学位論文要旨



No 111264
著者(漢字) 赤川,泉
著者(英字)
著者(カナ) アカガワ,イズミ
標題(和) アミメハギの繁殖行動に関する研究
標題(洋)
報告番号 111264
報告番号 甲11264
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1555号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水産学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 沖山,宗雄
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 塚本,勝己
 東京大学 助教授 青木,一郎
内容要旨

 魚類の繁殖行動を詳しく研究し,繁殖戦略を考察し,進化の一端を推察することを目的とすると,対象となる種は限定される.沿岸の藻場に生息するありふれた魚でも,天然での行動生態で判っていることは驚くほど少ない.近年スキューバの普及によって,魚類の行動生態に関する研究が著しく進展したが,対象は珊瑚礁域の魚類が中心である.本研究で主な対象としたカワハギ科のアミメハギは,我国の北部以外の沿岸の藻場に,ごく普通に高密度で生息し,小型で遊泳力が弱く飼育し易いという,観察や飼育実験に適した魚である.アミメハギと同じ場所で繁殖しながら,著しく異なる行動生態を示したアオサハギも比較研究の対象とした.本研究は,まずアミメハギやアオサハギの繁殖に関わる行動生態を明らかにし,次にカワハギ科魚類を相互に比較することにより繁殖行動における適応や進化に関する新たな考察を加えることを目標に行った.

1.アミメハギの繁殖行動の概要と生物特性

 神奈川県油壷湾における潜水調査により,5月半ばから10月初めに及ぶ繁殖期の間,毎朝,産卵前の雌が独特の斜め上向きの姿勢でゆっくり藻場を泳ぎ回り,複数の雄が行列を作ってこの雌を追う"産卵行列"が観察された.行列は長いときには1時間以上続き,雄を追う雄の数も順位も頻繁に変化した.雌はやがて,カジメなどの付着基質に定位し,一雌多雄型産卵が行われた.行列における順位と産卵時の位置どりには規則性があり,下位の雄は産卵に参加できなかった.産卵後は雌が単独で,換水し,接近する生物を追い払って孵化まで2〜3日間卵を保護した.産卵は明るくなることを引き金に早朝のみに行われた.また,雌は明け方から摂餌を始めるのに対し,雄は早朝は殆ど摂餌せず,どの時間帯も雌(非保護期)に比べて摂餌量が少なかった.

 神奈川県油壷湾・三重県英虞湾・京都府舞鶴湾・宮崎県赤水湾を調査地として,アミメハギの繁殖行動や生物特性と環境条件を比較した結果,本種は,1)波当りの穏やかで,富栄養化の進んだ内湾の藻場(赤水湾は例外)を生息地とし.縄張りは作らず大きな移動もしない,2)平均体長は雌がやや大きいが雌雄で有意な差はない,3)繁殖期の雄は早朝あまり摂餌せず,摂餌率も肥満度も雌より低い,4)繁殖期の雌の生殖腺重量指数(GSI)は1〜18まで変動し,5〜8日おきの非同調性多回産卵を行う,5)繁殖期の雄はいつでも放精可能であるため性比は同じでも,実効性比は強く雄に偏る,6)産卵行列を作って一雌多雄型の産卵を行う,7)卵付着基質は限定的でなく,海藻から塩化ビニル製パイプまで非常に融通性が高い,8)雌が単独で孵化まで2〜3日卵を保護することなどが共通していた.一方,調査地間で相違する点は,1)生息密度が1989〜1991年の油壷湾で非常に高く,英虞湾と赤水湾で低く,油壷湾でも1993年には非常に低かった,2)平均体長が赤水湾や油壷湾で大きく(平均49〜55mm SL),舞鶴湾で小さく(44〜45).成魚の新規加入のある時期(赤水湾では8月,油壷湾では9月)には下がった,3)油壷湾と舞鶴湾では,卵は目につきにくい場所に隠されていたのに比べ,英虞湾では目立つ場所に露出していた,4)雄のGSIが,生息密度が高く雄間競争が激しいと思われる1991年の油壷湾や舞鶴湾で特に高かったことなどであった.

2.産卵行列における性選択と一雌多雄型産卵

 産卵行列は,他の雄に割り込ませないようにして雌に近づこうとする雄間競争により,成立した.雌が急に動いても止まっても,行列は崩れた,雌は,雄に追尾されて移動しているのではなく,適度な速さで移動することによって行列をコントロールしていると考えられた.

 行列で行われる競争に勝つ要素は,体長と婚姻色と耐久力であると考えられた.耐久力は,早朝,空胃で雌を長時間追い続ける能力で,途中で摂餌をした雄は行列から離脱した.アミメハギにおいては,体長の大きい雄が必ずしも優位ではなく,大きくても婚姻色の薄い個体は劣位で,最優位雄は必ず傑出した婚姻色を見せた.行列には雄の基礎体力や競争力の高さを順位づける機能があると思われた.雌は,婚姻色や体長などの条件のみによってではなく,時間はかかるが,行列で上位を続ける能力をも含めて配偶者を選択しており,下位の雄の割り込みがあると産卵を拒否した.婚姻色は,雌に対する直接のアピールとして働くだけでなく,競争相手に対する強さの誇示および集団内の地位の表現として機能し,地位が変われば婚姻色も変化した.婚姻色の傑出した最優位雄は,行列の参加も順位も1位でほとんどの産卵に1位で参加した.

 産卵は必ず,1個体の雌と複数の雄とで行われた,行列における雄間競争で複数の雄が配偶者として選ばれ,これらの雄同士で精子競争が行われた.アミメハギには激しい精子競争に対する適応があることを予想し,カワハギ科魚類数種の生殖腺の形態的特徴と繁殖行動を比較した結果,大きく2群に分かれた.第1群はさらに2亜詳に分かれ,第1a群は単婚・ペア産卵のテングカワハギ・ヨソギと,乱婚・ペア産卵のアオサハギで,GSIが0.4以下,生殖腺重量の対数値がカワハギ科の標準値(生殖腺重量の対数値の,体重の対数値に対する回帰から求めた)の67〜85%と小さく,輸精管の肥大も貯精嚢の特化も見られない.第1b群は,ハーレム制または雌縄張り訪問型で基本的にはペア産卵を行うカワハギと,婚姻システムは不明で水槽内ではペア産卵が確認されているウスバハギで,GSIが0.1〜0.7.標準値の88〜102%で,輸精管の肥大が見られる.第2群は,乱婚・一雌多雄産卵のアミメハギと,繁殖行動が不明のウマヅラハギで,GSIの平均が3以上で,標準値の127〜151%と生殖腺が非常に大きく,貯精嚢の特化が顕著であるなど,精子競争の激しさと,雄の生殖腺の特徴との対応が明かになった.

3.雌による卵保護

 卵保護中のアミメハギの雌を,卵から10m隔離して放流すると,どの調査地においても,卵に復帰し保護を再開した.雌はブロックや目立つ海藻を目印にして卵の位置を記憶し,その記憶は,産卵の時に成立することが,実験によって示唆された.雌を卵から隔離する時間を1日以上に延長すると,天然では復帰しない場合があったが,大水槽では復帰したことから,隔離時間の延長によって保護衝動はなくならないが,場所の記憶が薄れると考えられた.

 卵保護の負担は.保護中の雌の摂餌率が非保護雌より有意に低かったので,ないとはいえないが,保護期間が2〜3日と短いために,肥満度の差が保護雌と非保護雌で必ずしも有意でない点や,保護を行わない雄よりも雌の方が繁殖期を通して肥満度が高いなど,長期に保護を行う種類と比べると保護者の負担は軽いと思われた.

 非保護下では,卵は同種他個体の卵食によって孵化までに全滅したので,卵保護はアミメハギにとっては必須の行動であることが明らかになった.保護雌を隔離中に,別の保護者が出現することがあり,それらは例外なく雄であった.保護雄の出現率は,英虞湾では高く約80%であったが,油壷湾では,生息密度の高い1989年には12.5%で,密度の低い1993年には50%と変化し,密度と関連している可能性が推察された,水槽実験によると.保護雄は全て産卵に参加した雄であったが,必ずしも上位(雌の真横の産卵位置)ではなく,下位(雌から遠い産卵位置)の雄も卵を保護した.ただし,集団中の最優位雄や優位雄では.産卵時の位置どりが上位でも,保護を行わず雌を追尾することがあったし,下位の時には卵食を行う場合さえあった.いっぽう,集団中の劣位雄は,産卵の位置どりは下位でも保護を行った.次の産卵に参加できる可能性に.雄の行動は左右されると考えられる.隔離した雌が卵に戻ると,保護雄は必ず追い払われ,雌のみによる保護が再開された,雄による保護は,雌の隔離という操作無しではまったく見られないため,両親による保護が行われた時代の遺存的性質であると思われた.

4.アオサハギの繁殖行動

 アオサハギも,藻場に棲む小型のカワハギ科魚類であるが,アミメハギのように高密度では生息せず,油壷湾と小網代湾では,6〜7月にかけての繁殖期に1日多くても20個体程度を確認するに止まった.雄の体長が雌より有意に大きく,体重は約2倍あって,明かな性的二型を示した,婚姻システムはアミメハギと同じ乱婚であるが.ペア産卵である点が違っていた.本種の産卵基質は限定的でミックリセッカイカイメンの大孔にペアで腹部を押しつけて産卵し,保護は行わなかった.雄が産卵前の雌を追尾するが,行列は作らず,必ず大きくて体色変化の著しい雄が雌を独占した.大型の雄にしか産卵のチャンスがないため顕著な性的二型が分化したものと推察された.

5.総合考察

 カワハギ科は様々な婚姻システムと繁殖行動を進化させてきたが,アオサハギなどの基本的にペア産卵をする群と,アミメハギなどの一雌多雄型産卵をする群に分かれ,後者では激しい精子競争を通じて,雄は生殖腺を特に発達させて適応したと考えられる.また,産卵行列は,雌が複数の雄を選ぶための方法で,時間はかかるが,体色や体長と組み合わせることによって雄の能力をより総合的に確認することが出来る有効な行動様式と判断された.アミメハギにおいては.カワハギ科の基本形と考えられる"単婚(または複婚)・ペア産卵・両親による卵保護"から,温帯の藻場で高密度に生息するにつれ,産卵時に雄が押し寄せてペア産卵が困難になり,雌が複数の雄を選ぶための行列が発達し,ペア・ボンド(pair-bond)の弱化により雌が繁殖相手の雄も卵食者と同様に攻撃して,雄による保護が潜在化し,"乱婚"一雌多雄産卵・雌のみによる卵保護"に移行したものと推察された.

審査要旨

 本研究は,アミメハギの繁殖行動を明らかにし,行動生態学的アプローチで解析し,近縁種と比較して繁殖行動における適応や進化について考察したものである.

 神奈川県油壷湾における潜水調査により,5月から10月に及ぶ繁殖期に,毎朝,産卵前の雌が斜め上向きの腹部を誇示する姿勢でゆっくり藻場を泳ぎ回り,複数の雄が行列を作ってこの雌を追う独特の"産卵行列"が観察された.行列は長いときには1時間以上続き,雄の数も順位も頻繁に変化した後,一雌多雄型産卵が行われ,産卵後は雌が,卵塊を海藻に押しつけ,換水し,捕食者を追い払って孵化まで2〜3日間卵を保護した.産卵は早朝のみに行われ,雌は明け方から摂餌を始めるが.雄は早朝は殆ど摂餌しなかった.

 このほか三重県英虞湾・京都府舞鶴湾・宮崎県赤水湾を調査地として,アミメハギの繁殖行動や生物特性と環境条件を調査し1)波当りの穏やかで,富栄養化した内湾の藻場に生息し縄張りは作らない,2)体長は雌雄で有意な差はない,3)雄は早朝摂餌せずに繁殖に参加し,摂餌率も肥満度も雌より低い,4)雌は5〜8日おきの産卵で雄はいつでも放精可能であるため,性比は等しいが実効性比は雄に偏る,5)産卵行列を作って一雌多雄型産卵を行う,6)卵付着基質は多様,7)雌が孵化まで2〜3日卵を保護するなどの特徴を見いだした.

 産卵行列は,他の雄に割り込まれないように雌に近づこうとする雄間競争により成立し,雌が適度な速さで移動することで行列をコントロールしていると考えられた.

 行列での競争に勝つ要素は,体長と婚姻色と,空胃で雌を追い続ける持久力であると考えられた.大きい雄が必ずしも優位ではなく,先頭の雄は傑出した婚姻色を見せた.行列の参加率や順位が上位の雄は産卵にも上位で参加した.行列には雄の基礎体力や競争力の高さを順位づける機能があると思われた.雌は行列で上位を続ける雄を配偶者として選択し,下位の雄の割り込みがあると産卵を拒否した.

 一雌多雄型産卵では,精子競争の激しさが予想される.カワハギ科魚類数種の生殖腺の形態と繁殖行動を比較すると,大きく2群に分かれた.第1群はさらに2亜群に分かれ,第1a群は単婚・ペア産卵のテングカワハギ・ヨソギと乱婚・ペア産卵のアオサハギでGSIが0.4以下と小さく輸精管の肥大も無く,第1b群はハーレム制・ペア産卵のカワハギと水槽内でペア産卵が確認されているウスバハギで,GSIが0.1〜0.7,輸精管が肥大していた.第2群は,乱婚・一雌多雄産卵のアミメハギと繁殖行動が不明のウマヅラハギで,GSIが3以上と非常に大きく,貯精嚢の特化が顕著であり,カワハギ科魚類における精子競争の激しさと生殖腺の特徴との対応が示唆された.

 卵保護の負担については,保護中の雌の摂餌率は非保護雌より有意に低いが,肥満度の差は有意でなく,しかも雄より雌が肥満度が高かったことから,比較的軽いと考えられた.

 非保護下では,卵は同種雌雄に捕食され孵化までに全滅したので,卵保護は必須であった.保護雌を隔離すると,保護雄が出現することがあり,保護雄は全て産卵に参加した雄であった.隔離した雌が卵に戻ると,保護雄を追い払って保護を再開した.通常は見られない雄の保護は,ペアで保護していた時代の遺存的性質であると思われた.

 アオサハギも,藻場に棲む小型のカワハギ科魚類であるが,アミメハギと異なり数は少なく,ISが雌より大きく体重は約2倍で,セッカイカイメンの大孔にペア産卵し,保護は行わなかった.大きい雄が雌を独占してペア産卵を行うため性的二型が分化したと推察された.2種を比較すると,アミメハギの柔軟な適応性が窺われた.

 カワハギ科は,アオサハギなどのペア産卵の群と,アミメハギなどの一雌多雄型産卵の群に分かれ,後者では,雄は生殖腺を発達させて精子競争に適応したと考えられた.また,産卵行列は,雌が複数の雄を順位付きで選ぶための,有効な行動様式であるが,時間と空間を要するので捕食者の少なく餌の豊富な場所でのみ可能であると判断された.アミメハギにおいては,カワハギ科の基本形と考えられる珊瑚礁域の"単婚(または複婚)・ペア産卵・両親による卵保護"から,温帯の藻場における密度増加につれ,一雌多雄型産卵と雌が複数の雄を選ぶための行列が発達し,ペア・ボンドの弱化により雌が繁殖相手の雄を攻撃して,雄による保護が潜在化し,"乱婚・一雌多雄型産卵・雌のみによる卵保護"に移行したものと推察された.

 以上,本論文は沿岸性カワハギ科魚類,特にアミメハギの繁殖生態について行動学的な手法を中心に詳細な解析を行い,一雌多雄型産卵の戦略的特性を進化的視点に立って明らかにしたもので,学術上に貢献するところは極めて大きい.

 よって審査員一同は本論文が博士(農学)の学位に値するものと判定した.

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