学位論文要旨



No 111269
著者(漢字) 西川,淳
著者(英字)
著者(カナ) ニシカワ,ジュン
標題(和) 浮遊性被嚢類、特にサルパ・ウミタル類の生態学的研究
標題(洋)
報告番号 111269
報告番号 甲11269
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1560号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水産学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 沖山,宗雄
 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 中田,英昭
内容要旨

 世界の海洋に生息するサルバ類,ウミタル類(脊索動物門,被嚢動物亜門,タリア綱)は代表的なゼラチン質動物プランクトンで,他の中・大型動物プランクトンと比べて摂餌速度,成長速度が高く,かつ世代時間が短いことが知られている。また,無性生殖世代と有性生殖世代の両方をもつことにより短期間に増殖することが可能である。外洋ではサルパ・ウミタル類は時には大量に出現し動物プランクトン生物量の過半数を占めることがあるが,その反面,体が脆弱で採集時の傷みも大きいことなどからこれまで分布生態などに関する知見は限られている。

 本研究では,これら浮遊性被嚢類の生態を主として分布の点から究明することを目的とし,日本近海から南極海にいたるさまざまな海域で種組成,現存量,季節変動、経年変動水平・鉛直分布を調査し,水温,塩分,餌濃度(クロロフィル量)などの環境要因との関係について論議するとともに摂餌,遊泳行動を解析し分布様式との相互関係について考察した。また基礎資料としてこれまで不明な点も多いサルパ・ウミタル類の分類,同定を円滑に行えるよう検索表を作成し,さらに化学組成,固定時の収縮などについても検討し新知見を得た。概要は以下の通りである。

1.日本近海に出現するサルパ・ウミタル類の分類と検索

 本研究により日本近海より13属28種のサルパ類と3属5種のウミタル類が出現することが明かになった。さらにこれまでの日本近海からの出現記録をまとめ各種の簡潔な記載を行うとともにはじめて分類検索表を作成しサルパ・ウミタル類の同定が円滑にできるようにした。

2.有機炭素含量および固定による動物体の収縮1)有機炭素含量

 浮遊性被嚢類の生物量を有機炭素量に換算して表示するため,サルパ類2種の有機炭素含量を世代別にCHNコーダー(柳本MT-2型)を用いて分析した。サルパ類の炭素含量(C)は体長(L)の増加とともに指数関数的な増加を示しa,bを係数とする関係式

 により表すことができた。得られたサルパ類の乾重量当りの炭素量は同じゼラチン質動物プランクトンであるヒドロクラゲ類や櫛クラゲ類とほぼ同様の値をとり,カイアシ類などの非ゼラチン質プランクトンと比べて低い値を示した。

2)ホルマリン固定による動物体の収縮

 ホルマリン固定標本の体長から生物量を推定する目的で,10%中性ホルマリン海水固定液中に保存したサルパ・ウミタル類4種の体長を4年間にわたり計測し,体の収縮率を求めた。収縮率は固定後の日数また種により異なり,固定1週間後の収縮率はサルパ類で0.96から0.98,ウミタル類で0.90であった。動物体は固定後数日間で急速に収縮し,その後は日数の経過とともに緩やかに収縮する傾向がみられ,収縮率(S)と固定後の日数(D)はcを係数とする以下の関係式で近似することができた。

 

3.太平洋諸海域および南大洋におけるサルパ類の種組成,現存量および分布様式

 中部赤道太平洋では,サルパ類全体の個体数密度および湿重量は,湧昇のある海域で高くなる傾向が見られた。一方,種組成は湧昇域とは明瞭に対応せず,海流系の違いを反映したと考えられる。卓越した3種,Thalia democratica,Iasis zonaria,Salpa fusifor misは異なる水平,鉛直分布様式を示した。

 西部北太平洋では,サルパ類の水平分布は調査海域を東西方向に区分するかたちで存在した塩分フロントの影響を受け,個体数密度はフロントの両側の側点で差がないが,湿重量はフロント付近で高くなる傾向が見られた。卓越種はThalia democraticaであった。

 中部北太平洋では,ほとんどの測点で表面から100m付近まで高温,低クロロフィル-a濃度の層が広がる中央水特有の貧栄養海域の様相を呈し,サルパ類の個体数密度と海況の間には明瞭な対応は認められなかった。しかしながら西経170度から160度の測点と東経163度の測点では異なる種組成を示し,この海域の間に東部北太平洋中央水と西部北太平洋中央水の境界が存在すると考えられた。

 南大洋ではサルパ類の湿重量は同時に採集されたナンキョクオキアミに匹敵した。ナンキョクオキアミがサウスシェットランド諸島周辺のクロロフィルーa濃度が高い陸棚域に集中して分布したのに対して,サルパ類Salpa thompsoniはクロロフィル濃度の低い沖合域に多く出現した。両者の分布が異なった原因としてサルパ類による小型オキアミに対する捕食と両動物プランクトンの摂餌特性の違いが示唆される。

 調査した4海域を比較すると,出現種数は赤道海域が13で最も多く,他の太平洋の2海域からも12とほぼ同じ種類が出現した。これに対して,南大洋からの出現種は2種のみでともにこの海域のみから採集された。一方,サルパ類の平均個体数密度は南大洋が19.7個体・m-2と最も高く,太平洋3海域に比べて数十倍の値を示した。平均湿重量でも南大洋が12.1g・m-2と最も高く,太平洋3海域は0.5g・m-2以下であった。以上のことから太平洋諸海域ではサルパ類は出現種類数が多く,一般的に動物プランクトン生物量が少ないといわれる中央水にも比較的多くのサルパ類が分布するが,南大洋では少数の固有種が著しく高い生物量を示し,種組成,生物量とも太平洋の他海域とは大きく異なることが明かになった。

4.本州東方海域におけるサルパ類の長期変動

 1983年から1993年にかけての11年間,本州東方海域(北緯37度から40度,東経142度から180度の範囲内)において,47-102測点を設けて5月中旬から6月にかけて動物プランクトンの採集を行いサルパ類個体数の長期変動を調べ海況との関係について論じた。出現したサルパ類の主要種は調査期間を通じてThalia democratica.Salpa fusiformisの2種であったが,両者の平均個体数の経年変動の様式には大きな違いが見られた。T.democraticaは増減を繰り返しながら徐々に個体数を増大させていく傾向を示したのに対して,S.fusiformisは2〜3年周期で個体数の多い時期と少ない時期を交互に繰り返す傾向が見られた。水平分布は年によって異なったが種による明かな違いは認められず,暖水と冷水のフロント域,表面水温16-17℃を中心とした黒潮系曖水が北に張り出した測点から多く出現した。

5.相模湾におけるサルパ・ウミタル類の生態学的研究1)種組成、鉛直分布および季節変動

 相模湾の定点(北緯35度、東経139度20分:水深約1480m)で1983年8月〜1991年9月の間に行われた計26回のネット採集試料から、サルパ類、ウミタル類ともに個体数は春から増加し夏から秋にかけて高い値を示すことが明らかになった。この原因として、水温が比較的高く躍層の崩壊により餌である植物プランクトンが水柱に豊富なことが考えられる。確認された全9種のうちサルパ類ではThalia democraticaとSalpa fusiformis、ウミタル類はDoliolum nationalisが卓越した。T.democraticaは全ての季節において100m以浅に出現し、水温躍層形成時には躍層内もしくはそれより上層に分布の極大をもち日周鉛直移動を行っていなかったが、躍層が形成されていない春の鉛直混合期には鉛直移動が認められた。これに対してS.fusiformisは有光層以深にも分布し一年を通して大規模な鉛直移動を行うことが明らかになった。ウミタル類D.nationalisでは世代により明らかに分布様式が異なっていた。有性生殖個体は0mか25mに分布の極大を持ちほぼ有光層以浅に分布していたのに対して、無性生殖個体は0mから1000mに到るまで低密度で一様に分布していた。このような世代による分布様式の違いは生殖行動と種の拡散に関連していた。

2)Salpa fusiformisおよびThalia democraticaの摂餌リズム

 1987年9月7-8日および1992年8月1-2日に相模湾で鉛直多層式ネットを用い卓越種S.fusiformis,T.democraticaを2〜3時間間隔で連続採集し、2種の消化管内に含まれる色素量を測定し摂餌の日周変化を追跡した。S.fusiformisでは色素量は夜半から増加し深夜に最高値に達し、以後は夕方まで徐々に減少した。一方、T.democraticaは夜半から色素量が増加しS.fusiformisに比べると早い時間に極大になり、明け方にかけて下降した後、昼間に再び増加し夕方にかけ減少した。すなわち日周鉛直移動をするS.fusiformisでは夜間に表層まで上昇した折に活発に摂餌を行うが、昼夜を問わず表層に生息するT.democraticaでは昼夜各1回の摂餌の極大をもつことが明かになった。従来のサルパ類の摂餌に関する研究では昼間に消化管内色素量が高くなるという報告が他種ではあるが夜間あるいは昼夜双方に高くなるという事実は本研究で得られた新知見である。

3)Salpa fusiformisの遊泳行動

 活発な日周鉛直移動を行うS.fusifromisの遊泳速度および筋肉帯の収縮のリズム(パルスレイト)をビデオ装置を用いて解析した。本種の遊泳速度は1.6-6.3cm・s-1、パルスレイトは1.3-3.1Hzであった。パルスレイトは小型個体ほど高くなる傾向が見られたが、遊泳速度とパルスライトあるいは体長との間には有意な相関は認められなかった。また単位炭素量当りで比較すると単独個体の方が連鎖個体より高い遊泳能力を持つことが示唆された。本研究で得られたパルスレイトは従来報告されている値と比べると高いが、この原因は動物をこれまでのようにフックなどで固定せず自由な状態にして計測したためと考えられる。本種の遊泳速度は大型種Salpa maximaとほぼ同じで、サルパ類の中では比較的速い方である。相模湾で観察された本種の分布中心深度の昼夜差は最大で300mであったが本観察で得られた遊泳速度で絶え間なく遊泳したと仮定すると1.3-5.2時間で移動が可能である。

審査要旨

 世界の海洋に生息するサルパ類、ウミタル類(脊索動物門、被嚢動物亜門、タリア網)は代表的なゼラチン質動物プランクトンで、他の中・大型動物プランクトンと比べて摂餌速度、成長速度が高く、かつ世代時間が短い。また、無性生殖世代と有性生殖世代の両方をもつことにより短期間に増殖することが可能である。この様な興味深い生物学特性をもつにもかかわらず、外洋域に多く、体が脆弱なことなどから、野外での分布に関する知見は非常に限られている。

 著者は、これら浮遊性被嚢類の生態を主として分布の面から究明することを目的とし、日本近海から南極海にいたるさまざまな海域で種組成、現存量、季節変動、経年変動水平・鉛直分布を調査し、水温、塩分、餌濃度(クロロフィル量)などの環境要因との関係について論議した。論文は7章からなり、第1章の序論の後、以下のような結果を得ている。

 第2章では、基礎資料として、これまで不明な点も多いサルパ・ウミタル類の分類、同定を円滑に行えることを目的とし、日本近海より出現するサルパ・ウミタル類の出現記録をまとめ、各種の簡潔な記載を行なった。その結果、13属28種のサルパ類と3属5種のウミタル類が出現することが明らかになった。さらにこれら全種を含む分類検索表を作成し、同定を可能にした。

 第3章では、フォルマリン固定標本の体長から生物量を推定する目的で、動物体の有機炭素含量の測定および10%中性フォルマリン海水固定液中に保存した個体の収縮率を求めた。サルパ類の炭素含量は体長の2から3乗に比例し、乾燥重量に対する炭素量の割合は管クラゲ類とは類似したが、甲殻類プランクトンよりも低かった。フォルマリン固定液中での収縮率は固定後の日数および種により異なり、固定一週間後の収縮率はサルパ類で0.96%から0.98、ウミタル類で0.90であった。動物体は固定後数日間で急速に収縮し、その後は日数の経過とともに緩やかに収縮した。

 第4章では、太平洋諸海域(中部太平洋赤道海域、西部北太平洋フィリピン沖海域、中部北太平洋)においてサルパ類の種組成、現存量、および水平分布を明らかにした。また、それらを総合して太平洋全体におけるサルパ類の群集構造について考察した。その結果、サルパ類全体の現存量は赤道湧昇、塩分フロントなどとよい対応を示したが、出現種には各海域で違いがみられなかった。各測点間の類似度(Pianka 1973の指数)マトリックスを作成し、最短距離法をもちいてクラスター分析を行なった結果、太平洋のサルパ類は(1)中央水に分布が対応し、構成種数は少なく、Iasis zonariaを中心とする少数の優占種による独占度が高い群集(Iasis群集)、(2)赤道水に分布が対応し、構成種数が多く、Thalia democraticaが最も優占するが特定種による独占度は低い群集(Thalia群集)、(3)地理的にはIasis群集とThalia群集の境界に位置し、類似度が低い群集、が認められた。

 第5章では、南極海のサウスシェットランド諸島周辺海域におけるサルパ類の分布をとくに現場で卓越したナンキョクオキアミとの違いに焦点をあてて調べた。サルパ類はナンキョクオキアミの次に卓越し、両者の水平分布は、サルパ類が沖合域、ナンキョクオキアミが沿岸陸棚域に分布し、明らかに異なった。この原因について、サルパ類の濾水速度、炭素要求量、現場の基礎生産量などから考察した。

 第6章では、本州東北沖で春季に11年間継続して採集された試料をもとに、サルパ類の種組成、現存量の長期変動を調べた。その結果、2種類のサルパ類が独自の経年変動を示しながら終始卓越し、出現した水温も両者の間で異なった。これらサルパ類は現場の基礎生産の平均29%を消費していると考えられ、現場海域での一次消費者としての重要性が示唆された。

 第7章では、相模湾中央部の定点において各季節に採集を行ないサルパ・ウミタル類の季節変動、昼夜鉛直分布を調べた。また、昼夜移動を行なった卓越種の遊泳速度等を解析した。さらに、連続採集を行ない卓越種の摂餌リズムを調べた。その結果、同湾ではThalia democraticaとSalpa fusiformisの2種のサルパ類およびウミタル類Doliolum nationalisが卓越することが明かとなった。また、それらの個体密度は春季にやや増加した後、秋季に著しく増加した。T.democraticaはすべての季節に100m以浅からのみ出現し、水温躍層内またはその上部に分布の極大をもち、混合期以外には鉛直移動を行なわなかった。また、摂餌リズムには昼夜2回のピークがみられた。一方、S.fusiformisは躍層下部にも極大をもち、季節を問わずより大規模な日周鉛直移動を行なうことが判明した。S.fusiformisの鉛直移動のスケールは遊泳速度からは説明可能であった。さらに、本種は夜間のみに摂餌を行なう傾向がみられた。ウミタル類D.nationalisの有性生殖個体は主として100m以浅に分布し、表層で分布の極大を示したが、無性生殖個体は明らかな分布の極大をもたずに0から1000mまで低密度で均一に分布し、世代による分布様式の違いが明らかになった。サルパ・ウミタル類の分布と環境要因の関係を種別に調べ、種による分布の特徴を考察するとともに、ウミタル類の特異な分布様式についての説明を試みた。

 以上本論文は、従来知見の少ない動物プランクトンのひとつであるサルパ・ウミタル類の分布生態及び外洋生態系内での重要性を太平洋から南大洋にいたる広大なフィールドで明らかにしたもので、学術上、応用上の大きな貢献であることを認める。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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