学位論文要旨



No 111268
著者(漢字) 豊川,雅哉
著者(英字)
著者(カナ) トヨカワ,マサヤ
標題(和) 東京湾に出現するクラゲ類の生態学的研究
標題(洋)
報告番号 111268
報告番号 甲11268
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1559号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水産学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 青木,一郎
 東京大学 助教授 中田,英昭
内容要旨

 浮游生物学の研究は,長くカイアシ類と植物プランクトンを中心とする低次食段階の解明に向けられてきたが,近年ではよりミクロな方向として微小動物プランクトンを中心とするマイクロバイアルループの研究,一方,マクロな方向としてマイクロネクトン,ゼラチン質プランクトンといった高次食段階の研究へとより広い範囲を視野に収める事を志向している。本研究では東京湾において尾虫類とならぶ代表的なゼラチン質プランクトンであるクラゲ類の個体群動態,摂餌生態をとりあげた。東京湾の生態系については,栄養塩,植物プランクトン,カイアシ類,ヤムシ類,魚類,底生生物についての研究が精力的に行われてきた。動物プランクトンについては,近年群集組成の季節変化が相次いで報告されているものの,個体群動態,食物網についての研究は最優占種であるカイアシ類Oithona davisaeとヤムシ類Sagitta crassaを除いて十分に解明されていない。このような中でクラゲ類の生態を東京湾で研究したのは,東京湾では夏季にミズクラゲが大きな集群を形成し,漁網に損傷を与えたり,火力発電所の取水口に吸引され年によっては操業停止にいたるほどの深刻な被害を与えるため,ミズクラゲの個体群動態の解明が長く望まれていたためである。

 本研究では野外調査と飼育実験を通して,東京湾における夏季の代表的な大型クラゲ類であるミズクラゲ(Aurelia aurita)のクラゲ世代の個体群動態と摂餌生態,大型クラゲ類の分布特性,小型クラゲ類の季節的消長,冬季の代表的な小型クラゲ類であるシミコクラゲ(Rathkea octopunctata)の摂餌生態を明らかにすることができた。その概要は以下の通りである。

1.東京湾におけるミズクラゲ(Aurelia aurita)の個体群動態

 エフィラ幼生は12月から5月にかけて出現した。この間,直径2mm以下の個体が出現したことから,ポリプからのエフィラ発生はこの期間中続いているものと考えられた。エフィラの発生開始は船橋沖でもお台場でも水温が15℃以下に下がる時期と一致した。密度は3月に最大になった。成長は4月から5月にかけてが最も速く,一日あたりの瞬間成長率は2.7-8.4%/dayであった。口腕部に受精卵とプラヌラ幼生を付着させた成熟個体は早ければ5月に,遅くとも7月には出現した。このような個体のうち,正常な個体で最小のものは直径14.3cmであった。傘の直径は1991年は8月に最大になり,平均20.1cmに達した。10月には体の各部が潰瘍状に損傷する個体が出現しはじめ,それにともない傘の直径は小さくなり,個体密度も減少した。しかし,一部の成熟個体は翌年の3月,長ければ翌年の5月まで生存した。こうした生活史は日本海側の敦賀湾における生活史とは異なり,ヨーロッパ,アメリカなどから報告された生活史とほぼ一致した。

 ミズクラゲの傘の直径と湿重量,乾重量,炭素量,窒素量の関係は,湿重量がWW=0.120DM2.63(WW=湿重量,DM=直径),乾重量は湿重量の2.02%,炭素量は乾重量の5.29%,窒素量は乾重量の1.58%であった。C/N比は3.41と低く,肉食性であることを示唆した。観音崎と富津を結ぶ直線よりも南側の外湾部には年間を通じてミズクラゲはほとんど分布しなかった。内湾部におけるミズクラゲの平均個体密度は,春から夏にかけて高く,10月以降は顕著に減少した。ミズクラゲの生物量は炭素量に換算して1990年7月に44.7mgC/m3,1991年5月には15.2mgC/m3,9月には11.7mgC/m3に達した。

2.ミズクラゲの摂餌生態

 ミズクラゲの主な餌はカイアシ類コペポダイト,枝角類,蔓脚類ノープリウスといった,中型の浮遊性甲殻類であった。胃内容物に占める個体数の割合は,Oithona davisaeコペポダイトが36.7%,その他のカイアシ類コペポダイトが7.3%,枝角類が15.6%,蔓脚類ノープリウスが15.7%と,これらの分類群だけで75.3%を占めた。平均体長が300mより小さいカイアシ類ノープリウス,二枚貝幼生,多毛類幼生,尾虫類に対する選択性はいずれも有意に負であり,濾水速度においても300m以上の餌に対する濾水速度をいずれも下回った。また,胃内に出現した個体の体長を環境中の個体の体長と比較すると,9分類群中6分類群で有意に胃内の個体の体長の方が大きかった。これらの結果は,ミズクラゲは微小な餌の摂餌に適しているとする従来の通説とは異なり,中型のプランクトンや魚卵,仔魚を効率的に捕食するとする最近の報告を支持した。

 ミズクラゲの消化時間は餌の分類群間で大きな違いはなく,20℃において2.5-4時間の間であった。20℃における直径4.3-11.2cmのミズクラゲの摂餌速度は,一日あたりOithona davisaeコペポダイトを1000個体,その他のカイアシ類コペポダイトを200個体,枝角類を430個体,蔓脚類ノープリウスを430個体と計算された。濾水速度はO.davisaeコペポダイトで12.5L/medusa/day,その他のカイアシ類コペポダイトで5.6L/medusa/day,枝角類で10.2L/medusa/day,蔓脚類ノープリウスで13.6L/medusa/dayであった。最大の濾水速度は魚卵での180L/medusa/dayであった。炭素量に換算した一日の摂餌要求量は体炭素量に対して1.0-20.2%,平均7.9%(s.d.=6.0)であった。ミズクラゲの呼吸量から求められる日間最小炭素要求量は体炭素量の7.9%であることが知られている。従って,今回得られた摂餌量は代謝量と成長量の合計を満たしていないが,胃内容物の解析に用いたミズクラゲはいずれも日中に採集されたことから,動物プランクトン密度の高くなる夜間において摂餌量が多くなることが予想された。

 ミズクラゲの単位体重当たりの摂餌速度が一定であると仮定し,現場の動物プランクトンの密度の概数を過去の資料より引用すると,ミズクラゲの一日あたりの摂餌圧はOithona davisaeコペポダイトでは夏季に現存量の0.1-3%,秋から冬にかけては現存量の0.001-0.1%,その他のコペポダイトでは夏季に現存量の3-40%,秋から冬にかけて現存量の0.02-0.3%に達すると試算された。この結果から,O.davisaeに対する摂餌圧は年間を通じて小さく,むしろその他のカイアシ類に対する摂餌圧が時に生産量に匹敵する程度に達することが示唆された。

3.東京湾における大型クラゲ類の水平分布と鉛直分布

 ミズクラゲは濃密な集群を形成するが,この集群は魚群探知機によって探査が可能であった。ネット採集で得られたミズクラゲの密度と魚群探知機の反応強度の間には正の相関が見られ,将来のデータの蓄積により現場密度の推定が可能であることを示唆した。魚群探知機による探査は特に集群の分布特性と,鉛直分布の解析に有効であった。ミズクラゲの集群は湾奥部に多く分布し,特に河口フロントの内側に多く分布することが明らかになった。ミズクラゲは多くの場合,表層から海底上50cmまでにわたる楕円上の集群を形成していた。

 ミズクラゲと近縁のアカクラゲ(Chrysaora melanaster)の分布の中心は内湾部の湾口部よりにあり,ミズクラゲが内湾部の湾奥部を中心に分布したのと対照的であった。この他にカブトクラゲ(Bolinopsis mikado)が分布していた。

4.東京湾湾奥部における小型クラゲ類の生態1)小型クラゲ類の季節変化

 東京湾湾奥部に位置する船橋沖では未報告の種類を含め,Rathkea octopunctata,Liriope tetraphylla,Muggiaea atlantica,Obelia spp.,Proboscidactyla ornata,Beroe cucumis,Aurelia aurita,Phialidium sp.,Phialidium chengshanense,Bougainvillia sp.,Podocoryne minima,Nemopsis dofleini,Spirocodon saltatorの13分類群が出現した。これらの種類のうち,暖水性のL.tetraphylla,M.atlantica,P.ornata,P.chengshanense,Podocoryne minimaはほぼ秋季のみに出現し,秋季の内湾水の鉛直大循環によって湾口部付近より湾奥部に流入したものと考えられた。冷水性種のR.octopunctata,N.dofleini,S.saltatorは冬季に出現した。R.octopunctataは2-3月,L.tetraphyllaとM.atlanticaは10-11月に卓越し,最大密度はそれぞれ588個体/m3,105個体/m3,48個体/m3に達した。

2)シミコクラゲ(Rathkea octopunctata)の摂餌生態

 シミコクラゲの野外での主な餌はカイアシ類のコペポダイトと枝角類であった。カイアシ類コペポダイトは胃内容物の50-70%を,枝角類は10-30%を占めた。傘の幅と胃内容物数の間には正の相関が認められ,水平曳採集から得られたクラゲの傘の幅と胃内容物数との関係はY=0.23X1.5で表された。10℃での消化時間はOithona davisaeのコペポダイトで約5時間,カラヌス目カイアシ類のコペポダイトで約7時間,枝角類で約8時間,多毛類および尾虫類で約4時間と推定された。お台場でのシミコクラゲの密度は1994年3月7日は6.1個体/m3,3月23日には0.9個体/m3であった。シミコクラゲはO.davisaeコペポダイトを0.4-6.5個体/m3/day,カラメス目コペポダイトを1.7-2.3個体/m3,枝角類を0.4-3.1個体/m3/day捕食した。シミコクラゲの密度の高かった3月7日でもカラヌス目コペポダイトに対する捕食は現存量の0.1%,枝角類では1.4-2.2%であった。1988年3月に船橋沖で記録された588個体/m3という高い出現密度では,シミコクラゲによる捕食の割合は極めて大きかったことが示唆された。

審査要旨

 クラゲ類は,食物連鎖の中で動物プランクトンの捕食者,魚卵や稚仔魚の捕食者あるいは餌の競合者として重視されるようになったが,定量的な研究は少なく,その個体群動態や生態系の中での役割は十分に解明されていない。また,東京湾では夏季にミズクラゲが大きな集群を形成し,漁網に損傷を与えたり,火力発電所の取水口に吸引され年によっては操業停止にいたるほどの深刻な被害を与えることが知られており,ミズクラゲの個体群動態の解明は社会的にも重要な課題である。

 著者は,東京湾における夏季の代表的な大型クラゲ類であるミズクラゲに注目し,クラゲ世代の季節的出現,成長,生物量,摂餌,分布についての生態的な特性を把握することによって,東京湾におけるミズクラゲ個体群の季節的変動,肉食者としての役割,集群形成機構を解明しようとした。さらに,東京湾のクラゲ類群集全体についても,季節的出現,摂餌などの生態学的な知見を得ることを試みた。論文は5章から成り,第1章の序論の後,以下のような結果を得ている。

 第2章では,東京湾の湾奥部に調査定点をとり,毎月1〜2回の調査を2年にわたり行い,ミズクラゲの出現,成長,成熟についての特性を把握した。また,東京湾全域に調査点をとり,季節ごとの調査を2年にわたり行い,ミズクラゲの生物量を把握した。エフィラ幼生は12月から5月にかけて水温が15℃以下になる時期に内湾部にのみ出現した。エフィラ幼生は2月から5月にかけて活発に成長し,成熟した雌は早ければ5月,遅くとも7月には出現した。10月には体の各部が潰瘍状に損傷し,収縮する個体が出現しはじめ,個体密度も減少した。一部の健常な成熟個体は翌年の3月,長ければ翌年の5月まで生存し,産卵を続けた。ミズクラゲの傘の直径と湿重量,乾重量,炭素量,窒素量の関係を求め,傘の直径と出現密度から生物量への換算を可能にした。ミズクラゲの分布は観音崎と富津を結ぶ直線よりも北側の内湾部にほぼ限られ,内湾部におけるミズクラゲの平均的な生物量は,5月下旬から9月上旬にかけて10〜50mgC/m3,その他の季節では0.1〜0.5mgC/m3であった。

 第3章では,採集により得られたミズクラゲの胃内容物の解析と室内実験による消化時間の測定により,食性と摂餌速度を明らかにし,他の動物プランクトンへの摂餌圧を推定した。ミズクラゲの主な餌はかいあし類のコペポダイト,蔓脚類のノープリウス,枝角類といった,中型の浮遊性甲殻類であった。ミズクラゲの消化時間は餌の分類群間で大きな違いはなく,20℃において2.5から4時間であった。20℃における直径4.3〜11.2cmのミズクラゲは,一日あたりOithona davisaeコペポダイトを1000個体,その他のカイアシ類のコペポダイトを200個体,蔓脚類のノープリウスを430個体,枝角類を430個体摂餌すると見積もられた。濾水速度はO.davisaeコペポダイトで12.5L/medusa/day,その他のかいあし類のコペポダイトで5.6L/medusa/day,蔓脚類ノープリウスで13.6L/medusa/day,枝角類で10.2L/medusa/dayであった。これらの値から計算された平均的摂餌圧は現存する主餌料生物の生産を上回ることはなかったが,10個体/m3程度の群れでは環境中の餌料生物の生産量をほぼ消費し尽くすと考えられた。

 第4章では,東京湾におけるミズクラゲの水平分布,鉛直分布の特性をネット採集および魚群探知機による調査により把握し,合わせて他の大型クラゲ類の分布に関する知見を得ている。ミズクラゲ,アカクラゲ,カプトクラゲは主に春から夏にかけて出現し,ウリクラゲは冬季に出現した。ミズクラゲは河口フロント域の低塩分側の先端部と,内湾上層剖の水塊の先端部に集積する傾向が見出された。河口フロント域でのミズクラゲの群れは潮汐とともに移動した。これらのことはミズクラゲの集積に海水の流動が大きな影響を与えていることを示した。ミズクラゲの群れは魚群探知機による探査が可能であり,その結果はネット採集で得られた結果とよく一致した。

 第5章では,東京湾湾奥部における小型クラゲ類の季節的な出現を船橋沖の調査定点における周年の採集より明らかにし,さらに冬季に卓越するシミコクラゲについて,胃内容物の解析と消化時間の測定より,食性と摂餌速度を解明し,動物プランクトン群集への摂餌圧を見積もった。東京湾湾奥部に位置する船橋沖では未報告の種類を含め,13の分類群が出現した。外洋暖水性の種類はほぼ秋季のみに出現し,秋季に頻発する内湾水の鉛直循環によって湾口部付近より底層水を通じて湾奥部にもたらされたものと考えられた。冷水性種は水温が10℃以下になる冬季に出現した。冬季にはシミコクラゲが卓越し,最大密度は588個体/m3であった。秋季にはカラカサクラゲとヒトツクラゲが卓越し,最大密度はそれぞれ105個体/m3,48個体/m3であった。シミコクラゲの野外での主な餌はかいあし類のコペポダイトと枝角類であった。10℃での消化時間はOithona davisaeのコペポダイトで約5時間,カラヌス目カイアシ類のコペポダイトで約7時間,枝角類で約8時間,多毛類および尾虫類で約4時間であった。シミコクラゲはO.davisaeのコペポダイトを0.4〜6.5個体/m3/day,カラヌス目かいあし類のコペポダイトを1.7〜2.3個体/m3,枝角類を0.4〜3.1個体/m3/day捕食した。カラヌス目かいあし類のコペポダイトに対する捕食は現存量の0.1%,枝角類では1.4〜2.2%であった。船橋沖では記録された588個体/m3というような高密度では,シミコクラゲによる捕食の割合はこの100倍程度に達すると考えられた。

 以上本論文は,富栄養内湾域生態系におけるクラゲ類の個体群動態および食物網内での肉食者としての重要性を明らかにしたもので,学術上,応用上の大きな貢献であることを認める。よって審査員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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