学位論文要旨



No 111307
著者(漢字) 盧,玟錫
著者(英字)
著者(カナ) ロ,ミンソク
標題(和) 酵母における生体膜構成リン脂質ホスファチジルエタノールアミン合成系に関する遺伝学的、生化学的研究
標題(洋) Genetic and biochemical analyses on the synthesis and role of phosphatidylethanolamine in yeast
報告番号 111307
報告番号 甲11307
学位授与日 1995.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1598号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高木,正道
 東京大学 教授 山崎,眞狩
 東京大学 教授 松澤,洋
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 助教授 太田,明徳
内容要旨 序章

 生体膜は細胞の構造体としてのみでなく、膜内外の物質交換、エネルギー生産、シグナル伝達等様々な機能を有している.このような生体膜を構成しているリン脂質については様々な面から研究がされつつあるが、まだその細胞内での機能に関しては不明な部分が多い.phosphatidylcholine(PC)、phosphatidylethanolamine(PE)、phosphatidylserine(PS)、phosphatidylinositol(PI)、sphingomyelin(SM)等が生体膜の脂質二重膜を形成する主要リン脂質であるが、膜のintegrity(完全性、統一性)の面において、リン脂質の極性基の役割の重要性が指摘されている.また、リン脂質の脂肪酸構成の変化は生育温度に対する膜の流動性の恒常性を維持する機能を有している.機能的な面においても、様々な膜酵素の補助的な働きの他に、PI、PC、SM等の分解経路がシグナル伝達経路に関与していることが明らかにされてきた.

 このようなリン脂質のうち、PEの合成経路としては、PSの脱炭酸、エタノールアミンとリン脂質極性基との置換、CDP-ethanolamine(CDP-Etn)の合成を経由するCDP-Etn経路(Kennedy経路)の3種が知られている.PEは広く原核生物と真核生物の膜における主要なリン脂質である.原核生物のPEはPSの脱炭酸により生成されるが、真核細胞ではそのほとんどがCDP-Etn経路により、一部はPS、PCのCa2+依存性極性基置換経路とPSの脱炭酸経路によって合成される.酵母ではPSの脱炭酸経路とCDP-Etn経路の両経路があるとされる(概略図参照).CDP-Etn経路は真核生物の主なPE合成経路として重要であるが、このCDP-Etn経路の制御段階であると考えられる、CTP:phospho-ethanolamine cytidylyltransferase(ECT)の作用機構と制御機構は不明であった.

Saccharomyces cerevisiaeにおけるphosphatitylethanolamine合成経路図

 本論文では以上のようなPEの役割と合成の調節を明らかにするために、酵母Saccharomyces cerevisiaeのECTをコードする遺伝子ECT1を単離し、その構造を明らかにするとともに、ect1変異株を用いてPEの酵母細胞における機能を解析した.

第1章ECT遺伝子の単離と構造解析1.ect変異株の分離

 酵母のPEはPSの脱炭酸経路とCDP-Etn経路から合成されるとされる.CDP-Etn経路によるエタノールアミンの利用ができない変異株を分離するためには、片方のPSの脱炭酸経路からのPE合成経路を停止する必要がある.しかし、PE合成経路の両方が欠損する変異株は生育できない可能性が予想されたので、GAL7プロモーターにPSシンダーゼをコードするCHO1遺伝子を結合して構築したプラスミドYCpGPSSを親株に持たせ、ガラクトース添加倍地ではPSの合成経路が働いて生育できるがグルコースのみを添加した培地では生育できないようにした.この菌株を変異誘発処理してエタノールアミンの利用ができない4株の変異株を得た.それらの変異株のECT酵素活性を測定した結果、3株の変異株ではECT活性がほとんど検出されなかった.この結果からこれら変異株はECT欠損株であることが確認された.これらの内の1株の変異は劣性で染色体上の単一遺伝子変異であったのでect変異とした.

2.ect変異を相補する遺伝子のクローン化

 ect変異株にura3を導入した変異株EU102/YCpGPSS株を宿主として、低コピーベクターであるYCp50上に作製した酵母遺伝子ライブラリーを検索した結果、エタノールアミンを含むグルコース培地で生育ができる4つの形質転換体からect変異を相補する3種の複合プラスミドを得た.これらの複合プラスミドから共通の約3kbのDNA断片を再クローン化してect変異株に導入してECT酵素活性を測定した結果、ECT活性が回復していた.この結果からこのDNA断片は野生型ECT遺伝子を含んでいることが強く示唆された.

3.ect相補遺伝子の構造と解析

 上記の約3kb DNA断片の塩基配列を決定した結果、この領域中に969塩基、323コドンからなるORFが見い出された.タンパク質データベースの検索の結果、この推定アミノ酸配列はS.cerevisiaeのCCT(CTP : phosphocholine cytidylyltransferase)、ラットのCCT、B.subtilisのtagD(CTP : sn-glycerol-3-phosphate cytidylyltransferase)と部分的に相同性を有した.このORFに対応する遺伝子(ECT1とする)の産物の推定アミノ酸構成は全体として特に疎水性ではないがC末端近くで疎水性の高い領域が見られた.ノーザン解析の結果、この遺伝子は実際に転写されているものと確認された。また染色体マッピングの結果、ECT1は酵母の第VII染色体上に存在することがわかった.

第2章ECT遺伝子の機能解析1.大腸菌でのGST(glutathione S-transeferase)-ECT融合タンパク質の高生産

 ECT1遺伝子産物を大腸菌で生産する為にgst-ECT1融合遺伝子高発現ベクターを構築した.大腸薗で発現した結果、予想された64.4kDaの融合タンパク質が多量に発現、検出された.その粗抽出液と精製したタンパク質の両方のECT酵素活性を測定した結果、本来大腸菌にはないECT酵素活性が検出された.この結果はECT1遺伝子が、実際にECTタンパク質をコードする構造遺伝子であることを直接的に証明している.大腸菌内での局在性を調べた結果、GST-ECT融合タンパク質は主として膜画分に存在していることがわかった.このことはECTには膜に結合する領域が存在することを示唆している.

2.遺伝子破壊法による解析

 半数体野生型酵母の染色体上のECT1遺伝子座の破壊を行ったところECT1遺伝子は必須の遺伝子ではなかった.このことはS.cerevisiaeではPSの脱炭酸によって生育に十分な量のPEが供給されていると考えられる.ect1遺伝子破壊株の[14C]エタノールアミンの取り込み量を測定した結果、野生株に比べ、ect1破壊株では14C標識の取り込みが抑制され、一定量以上には増加しなかった.ect1破壊株ではECTの欠損により、PEへのエタノールアミンの取り込みが抑えられ、結果として、細胞への取り込みが低下したと考えられる.これまでの実験結果から、当初のect変異はECT1遺伝子の変異であると考えられる.

第3章ect1 cho1の二重変異によるPE合成欠損の解析

 1.ect1 cho1二重変異株のリン脂質の組成

 PEの細胞内での機能を調べるためにはこのPEが正常に存在する条件と、存在しない条件での細胞の生理、形態を比較検討することが有益である.そこで、ect1とcho1の二重破壊による2つのPE合成経路の破壊が酵母細胞にどのような影響を及ぼすかを検討した.コリン含有培地でのect1 cho1二重変異株のリン脂質の組成を調べた結果、ect1 cho1二重変異株ではPEの含量が全リン脂質の2%以下に減少し(野生型株では22.6%)、PC、PIの量は増加した.ECT1を持つ多コピーベクターであるYEpECTを導入したところ、PEの量は正常に回復した.これは他のリン脂質が代償的に増加することを示唆する.また、PEの含量が2%未満であってもコリンを補えば酵母が生育できることが明らかとなった.

2.ect1 cho1二重変異株の生育上の解析

 ect1 cho1二重変異株がコリン含有最少培地で生育することは予想外のことであったが、その生育が非常に遅いので生育曲線を調べた。その結果、この二重変異株は野生型株あるいはcho1欠損株に比べて生育速度が1/2以下であり、OD550が1以上に増殖できなかった。この二重変異株の温度感受性を調べた結果、野生型株とPS合成を欠損するcho1変異株は37℃で正常に生育するのに対して、二重変異株は生育出来なかった.しかし、PEの欠損を回復させるYCpGPSSあるいはYEpECTを導入した場合、温度感受性は見られなくなった.このような結果からPEの合成は細胞の正常な生育に要求されると共に、高温における生体膜の機能に重要な役割を担っていることが真核生物では初めて示唆された.

3.ect1 cho1二重変異株の電子顕微鏡による構造の解析

 ect1 cho1二重変異株の生育速度の低下と温度感受性は、PE欠損による膜構造の変化に原因があると推測される.そこで、急速凍結置換法によって透過型電子顕微鏡で細胞内構造を観察した結果、二重変異株には、野生型株とcho1変異株では観察できないオルガネラの形態異常が観察された.PEの合成は細胞内の膜構造体の正常な形成とその維持に必要であると考えられる.

審査要旨

 生体膜は細胞の構造体としてのみでなく,膜内外の物質交換,エネルギー生産,シグナル伝達等様々な機能を有している。phosphatidylethanol amine(PE)は生体膜の脂質二重を形成する主要リン脂質である。本論文ではPEの役割と合成の調節を明らかにするために,酵母SaccharomycescerevisiasのECTをコードする遺伝子ECT1を単離し,その構造を明らかにするとともに,ect1変異株を用いてPEの酵母細胞における機能を解析した。

第1章ECT遺伝子の単離と構造解析

 変異誘発処理してエタノールアミンの利用ができなくECT活性がほとんど検出されない3株の変異株を得た。ect変異株を宿主として,YCp50上に作製した酵母遺伝子ライブラリーを検索して,ect変異を相補する3種の複合ブラスミドを得た。再クローン化してect変異株に導入した結果,ECT活性が回復していた。塩基配列を決定した結果,969塩基,323コドンからなるORFが見い出された。タンパク質データベースの検索の結果,この推定アミノ酸配列はS.cerevisiasのCCT(CTP : phosphocholine cytidylyltransferase),ラットのCCT,B.subtilisのtagD(CTP : sn-glycerol-3-phosphate cytidylyltransferase)と部分的に相同性を有した。推定遺伝子産物のアミノ酸構成は全体として疎水性ではないがC末端近くで疎水性の高い領域が見られた。ノーザン解析の結果,この遺伝子は実際に転写されているものと確認された。また染色体マッピングの結果,ECT1は酵母の第VII染色体上に存在することがわかった。

第2章ECT遺伝子の機能解析

 gst-ECT1融合遺伝子高発現ベクターを構築し,大腸菌で発現した結果,64.4kDaの融合タンパク質が多量に発現,検出された。ECT酵素活性を測定した結果,本来大腸菌にはないECT酵素活性が検出された。これはECT1遺伝子が,実際にECTタンパク質をコードする構造遺伝子であることを直接的に証明している。大腸菌での局在性を調べた結果,GST-ECT融合タンパク質は膜画分に存在した。このことはECTには膜に結合する領域が存在することを示唆している。

第3章ect1 cho1の二重変異によるPE合成欠損の解析

 PEの細胞内での機能を調べるためにはこのPEが正常に存在する条件と,存在しない条件での細胞の生理,形態を比較検討することが有益である。そこで,ect1の破壊株とect1 cho1の二重破壊によるPE合成経路の破壊が酵母細胞にどのような影響を及ぼすかを検討した。半数体野生型酵母のECT1遺伝子の破壊を行った結果,ECT1遺伝子は必須の遺伝子ではなかった。このことはS.cerevisiasではPSの脱炭酸によって生育に十分な量のPEが供給されていると考えられる。ect1遺伝子破壊株の〔14C〕エタノールアミンの取り込み量を測定した結果,ect1破壊株では14C標識の取り込みが抑制された。ect1破壊株ではECTの欠損により,PEへのエタノールアミンの取り込みが抑えられ,結果として,細胞への取り込みが低下したと考えられる。ect1 cho1二重変異株のリン脂質の組成を調べた結果,PEの含量が全リン脂質の2%以下に減少していた(野生型株では22.6%)。ect1 cho1二重変異株の生育曲線を調べた。二重変異株は野生型株あるいはcho1欠損株に比べて生育速度が1/2以下であり,ODが1以上に増殖できなかった。この二重変異株の温度感受性を調べた結果,二重変異株は生育出来なかった。しかし,PEの欠損を回復させるYCpGPSSあるいはYEpECTを導入した場合,温度感受性は見られなかった。このような結果からPEの合成は細胞の正常な生育に要求されると共に,高温における生体膜の機能に重要な役割を担っていることが示唆された。ect1 cho1二重変異株の生育速度の低下と温度感受性は,PE欠損による膜構造の変化に原因があると推測される。そこで電子顕微鏡で細胞内構造を観察した結界,二重変異株には,野生型株とcho1変異株では観察できないオルガネラの形態異常が観察された。PEの合成は細胞内の膜構造体の正常な形成とその維持に必要であると考えられる。

 以上本論文では,酵母S.cerevisiasにおけるPE合成系を解析し,PE合成の役割について新規の知見を得ており,これは学術上貢献することが少なくない。よって審査員一同は,申請者に博士(農学)の学位を授与してしかるべきものと判定した。

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