学位論文要旨



No 111260
著者(漢字) 李,虎根
著者(英字)
著者(カナ) イ,ホクン
標題(和) 小腸上皮細胞株IEC-6の機能変化と細胞死に関する研究
標題(洋) Studies on functional differentiation and apoptosis of a small intestinal epithelial cell line,IEC-6
報告番号 111260
報告番号 甲11260
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1551号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 教授 荒井,綜一
 東京大学 教授 中村,厚三
 東京大学 教授 野口,忠
 東京大学 教授 飴谷,章夫
内容要旨

 小腸管腔表面の絨毛は,単層の上皮細胞で覆われている。絨毛下部のクリプトにある幹細胞は盛んに分裂をしており,絨毛の先端に移動するとともに分裂増殖能を失い,機能細胞に分化する。分化した上皮細胞は,小腸の機能である栄養素の吸収を担当する吸収上皮細胞,消化管ホルモンの生産と分泌を行う腸管内分泌細胞,粘液を分泌する杯細胞,リゾチームを分泌するパネト細胞に分けられる。これらの細胞は,一定期間の機能を遂行した後に,プログラムされた細胞死が引き起こされる。このように小腸上皮細胞は幹細胞が増殖・分化してから多様な機能を遂行し,最後はプログラムされた細胞死で死ぬという一連の現象が制御されて,小腸の構造と恒常性が維持されていると考えられるにもかかわれず,詳細な制御機構については十分には明らかにされていない。そこで本研究では,まずラット新生児の小腸上皮由来の未分化細胞株であるIEC-6を用い,培養系において増殖と分化が起こることを明らかにした。そしてこれが小腸上皮細胞の分化をin vitroで解析するモデルになると考えて,さらにこの現象を詳細に解析した。

 分化後,培養器から剥がれた細胞が,生体の小腸上皮細胞と同様にプログラムされた細胞死(apoptosis)で死ぬことが示唆されて,さらに分化と細胞死および全般的な小腸におけるメカニズムを解析した。

1.IEC-6 細胞の増殖と分化

 IEC-6を通常培地(ダルベッコ変法イーグル培地,5%胎児治血清)で培養し,細胞増殖および細胞分化を調べた。小腸の分化の指標として,まず絨毛で発現する膜酵素であるアルカリホスファターゼ(ALP),MHC(主要組織遺伝子複合体)クラスII分子及び微絨毛の発現を調べた。その結果,細胞は増殖した後に細胞がコンフルーエント(集密状態)に達したのとほぼ同時期に,ALPが発現した。この酵素は小腸微絨毛先端の刷子縁に発現しており,小腸上皮細胞の分化の指標として知られている。また走査型電子顕微鏡によりコンフルーエントに達し,ALPを発現している細胞の表面を観察したところ,微絨毛様構造の出現を確認した。このことは,IEC-6は培養系において,ALP活性と微絨毛を発現することから吸収上皮細胞へと機能的にもまた形態的にも分化することを示唆している。

 コンフルーエントに達した細胞をトリプシン処理によって剥がして分散させ,培養開始時と同濃度に希釈して再び培養すると,ディッシュに再接着しない細胞が多く観察された。培地中に浮遊していた細胞のALP活性は,ディッシュに付着した細胞の15倍以上であった。従ってALPを発現している細胞の大部分は,一度接着性を失うと再びディッシュに付着して増殖することはできなることが示唆された。また,複製中のDNAに取り込ませたブロモデオキシウリジン(BdU)を抗体染色して増殖中の細胞を検出すると同時に,ALP活性染色を行ったところ,ALPを発現している細胞のほとんどはDNA合成を行っていないことが観察された。この結果から,一般の細胞のようにIEC-6の分化は増殖の停止とともに進行することが明らかになった。

 MHCクラスII分子がIEC-6に発現しており,この分子はT細胞増殖因子を含むconditional medium(TCGF)によって発現が促進されることが明らかになった。腸管上皮細胞と腸管上皮間リンパ球との相互作用を解明する上で興味深いと考えられる。そこで,IEC-6細胞が脾臓細胞の増殖に与える影響を調べたところ,増殖を抑制することが明らかになった。IEC-6が分泌するサイトカインを検討したところ,TGF-とIL-10を生産していることが明らかになり,これが増殖抑制に関与すると考えられる。これは小腸上皮細胞と免疫系細胞との相互作用がありうることを示唆する。またこのIL-10の分泌は,リポポリ多糖(LPS),コレラ毒素などによって発現が促進されることが示された。腸管細胞も粘膜免疫における重要な働きをしていると考えられる。

 次に,ALP発現を分化のマーカーとして,分化を誘導する物質を探索した。その結果,レチノイン酸(RA)とレチノールが分化を誘導することが示された。さらにRAと共同で分化を誘導する食品成分物質の探索を行った。その結果,血清アルブミン,牛乳の-ラクトーグロブリンと卵白アルブミンなどに,RAの活性を促進することが明らかになった。またTCGFも非常に高い分化誘導能があることが判明した。

 さらにこのIEC-6細胞において分化に関与する情報伝達経路を調べた。その結果,プロテインキナイゼC(PKC)を活性化すると増殖を誘導し,この経路の刺激は逆に分化を抑制することが明らかになった。またIEC-6ではプロテインキネーゼA(PKA)が分化を誘導し,増殖は抑制することが判明して,増殖の信号と分化の信号は異なる経路を用いていることが明らかになった。

2.IEC-6の細胞死(アポトーシス)

 IEC-6を通常培地で培養し,コンフルーエントに達してディッシュから剥がれた細胞と接着している細胞のDNAを抽出してアガロースゲル電気泳動によりDNAを分析した。ディッシュに接着していた細胞は高分子の単一バンドとして検出されたのに対し,剥がれていた細胞のDNAは比較的低分子領域に複数のバンドが認められ,最も低分子のベンドは200塩基対付近にあった。また,それら複数のバンドの分子量はほぽ200塩基対の整数倍に相当した。さらにディッシュに剥がれた細胞の核の染色を行ったところ,核凝縮現象が観察された。以上の現象から,IEC-6は分化してディッシュから剥がれたときに,エンドヌクレアーゼの活性化を伴うプログラムされた細胞死(アポトーシス)を起こしていることが示唆された。次に,IEC-6細胞に対してアポトーシスを誘導できる刺激を検索した結果,熱処理またはイオノマイシンでアポトーシスを誘導できた。

 小腸上皮細胞における増殖・分化・細胞死の一連の制御は小腸の再生・維持に重要と思われる。そこで次に,分化と細胞死の関連性を調べた。その結果,分化した細胞でアポトーシスはが起るが,未分化の細胞は起こらないことが示唆された。この際,DNA断片化率を測定したところ,分化した細胞は時間経過したがに断片化率が高くなっていくことが示されたが,未分化の細胞では誘導できなかった。

 以上の結果から,IEC-6は生体と同様に増殖・分化・細胞死の順番で一連の現象が起こっていること,分化の各段階で細胞死が制御されていること,さらにアポトーシスが分化の最終段階であることが明らかになった。アポトーシスと関係のある遺伝子の発現を調べた結果,IEC-6にはbcl-2が発現していることが判明し,この遺伝子が分化の段階でアポトーシスを制御している可能性がある。

 IEC-6に発癌プロモータ,および発癌抑制剤などを作用させたところ,この細胞はイオノマイシン・RA・オカダ酸に対して非常に敏感にアポトーシスの誘導が起こった。これは,発癌物質に対して小腸上皮細胞は他の細胞上りアポトーシスの感受性が高いと考えられ,小腸上皮には腫瘍が認められないことに対応すると考えられる。

 IEC-6のアポトーシスにおける情報伝達経路を調べたところ,増殖を誘導できるPKCの活性化はアポトーシスを抑制し,一方一度アポトーシスを誘導できるイオノマイシンで刺激を与えておくと,PKCの活性化によりアポトーシスが誘導された。PKCの活性化とアポトーシスの抑制・誘導は細胞によって違うことが知られている。IEC-6では,PKC経路は他の経路の活性化に依存してアポトーシスに関与することが判明した。

 本研究により,IEC-6は増殖の停止とともに分化,細胞死が一方向に進行すること,各段階でRAなどの物質および情報伝達経路によって制御されることが明らかになった。IEC-6では,PKCの活性化は増殖を誘導し,分化を抑制したが,アポトーシスを誘導する刺激を与えた場合は細胞死を促進した。これに対して,増殖を抑制するPKA経路は分化を誘導し,アポトーシスを弱いながら抑制することが明らかになり,この細胞では情報伝達経路により高度に増殖・分化・細胞死などが制御されることが示唆された。

審査要旨

 小腸管腔表面の絨毛は,単層の上皮細胞で覆われている。絨毛下部のクリプトにある幹細胞は盛んに分裂をしており,絨毛の先端に移動するとともに分裂増殖能を失い,機能細胞に分化する。分化した上皮細胞は,小腸の機能である栄養素の吸収を担当する吸収上皮細胞,消化管ホルモンの生産と分泌を行う腸管内分泌細胞,粘腸を分泌する杯細胞,リゾチームを分泌するバネト細胞に分けられる。本研究はまずラット新生児の小腸上皮由来の未分化細胞株であるIEC-6を用い,培養系において増殖と分化が起こることを明らかにし,これが小腸上皮細胞の分化をin vitroで解析するモデルになると考えて,さらにこの現象を詳細に解析したものである。

 第1章においては,IEC-6細胞の増殖と分化について述べた。IEC-6を通常培地で培養し,細胞増殖および細胞分化を調べた。小腸の分化の指標として,まず絨毛で発現する膜酵素であるアルカリホスファターゼ(ALP),MHC(主要組織遺伝子複合体)クラスII分子及び微絨毛の発現を調べた。その結果,細胞が増殖した後に細胞がコンフルーエント(集密状態)に達したのとほぼ同時期に,ALPが発現した。この酵素は小腸微絨毛先端の刷子縁に発現しており,小腸上皮細胞の分化の指標として知られている。また走査型電子顕微鏡によりコンフルーエントに達し,ALPを発現している細胞の表面を観察したところ,微絨毛様構造の出現を確認した。このことは,IEC-6は培養系において,吸収上皮細胞へと機能的にもまた形態的にも分化することを示唆している。またIEC-6がMHCクラスII分子を発現していることを明らかにし,この分子の発現はT細胞増殖因子を含むconditionalmedium(TCGF)によって促進されることを明らかにした。この事実は腸管上皮細胞と腸管上皮間リンバ球との相互作用を解明する上で興味深いと考えられる。そこで,IEC-6細胞が脾臓細胞の増殖に与える影響を調べたところ,増殖を抑制することが明らかになった。またIEC-6が分泌するサイトカインを検討したところ,TGF-とIL-10を生産していることが明らかになり,これが増殖抑制に関与すると推測した。次に,ALP発現を分化のマーカーとして,分化を誘導する物質を探索した。その結果,レチノイン酸(RA)とレチノールが分化を誘導することが示された。さらにRAと共同で分化を誘導する食品成分物質の探索を行った。その結果,血清アルブミン,牛乳の-ラクトグロブリンと卵白アルブミンなどに,RAの活性を促進することが明らかになった。またTCGFも非常に高い分化誘導能があることが判明した。

 第2章においては,IEC-6の細胞死(アポトーシス)について述べている。IEC-6を通常培地で培養し,コンフルーエントに遅してデイッシュから剥がれた細胞と接着している細胞のDNAを抽出してアガロースゲル電気泳動によりDNAな分析した。IEC-6は分化してデイッシュから剥がれたときに,エンドヌクレアーゼの活性化を伴うプログラムされた細胞死(アポトーシス)を起こしていることが示唆された。次に,IEC-6細胞に対してアポトーシスを誘導できる刺激を検索した結果,熱処理またはイオノマイシンでアポトーシスを誘導できた。次にIEC-6のアポトーシスにおける情報伝達経路を調べたところ,増殖を誘導できるPKCの活性化はアポトーシスを抑制し,一方,一度アポトーシスを誘導できるイオノマイシンで刺激を与えておくと,PKCの活性化によりアポトーシスが誘導された。PKCの活性化とアポトーシスの抑制・誘導は細胞によって違うことが知られており,IEC-6では,PKC経路は他の経路の活性化に依存してアポトーシスに関与することが判明した。以上の結果から,IEC-6は増殖の停止とともに分化,細胞死が一方向に進行すること,各段階でRAなどの物質および情報伝達経路によって抑制されることが明らかになった。IEC-6では,PKCの活性化は増殖を誘導し,分化を抑制したが,アポトーシスを誘導する刺激を与えた場合は細胞死を促進した。これに対して,増殖を抑制するPKA経路は分化を誘導し,アポトーシスを弱いながら抑制することも明らかにされ,この細胞では情報伝達経路により高度に増殖・分化・細胞死などが制御されることが示唆された。

 以上要するに本論文は,小腸上皮由来未分化細胞を用いて,その増殖・分化そして細胞死について新しい知見を与えたもので,学術上,応用上貢献するところは少なくない。よって審査員一同は本論文が博士(農学)として価値あるものと認めた。

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