 多くの種の昆虫は、フェロモンと呼ばれる化学物質を用い、同種の個体間で相互に密接な情報交換を行っていることが知られている。異性を呼び寄せて交尾を図るために分泌する性フェロモンをはじめ、外敵の侵入を仲間に知らせる警報フェロモンや同種個体を呼んで集団を形成するための集合フェロモンなど、様々な機能を持つフェロモンが知られている。このようなフェロモンは、昆虫の繁栄を支える重要な情報分子であると同時に、人間にとっては情報撹乱による害虫防除の標的分子として魅力的な研究対象でもある。そこで本研究では、フェロモンの化学構造と生物活性の相関を調査するために数種の昆虫のフェロモンの化学合成を行い。更に、フェロモンの生合成にあずかる神経ペプチドPBANの遺伝的支配を解明するためにPBAN遺伝子の連関分析を行った。

I.昆虫フェロモンの合成化学的研究

 昆虫フェロモンの化学的同定と合成に対する関心が急速に広まりつつある中で、構造・活性の関係についての近年の研究は、昆虫によるフェロモンの認知に於ける立体化学の重要性を示している。しかし、天然の昆虫フェロモンは微量にしか得られず、絶対立体配置を含めた構造の最終確定すら困難な場合が多い。これらの問題を解決するためには、立体制御された化学合成で天然生物活性物質そのものを大量に合成することが必要である。こうした意義により、3種類の昆虫フェロモンを以下のように合成した。

I-1.2-Dodecanolの両鏡像体の合成

 2-Dodecanolは、Morganらによってアリの一種(Crematogaster auberti)の働きアリの道しるベフェロモン(trail pheromone)であると同定された。著者らは、Morganの要望により、2-dodecanolの両鏡像体を合成した。

 

 光学活性-3-ヒドロキシブタン酸エチル(R)-1より出発し、THPエーテルとして保護し、還元、トシル化する。得られたトシレート2は、Grignardカップリングにより3へと導き、3は、脱保護して(R)-2-dodecanolとした。光学純度は100%であることが確認された。

 同様にして合成した(S)-異性体には生物活性試験の結果、活性が認められた。

I-2.アリ類の光学活性なフェロモンの合成

 構造式A,B,Cに対応する平面構造を有するフェロモンがアリの一種Lasius nigerから単離された。しかし、それらの立体構造はまだ確認されていない。そこで、本研究では、化合物A,B,Cを、やはりアリの一種であるSolenopsis invictaから単離、構造決定されたフェロモンinvictolide(D)と同様な立体配置に合成した。

 光学純度100%e.e.の(R)-シトロネロール5を用いて5段階の反応を行い、光学活性不飽和酸7を得た。7に熱力学支配ヨードラクトン化反応を行い、得られた結晶性のラクトン8を鍵中間体として適当なアルキル化試薬または還元条件で反応させ、さらにメチル化して目的物A,B,Cとそれぞれのジアステレオマーを得、分離して純粋にした。

 

I-3.(S)-(Z)-6,8-Nonadien-2-olの合成

 (S)-(Z)-6,8-Nonadien-2-olは、Franckeらにより蛾の一種(Nepticula malella)から単離、構造決定された性フェロモンである。

 (S)-3-ヒドロキシブタン酸エチル(S)-1を出発原料とし、TBSエーテルとして保護し、ヨウ素化を含む8段階によってヨウ化物13へと導いた。14のジアニオンを13でアルキル化することにより15を中間体として得た。15は4段階で16へと変換し、16は脱保護により目的化合物(S)-(Z)-6,8-nonadien-2-olへと導いた、

 

II.性フェロモン生合成の遺伝学的解析

 鱗翅目昆虫のフェロモン腺におけるフェロモンの生合成は、食道下神経節の合成する性フェロモン生合成活性化神経ペプチド(PBAN)によって刺激されることが知られている。カイコの性フェロモンbombycolの生合成を活性化するPBANについては、精製ペプチドのアミノ酸配列、cDNAの塩基配列、ゲノム遺伝子の塩基配列がすべて解読されている。一方、カイコには数百に上る地理的品種が分化しており、フェロモン合成量やフェロモン感受性の変異も存在する。そこで、本研究ではフェロモン生合成の遺伝的背景を解明するために、カイコのPBANをコードする遺伝子の品種間多型を探索し、染色体上の座位を決定した。また、カイコには多くの休眠性の遺伝的変異が存在するため、これらの休眠性変異とDH-PBAN遺伝子の関連性も調べた。なお、カイコのPBAN遺伝子はPBANと同時に胚休眠を誘導する休眠ホルモン(DH)をコードしているため、DH-PBAN遺伝子と表記する。

II-1.DH-PBAN遺伝子の多型

 供試した20品種からDNAを調製し,PCR法を利用してイントロンのサイズ多型を探索した。その結果,第4イントロンの長さにはサイズで区別される二つのタイプがあり、第5イントロンにはサイズと制限酵素切断点で区別される三つのタイプがあった。このことから,DH-PBAN遺伝子(Dh)には少なくとも3つの複対立遺伝子があることが判明し,それらをDhA1,DhA2並びにDhBと名付けた。すなわち、DhA1とDhA2は供に740塩基対の第4イントロンと940塩基対の第5イントロンをもつが、第5イントロンのRsal断片のパターンで区別され,DhBがある対立遺伝子であり、DhBは770塩基対の第4イントロンと1,700塩基対の第5イントロンを有していた。

II-2.DH-PBAN遺伝子の所属連関群

 DhB遺伝子を有するw30系統とDhA2遺伝子をもつNo.912系統(pe-re ch)を交雑し、さらに、No.912系統(pe-re ch)とDhA1をもつUT18系統(EKp os)を用いて正逆交雑の試験を行なった。その結果、Dh遺伝子が常染色体の上に座位するものと推定された。また、戻し交雑第2代においては、Dh遺伝子が、EKp(第6連関群)pe-re(第5連関群)、ch(第13連関群)、pM(第2連関群)、Ze(第3連関群)、L(第4連関群)の6種のマーカー遺伝子と独立であることが判明した。一方、第3の交雑においては、q(第7連関群)とDhが連関していないことが分かったが、w30系統の持つ黒蛹bp(第11連関群)と連関関係を示す分離が得られた。このことは、Dhがbp遺伝子と連関関係にあり、第11連関群に所属することを示している。なお、w30系統の黒蛹形質がbpによるものであることは、bp遺伝子を保有するu10系統と交雑し、F1個体が黒蛹になることで確認した。

 さらに、Dhが第11連関群に所属することを確認するために、bp以外の第11連関群の突然変異遺伝子である瘤蚕K,火傷蚕Buとの連関関係を検定交雑によって調査した。[(No.848K DhA♀×w30+KDhB♂)♀×w30♂]および[(No.744 Bu DhA♀×w30+Bu DhB♂)♀×w30♂]の交配において得られた結果は、Dh遺伝子がKとBuと連関していることを示し、第11連関群への所属を支持する結果であった。

II-3.DH-PBAN遺伝子の座位

 DH-PBAN遺伝子が第11連関群に所属することが明かとなったことから、その座位を決定するために、KとBuを基準として3点交雑実験を行なった。[w30+K DhB♀×(n501KDhA♀×w30+K DhB♂)♂]および[w30+Bu DhB♀×(No.744 Bu DhA ♀×w30+BuDhB♂)♂]の交雑を行ない、それぞれ次代の遺伝子型の分離を調査した。その結果、DhとKの間の組換え価は25.5%と計算され,DhとBuの間の組換え価は30.4%と計算された。さらに、No.944 mp DhA♀×(No.944 mp DhA♀×w30+mp DhB♂)♂の交雑においては、Dhとmpの間の組換え価は44%と計算された。

 第11連関群において、Kが23.2に、Buが28.7に、mpが51.8に、それぞれ座位するとされているので、上記の事実より、Dh-K-Bu-mpの順序に各遺伝子が配列することが推定される。以上の結果から、Dhは第11連関群の-2.2cMに占座することになる。

第11連関群におけるDH-PBAN遺伝子座(Dh)の座位。

 以上要するに本研究は 立体制御された化学合成により昆虫フェロモンを合成し,性フェロモンの生合成を制御する遺伝子について,その構造的変異と座位を明らかにしたものである。

審査要旨

 本論文は,昆虫フェロモンに関する研究で,第一章,第二章の第一部,第三章,第四章の第二部により構成されている。第一部は,フェロモンの化学構造と生物活性の相関を調査するために行った数種の昆虫フェロモンの化学合成研究についてであり,第二部ではフェロモンの生合成にあずかる神経ペプチドPBANの遺伝的支配を解明するために行ったPBAN遺伝子の連関分析について述べている。

 多くの種の昆虫は,フェロモンと呼ばれる化学物質を用い,同種の個体間で相互に密接な情報交換を行っていることが知られているが,まず第一章で,フェロモンの定義・分類,これまでの昆虫フェロモン関する研究の歴史を概説した後,第二章では3種の昆虫フェロモンの化学合成について述べている。

 まず,アリの一種(Crematogaster auberti)の働きアリの道しるベフェロモンとして単離された2-ドデカノールの両鏡像体を図示の通り合成した。

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 まず光学活性な3-ヒドロキシブタン酸エチル(R)-1より出発し,水酸基をTHPエーテルとして保護し,還元,トシル化した。得られたトシレート2は,Grignardカッブリングにより3へと導き,3は,脱保護して(R)-2-ドデカノールとした。光学純度は100%であった。

 (S)-体も同様に(S)-1より合成し,合成した両鏡像体の生物試験の結果,(R)-体が(S)-体の約1000倍の活性を有することが明らかとなった。

 次にアリの一種Lasius nigerのフェロモン構成成分であるが,立体構造不明の3種のラクトン,A,B,Cを共通の出発原料である(R)-シトロネロール5より合成した。7→8の熱力学的支配下でのヨードラクトン化を鍵反応としている。これにより,高光学純度のA〜Cの合成が達成され,生物学者への研究用サンプルの供給が可能となった。

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 もう1つの合成は,蛾の一種(Nepticula malella)の性フェロモン,(S,Z)-6,8-ノナジエン-2-オールについてである。このものも,(S)-1より図示の様な炭素鎖延長を経て合成された。

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 第二部では,性フェロモン生合成の遺伝学的解析を行っている。

 まず第三章でカイコの性フェロモンであるポンビコールの生合成を活性化するPBANに関してこれまでになされてきた研究について概説した後,第四章においてフェロモン生合成の遺伝的背景を解明するために,カイコのPBANをコードする遺伝子の品種間多型を探素し,染色体上の座位を決定した。また,カイコには多くの休眠性の遺伝的変異が存在するが,カイコのPBAN遺伝子はPBANと同時に胚休眠を誘導する休眠ホルモン(DH)をコードしているため,これらの休眠性変異とDH-PBAN遺伝子の関連性も調べた。

 カイコ20品種からDNAを調製し,PCR法を利用してイントロンのサイズ多型を探索した。その結果,DH-PBAN遺伝子(Dh)には少なくとも3つの複対立遺伝子があることが判明し,それらをDhA1,DhA2並びにDhBと名付けた。さらに,DhA1,DhA2,DhB遺伝子を持つ系統の交雑,正逆交雑,戻し交雑試験により,Dh遺伝子が常染色体の上に座位するものと推定した。また,EKp(第6連関群),pe-re(第5連関群),ch(第13連関群),pM(第2連関群),Ze(第3連関群),L(第4連関群)の6種のマーカー遺伝子と独立であることもわかった。

 また,w30系統の持つ黒蛹bp(第11連関群)と連関関係を示す分離が得られたことからDhがbp遺伝子と連関関係にあり,第11連関群に所属すると推定し,その確認としてbp以外の第11連関群の突然変異遺伝子である瘤蚕K,火傷蚕Buとの連関関係を検定交雑によって調査した。その結果からもDh遺伝子がKとBuと連関し,11連関群へ所属していることがわかった。

 次にDH-PBAN遺伝子の座位を決定するため,KとBuを基準として3点交雑実験を行い,Kが23.2に,Buが28.7に,mpが51.8に,それぞれ座位することから,Dh-K-Bu-mpの順序に各遺伝子が配列すると推定し,Dhは第11連関群の-2.2cMに占座すると結論した。

第11連関群におけるDH-PBAN遺伝子座(Dh)の座位。

 以上本論文は,立体制御された化学合成により昆虫フェロモンを合成し,また,性フェロモンの生合成を制御する遺伝子について,その構造的変異と座位を明らかにしたものであり,学術上貢献するところが少なくない。よって審査員一同は,申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきと判定した。

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